大雨

 次に目を覚ましたとき、部屋は真っ暗だった。


 ずいぶんと寝たおかげで体の不快感は治まっていた。が、再び動き出した脳がひとつの約束を思い出させる。


「……ヤバっ!」


 反射的に飛び起きて、慌ててスマホを手に取る。


 午後七時三十分という表示を見て、一瞬だけ激しく鼓動した心臓は鳴り止み、ベッドの上で脱力する。


 五感が蘇ってくると窓の外から雨の音がした。天気アプリの予報は更新されていて、夜の九時以降は本格的な強雨になり、一時間あたりの降水量は十ミリを超すという。


 窓を叩きつける雨粒を眺めながら、あたしは八重城との約束を思い出していた。あいつが待ち合わせに指定してきたのは夕方の五時。約束を完全にすっぽかしてしまった。


 彼女からのメッセージは届いていない。連絡先を交換していないのだから当然だ。


 今からでも行くべきか? いいや、二時間以上も過ぎている。抜けているあの女でも、さすがに帰っている。今さら行ってもどうにもならない。


 そもそも、あたしは行くなんて返事はしていない。そうだ。向こうが一方的に呼び出しただけで、あたしは承諾なんかしていない。こちらの返答も聞かずに押し付けたあいつにも非がある。それに、本当に重要な用事なら、あの日に直接言えばよかったんだ。


 ……そうだ、あたしは悪くない。


 一度言い訳を並べると止まらない。あいつのことだからどうせまたバイト先に顔を出しに来るだろう。そのときにでも謝ればいい。


 それでいいんだ。


 *


 あたしはなにをしているんだろう。


 しばらくして、あたしは町の中を歩いていた。傘を貫通してくるような雨の槍が降り注ぎ、コンクリートの道には水たまりが広くできている。こんな天気なので、さすがの東京でも人通りは少ない。お店はまだやっていて、明るいお店の光が水たまりの中で揺らめいていた。


 午後八時四十二分。


 約束の時刻からもうすぐ四時間が経とうとしていた。約束は破られた。承諾してないから、正確には約束でもないんだけど。すでに終わってしまったことだし、あたしが気にする必要は微塵もない。頭の中でちゃんとわかっている。


 それなのに、あたしはこうして夜の町を歩いている。こんな土砂降りの中をあてもなく歩いている。


 いや、白を切るのはよそう。あたしはきっと国立駅に向かっている。八重城が指定した、駅前の旧駅舎に。


 どうして? ……わからない。


 彼女は間違いなく、もう居ない。今さら行ったところでなんにもならない。


 じゃあ、どうして?


 彼女がいないことを確かめるため? 一応現地に向かったけど、着いたころには八重城は帰ったあとで……という言い訳を作るため?


 歩調は早くなったり、躊躇ためらいから遅くなったりした。何度も踵を返して家に戻ろうとしたり、道の角を曲がって知らないお店に入ろうとしたりした。そんな無為な行動を繰り返しながらも、足は少しずつ約束の場所を求めていく。


「なにがしたいんだ、あたしは」


 八重城はもう居ない。でも、もしもまだ居たらどうする? なんて声を掛ければいい? いや、居るわけがない。もう四時間近く経つし、こんな土砂降りの中だ。返事もしていない相手を待ち続けているほうがどうかしている。


 予報に従うように、雨はその強さを増していく。


 理性と喧嘩するように、歩を進める。あたしを突き動かすのはなんだ? 約束を反故にした罪滅ぼしか? あの日、彼女の夢を壊した償いか? どちらにせよ、あたしには関係ない。全部あいつの都合なのだから。


「そうだ……、あたしには関係ない……」


 九月の中旬。残暑を忘れた夜はひどく冷えた。


 *


 何度も引き返そうとして、何度も遠回りして、あたしは国立駅に到着した。まっすぐ向かえばそれほど遠くない距離なのに、結局、着いたときには午後九時半を回っていた。


 人の数はいつもよりずっと少ない。仕事を終えた会社員がぽつぽつと駅から出てきては、横殴りの雨の中を帰路に就いていく。家路を求める人達とすれ違いながら、足先を小さな建物に向ける。


 国立駅の旧駅舎。赤い三角屋根のこじんまりした駅舎。当時の面影はそのままに、数年前に再建された旧国立駅舎は、今は休憩所やイベントスペースとして地元民に愛されている。


 もしも、八重城がまだいたらどうしよう。その不安は最後まで消えなかった。焦燥に駆られた内心とは裏腹に、足取りは鈍かった。


 スニーカーの底はぐっしょり濡れていて、歩くたびにちゃぽんちゃぽんと音がする。足取りが重いのは浸透した雨だけのせいではないことを、自分がいちばん理解していた。


 そして、駅舎の前までやってきた。もう後には引けない。意を決してラウンジの中に入る。そこには――


「…………」


 誰もいなかった。


 長らく人が滞在した痕跡のないひどく冷え切ったラウンジがあたしを出迎えた。室内に入った瞬間、外に降り注ぐ雨音が今までよりも大きく聞こえた。


「…………ばかみたい」


 駅周りの店も次々に閉店作業をはじめていて、この駅舎も数分後には閉館する。しかもこんな大雨だ。出歩いているほうがどうかしている。


 傘でカバーしきれなかった肩から水滴が落ちていく。急に自分が惨めに思えてきた。


 あいつだっていい歳をした大人だ。あたしが約束の時刻に訪れず、天気が悪くなるやいなや帰ったんだ。


 あいつがあんな真面目な顔で言うものだから勘違いしてしまったけど、そこまで重要な用事ではなかったんだ。よく考えれば、出会ったばかりのあたしと彼女の間に重要な用事など起こり得ない。


 結局、一方的に八重城のペースに巻き込まれたあたしの一人相撲。


「なにをやってるんだ、あたしは……」


 *


 帰り道にすれ違う人の数はさらに減った。東京のベッドタウンの町中をトボトボと帰る。


 ひどく疲れた。


 雨の勢いはさらに増していた。さきほど注意報も発令された。台風並みの雨風だ。


 午後十時を回った。いつもならこれくらいの時間にバイト先に向かうのだが、今日は休み。生活のために仕方なくしている夜勤だけど、今日だけは無心で働いていたかった。心にぽっかり空いた穴をうめるために。


「帰ってなにしよう……」


 夜型のあたしにとってはこれからが活動時間だけど、気分が優れない。八重城の一件が尾を引いているのもあるけど、問題はそれだけじゃない。例の、新作のアニメPVを見て、すべてが狂った。未だに過去を精算できていないことを否応なく諭された。


「なにも変わってないんだな……」


 そんなことを考えながら水たまりの夜道を歩いているときだった。


「――っ!」


 遠くの背後から人の声がした。外界を閉ざすような雨しぶきの中でも、その声は雨の弾幕をくぐり抜けて、正確にあたしの耳朶を捉えた。


「とっきー!!!」


 弾かれたように振り向く。


 予感めいたものはあった。でも、認めたくなかった。考える暇も与えてくれない勢いで、声の主は水たまりを蹴って、目の前まで走ってくる。


「なんで……」


 あたしの目は次第に見開かれていく。彼女が――八重城が一心不乱にこちらに走ってくる。


 あたしのほうからも駆け寄るべきだったのかもしれない。けれど、あの娘の姿を見た瞬間、足の底が地面に貼り付いたかのように、その場から動くことができなかった。

 

 やがて、あたしのもとにたどり着くと、彼女は膝に手をついて肩で息をした。傘もささずに、髪はびしょ濡れ。スウェットは重い水分を吸っていた。痛々しい姿に言葉が詰まる。


「あんた……」


 彼女は、ゆっくりと顔を上げる。


 怒られると思った。軽蔑されると思った。推しとしてだけではなく、約束すら守れない一人の人間として。


 どんな叱責も甘んじて受けよう。そう心を固めたのに、あたしの小さな決意すら八重城は許してくれなかった。だって、彼女の第一声が予想のどれとも異なっていたから。


「よかった……。事故にでも遭ったんじゃないかって、心配して……」


 いつもの彼女には似つかわしくない弱々しく、それでいて安堵に満ちた声。濡れた前髪の隙間からのぞく瞳は、今夜の水たまりのように揺れていて。泣いているように見えたけど、それが涙なのか、雨の雫なのか判別できなかった。


 八重城はあたしの手を取り、あたしの胸に顔を預けた。


「よかった……。ほんとに、よかった……」


 雨に打たれる中、あたしはなにも言えず、八重城に手を握られて立ち尽くしていた。


 ひどく温度を失った、彼女の両手に包まれながら。

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