第10話

【万年筆はかく語りき】


 20XX年九月十七日、私は死んだ。享年二十五。


 死因は尊死であった。私の魂が天国に召された経緯を説明するには、話を数時間前に戻さなければいけない。


 午後四時。駅に到着した私はとっきーを待った。


 昔から「姫梨は悩み事とか無さそうでいいよね」とか「毎日幸せそうね」とか言われてきた。


 私だって女の子だ。鋼のメンタルもなければ感情を失ったゴーレムでもない。


 人並みに悩み、緊張だってする。それが大切な場面なら、なおさら。


 旧駅舎は待ち合わせにうってつけの場所だ。とっきーを待っている間、友達同士が、あるいはカップルが、すぐ横で落ち合っては仲よく去っていく。


 そんな光景を何度も見送った。


 いよいよかと思ったら、別の人で。そのたびに少しだけ緊張が解かれたような、早く来てほしいようなジレンマが生まれた。


 けれど、約束の時刻になってもとっきーが来ることはなかった。


 雨が降り出した。


 すごい雨だった。シャワーのような雨が地上に降り注ぎ、時間を追うごとに荒々しさを増していった。


 とっきーのことしか頭になかったから、天気予報に気を配る余裕がなかった。


 ひとつのことに夢中になると、ほかに意識が向かなくなる。私の悪い癖。


 それから十分、三十分……一時間。私は待ち続けた。


 でも、とっきーは姿を現さなかった。


 この雨だ、もし電車やバスを利用しているなら遅延しているかもしれない。もう少ししたらひょっこり顔をのぞかせる。


 そう自分に言い聞かせた。


 一方で、こんな悪天候になるなんて知らなかったとはいえ申し訳なく思う。私の約束なんか忘れて家に居てほしい。


 でも会いたい。


 相反する感情が屹立きつりつする。


 それからさらに一時間が経った。


 足早に帰路に就く人や、タクシーを捕まえる人が増えてきた。休憩スペースで雨宿りしていた人たちも次々に去っていく。


 私だけが取り残されていく。


 もし私がここを離れて、とっきーとすれ違いになったら、この土砂降りの中で彼女を待たせてしまうことになる。それだけは絶対に嫌だ。


 さらに一時間。外はすっかり暗くなっていた。


 私の不安を煽るように、夜の町に重い雨粒が絶えず降り注ぐ。まるで天の神様が地上を水没させようとしているみたいだった。


 鈍感な私でもその頃にはもう気づいていた。あぁ、彼女は来ないんだなって。


 悲しくないと言えば嘘になるけど、怒りもなかった。私が勝手にお願いしたことなのだから。


 なにか用事ができたのかもしれない。たとえば人手不足で緊急のシフトが入ったとか。


 それならそれでよかった。


 初めから私のことなんて眼中に無かったら? それはちょっぴり寂しいけど、雨の中を歩かせるよりずっとマシ。


 しかしそこで、嫌な予感が芽生えた。


 もし、来る途中でトラブルに巻き込まれていたら……。


 最初に頭をぎったのは交通事故。日本の交通事故の発生件数は年々減少傾向にあるものの、依然として三千人以上が年間で亡くなっている。


 交通事故は決して珍しいものではない。毎日どこかしらで起き、誰かが命を落としている。


 事件に巻き込まれた可能性だって否定できない。


 今日この瞬間、風町渡季という特定の人物が犯罪に巻き込まれる可能性は極めて低いものだ。けれど、絶対とは言い切れない。


 人の身になにが起きるかなんて誰にも……当事者にもわからない。私が一番よく知っていることじゃないか。


 切った指から血が止めどなく流れるように、嫌な予感を掠めた脳裏から不吉な思考が溢れていく。


 鞭で叩かれたように、駅をあとにした。



 台風レベルの本降りの雨になっていた。焦燥に駆られた私は夜の道を走った。


 とっきーのバイト先を訪れる。びしょ濡れのまま入店するのも気が引けたので、外から中を眺める。


 レジに彼女の姿はない。品出しもほかの店員さんがやっている。


 しばらく観察していたけど、バックヤードから出てくる気配もない。急なシフトが入ったわけではなさそうだ。


 一縷いちるの望みをかけてLysへ。店に入るやいなや、かすみさんが出てきて、乱れた私の姿に驚いていた。


「前に一緒に来た女の子、来てない?」

「来てないけど……なにかあったの?」


 最短のやり取りを済ませて、再び雨の町へ。心配するかすみさんの声が背中に届いたけど、一分一秒を争っていた。


 そのあとも夜の町を駆けずり回った。


 連絡先も知らず見当もない。こんな状態で出会えたら奇跡である。


 約束はもうどうでもよかった。


 ただ、とっきーに会いたい。とっきーの声が聞きたい。


 走り疲れて肺の味がする。足は棒のようにくたくたで、雨を吸って重くなったスウェットが追い打ちをかける。


 考え過ぎなのは自分でもわかっている。きっと今頃、とっきーは自宅にいるのだ。  

 こんな大雨の中、走り回っている私が正気じゃないんだ。


 明日、出直して用件を伝えればいいじゃないか。ちゃんと謝って、今まで通り会えばいいじゃないか。


 深夜にふたりで会っていた、あの頃みたいに。


 とっきーが事故に巻き込まれたかもしれないと思った瞬間、居ても立っても居られなくなった。一抹の不安が的中する確率なんてずっと低いはずなのに、冷静さを欠いた愚かな私は、こんな無意味な行動を取っている。


 もしこの世界がボードゲームのような造られた世界で、神様や宇宙人が外界から観測しているとしたら、私を見てお腹を抱えて笑っているに違いない。


 もういいじゃないか。


 そう自分に言い聞かせて、足取りを自宅の方角に向けて歩き出したときだった。視界を遮るような雨の中でも、その後ろ姿は燦然さんぜんと輝いて見えた。


 疲労困憊の体に力が漲る。最後の力を脚にこめて、喉から声を張り上げた。


「とっきー!」


 一度目は聞こえなかったみたいだけど、二度目の呼びかけに彼女は振り向いた。驚いた表情をしていた。


 走り寄って、手を握った。私の手は冷え切っていたけど、とっきーの手も冷たく感じた。


「あんた……」

「よかった……。事故にでも遭ったんじゃないかって、心配して……」


 本心から出た言葉だった。


 *


 はい、回想終わり。


 どう? 私が死亡した経緯がわかった?


 え、わからない? なんでよ!


「あんた、さっきから誰と話してるの?」

「きょえええええ!?」


 扉一枚隔てた声に、私の魂は黄泉の国から現世に還ってくる。


「と、ととと、とっきー!? どうしたの!?」

「いや、タオルと着替えここに置いておくから」

「う、うん! ありがとう!」


 くもりガラスの向こうでとっきーの人影が動くのが見えた。


(え、ちょっと待って……。え、え、え、えええええ!?)


 魂が蘇生して、現状を把握しようと努める。


 唯一わかるのは、ここが浴室ということ。でも私の家ではない。


 依然として弱まる気配を見せない雨が遠くに聞こえるくらいに、浴室は静寂に満たされていた。お湯を立てる音が心地よく響く。


 そんな外の世界から隔離された狭い空間で、私は温かい湯船に浸かっている。生まれたての姿で。


 思い出した。


 雨に濡れて弱っていた私は、そのままとっきーの家に連れて行かれたのだった。

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