第9話
次に目を覚ましたとき、部屋は真っ暗だった。
ずいぶんと寝たおかげで
動き出した脳がひとつの約束を思い出させる。
「……ヤバっ!」
反射的に飛び起きて、慌ててスマホを手に取る。
午後七時三十分という表示を見て、瞬発的に加速した鼓動が鳴り止む。ベッドの上で脱力する。
五感が蘇ってくると窓の外から雨の音がした。天気アプリの予報は更新されていて、夜の九時以降は本格的な強雨になり、一時間あたりの降水量は十ミリを超すという。
八重城との待ち合わせは夕方の五時。約束を完全にすっぽかしてしまった。
彼女からのメッセージは届いていない。連絡先を交換していないから当然だ。
今からでも行くべきか? いいや、二時間以上も過ぎている。
抜けているあの女でもさすがに帰っている。もうどうにもならない。
そもそも、あたしは行くなんて返事はしていない。
……そうだ。向こうが一方的に呼び出しただけで、あたしは承諾なんかしていない。こちらの返答も聞かずに押し付けたあいつにも非がある。
それに用事があるなら、あの日に直接言えばよかったんだ。
……そうだ、あたしは悪くない。
一度言い訳を並べると止まらない。
八重城のことだからどうせまたバイト先に顔を出すだろう。そのときに謝ればいい。
それでいいんだ。
*
あたしはなにをしているのだろう。
午後八時四十二分。約束の時刻からもうすぐ四時間が経とうとしていた。
傘を破りそうな雨の槍が降り注ぎ、コンクリートの道には水たまりが広くできている。
こんな天気なので人も少ない。屈強なお店はまだ営業していて、お店の光が水たまりの中で揺らめいていた。
土砂降りの中、あたしは夜の町を歩いている。
どうして? いや、白を切るのはよそう。
あたしは国立駅に向かっている。八重城が指定した、駅前の旧駅舎に。
どうして?
彼女がいないことを確かめるため? 一応現地に向かったけど、着いた頃には八重城は帰ったあとで……という言い訳を作るため?
歩調は早くなったり、
何度も踵を返して家に戻ろうとした。回り道をして意味のない時間稼ぎをしようともした。
そんな不毛な行動を繰り返しながらも、足は少しずつ約束の場所を求めていく。
「なにがしたいんだ、あたしは」
八重城はもう居ない。でも、もしもまだ居たらどうする?
なんて声を掛ければいい?
いや、居るわけがない。
もう四時間近く経つし、こんな悪天候だ。返事もしていない相手を待ち続けるほうがどうかしている。
予報に従うように、雨はその強さを増していく。
理性と喧嘩するように歩を進める。
あたしを突き動かすのはなんだろう?
約束を反故にした罪滅ぼしだろうか? 彼女の夢を壊した償いだろうか?
いずれにせよ、あたしには関係ない。全部あいつの都合なのだから。
「そうだ、あたしには関係ない……」
九月の中旬。残暑を忘れた夜はひどく冷えた。
*
何度も引き返そうとして、何度も遠回りして、あたしは国立駅に到着した。まっすぐ向かえばそれほど遠くない距離なのに、着いたときには午後九時半を過ぎていた。
仕事を終えた会社員が駅から出てきては、横殴りの雨の中を帰路に就いていく。家路を求める人たちとすれ違いながら、足先を小さな建物に向ける。
国立駅の旧駅舎。赤い三角屋根のこじんまりした駅舎だ。
当時の面影をそのままに数年前に再建された旧国立駅舎は、今は休憩所やイベントスペースとして開放されている。
もしも八重城がまだ居たらどうしよう。その不安は最後まで消えなかった。
スニーカーの底がぐっしょり水没している。この期に及んで足取りが重いのは浸透した雨だけのせいではないことを、自分がいちばん理解していた。
そして、駅舎の前までやってきた。もう後には引けない。
意を決して中に入った。
そこには――
「…………」
誰もいなかった。
長らく人が滞在した痕跡のない冷え切った休憩スペースがあたしを出迎えた。
室内に入った瞬間、外に降り注ぐ雨音がより大きく聞こえた。
「……バカみたい」
駅周辺の店も次々に閉店作業を始めていて、この駅舎も数分後には閉館する。
傘でカバーしきれなかった肩や背中から水滴が落ちる。急に自分が惨めに思えてきた。
あいつだっていい歳した大人だ。あたしが約束の時刻に訪れず、天気が悪くなるやいなや帰ったんだ。
あいつがあんな真面目な顔で言うものだから勘違いしてしまったけど、そこまで重要な用事ではなかったんだ。よく考えれば、出会ったばかりのあたしと彼女の間に重要な用事など起こり得ない。
結局、一方的に八重城のペースに巻き込まれたあたしの一人相撲じゃないか。
*
出歩いている人の数はさらに減った。あたしは力のない足取りでとぼとぼ帰る。
ひどく疲れた。
雨の勢いは弱まる気配を見せず、避難指示も発令された。台風並みの雨風だ。
午後十時。いつもならバイトに行く時間だけど、今日は休み。
楽しさとは無縁の仕事だけど、今日だけは無心で働いていたかった。
「帰ってなにしよう……」
夜型のあたしにとってはこれからが活動時間だ。けれど気分が優れない。
八重城の一件が尾を引いているのもあるけど、それだけが原因じゃない。
例のアニメPVがすべてを狂わせた。過去を清算できていないと思い知らされた。
「――っ!」
遠くの背後から人の声がした。
外界を閉ざすような雨しぶきの中でも、その声は雨の弾幕をくぐり抜け、正確にあたしの耳朶を捉えた。
「とっきー!」
弾かれたように振り向く。声の主が……八重城が水たまりを蹴って、こちらに走ってくる。
「なんで……」
気づいたら、あたしの靴底も地面を離れていた。一心不乱に走って、道の真ん中で落ち合う。
八重城は膝に手をついて肩で息をした。
傘もささず、髪はびしょ濡れ。スウェットは重い水分を吸っている。
「あんた……」
痛々しい姿に言葉が詰まる。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
どんな叱責も受け入れよう。そう心を固めたのに、あたしの小さな決意すら八重城は許してくれなかった。
だって、彼女の第一声が予想のどれとも異なっていたから。
「よかった……。事故にでも遭ったんじゃないかって、心配して……」
いつもの彼女には似つかわしくない弱々しく、それでいて安堵に満ちた声。濡れた前髪の隙間からのぞく瞳は、今夜の水たまりのように揺れている。
八重城はあたしの手を取り、あたしの胸に顔を預けた。
「よかった……。ほんとに、よかった……」
雨に打たれる中、あたしはなにも言えず、八重城に手を握られて立ち尽くしていた。
ひどく温度を失った、彼女の両手に包まれながら。
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