第8話
【渡り鳥はかく語りき】
「悪いことしちゃったかな……」
午前二時。レジ下のアメニティを補充しながら自問する。
あれから数日が経った。あの日以来、八重城はうちに来なくなった。
「べつに店に来るなとは言ってないじゃん。あたしはただ公私混同するなって言っただけで」
アイドルはみんな偽りの自分を演じている。仕事と人気を獲得し、業界に生き残るために必死だ。
それは悪いことではない。アイドルに限らず、人は社会で生き残るために色々な顔を持たなければいけない。
猫を被ろうと、最後に生き残っていれば正義になる。
だから、業界にしがみつけなかったあたしは負け組だ。
そして引退してなお、ネットで声の活動を続けている未練がましい女。
風町渡季は、リアルのあたしとはかけ離れた存在。八重城がそこの線引きを乱してプライベートに介入してくるから一喝入れてやった。
あたしは間違ったことをしていない。アイドル業を営む者として正当な行動を取った。
同じ世界に生きている同業者や関係者ならきっとあたしの行動を評価してくれる。
出過ぎたマネをしたのはあっちのほう。彼女が嘆こうが失望しようが、あたしの知ったことではない。
なのに……。
あたしの気持ちは晴れない。雨の日の濁った川のような色をした感情が、ずっと胸の中で渦巻いている。
風町渡季は創作キャラだ。でも、そんな作り物をあいつは好きだと言ってくれた。
ひとりのファンの憧れを砕いた罪悪感が募っていく。
少し言葉が強すぎたかもしれない。もっとほかに伝え方があったかもしれない。
時間が経つほどに心の亀裂から後悔の念が侵食してくる。
備品も補充して、フライヤーとコーヒーマシンの清掃も終わった。
レジの反対側にある時計を見ても時間は全然経っていなかった。
客は忘れた頃にぽつぽつ来るだけ。都内といっても、郊外で深夜となれば閑散とする。
「バイトの時間、こんなに長かったっけ……」
ほとんど接客をせずに時給が高いことを見越してコンビニ夜勤を選んだのだから、これはこれで自分が望んだ形ではある。
けれども、静寂の時間が罪悪感を増幅させる。
「ああもう! なんであいつのことばかり考えてるの……っ!」
数日前までは赤の他人だった。今だって風町渡季の素性がバレたという点を除けば、それ以上の接点はない。
なのに、どうしてあたしは八重城のことばかり考えてしまうんだ。
自分にも、あの女にも腹が立つ。
こういうときは体を動かすことでしか苛立ちを解消できない。そう思ってさっき清掃したばかりの床をもう一回モップがけしようとしたときだった。
入店音がして自動ドアが開く。真っ暗な外から姿を現したのは、ひとりの女の子。
思わず二度見してしまった。今まさにあたしの思考を支配していた、その迷惑な女性客のことを。
「……八重城」
言葉を交わさずに見つめ合う。軽快な店内BGMが沈黙を埋める。
いつも通りの彼女がそこにいた。いつも通りの部屋着で、いつも通り二つ結びに束ねた髪を両肩に垂らして。
いつもと変わらない八重城姫梨。ただ一点、彼女の表情を除いて。
きつね色の瞳に宿った強い意志が、先日までのようにただ遊びに来たわけではないことを雄弁に語っている。
八重城は陳列された商品に目もくれず、まっすぐにこちらに歩いてくる。レジ越しに対面した。
「週末、シフト入ってる?」
「いきなりなんなの」
挨拶もなしに訊ねる八重城に少し苛立つ。
「週末! シフト入ってる!?」
声量を二段階も上げて、八重城は同じ質問をした。
「入ってないけど」
「じゃあ、週末の夕方五時に駅前に来て。旧駅舎」
「どうしてよ」
「話があるから」
「ここで話せばいいじゃない」
「今はまだ無理。ちょっと準備があるから。待ち合わせ、約束だよ」
「なに勝手に決め――」
「週末! 夕方五時! 駅前の旧駅舎!」
一方的に吐き捨てて、走り去ってしまった。
「……なんなのよ」
*
週末はあっという間に訪れた。
この数日間、あたしは不機嫌だった。理由なんてひとつしかない。あの女だ。
勝手に待ち合わせを取り付けてきて、こちらの意見も聞かず帰っていったあの女。
(あいつに振り回されてるみたいでムカつく)
電気ケトルに水道水を入れてスイッチオン。自炊する元気がないので、沸騰したお湯でカップスープを作る。
ノートPCを立ち上げて、少し遅めの昼食にありつく。約束の時刻まで二時間ほどあるのでラジオの編集でもしようと思ったけど、イマイチ気分が乗らない。
あいつに従う義理なんてないけど、なんだかんだ出かける支度をしてしまった。八重城がこれまでの行いを反省して下手に出れば、あたしも謝ってあげてもいいと考えている。
YuriTubeで面白そうな動画を探していたら天気アプリの通知が届いた。
「今夜から雨なんだ」
秋雨前線の影響で、それなりの大雨になるらしい。カーテンを開けるとずっしりとした曇天。
予報では夜にかけて雨が降り出すらしいけど、午後三時の現時点ですでに泣き出しそうな空模様だ。
八重城との待ち合わせは夕方の五時。彼女の用件はわからないけど、雨が酷くなる前に帰ってくるほうがよさそうだ。
「ん?」
YuriTubeを眺めていたら、ひとつの動画が目に留まった。来年一月から放送開始される『アビサル・フェアリーズ』のPVだ。
童話のようなファンタジー色強めの作画だけど、戦闘シーンは迫力があって息を呑む。間違いなく冬アニメ筆頭の人気作品になるのがこの短い告知動画だけで伝わってくる。
それはいい。あたしの意識は別のところに向けられていた。
PVに登場したキャラクターの声が鼓膜にこびり付いたのだ。動画の最後にキャスト情報が表示された。
マーレ――CV:朱羽紅音
マーレは本作のメインヒロインにあたる。
CVはキャラクーボイスの略。つまり、紅音がアビフェアの主役を務めるということになる。
「…………」
PVをもう一度再生する。元同僚の迫真の演技に心を奪われる。
胸に重さを感じた。
虚無感? 孤独感? 劣等感?
それらはどれも当たっているようで、どれもあたしの気持ちを的確には表してくれない。
禍々しい感情が驚くべき速度で胸の中を蝕んでいく。
椅子から立ち上がり、ダンボールを引っ張り出す。目的のものはすぐに見つかった。
カビ臭い匂いを
もう掘り起こしてはいけないとわかっていたのに、同期が活躍するPVを見て、昔の台本を手に取ってしまった。表面の埃を払って第一話の台本をパラパラめくる。
「懐かしいな……」
目に飛び込むのは雑多な書き込み。登場人物の心情、音響監督からの修正箇所、なんのために書いたか憶えていない記号や落書き。
アニメをやっていたのがつい昨日のことのようにも思えるし、遥か昔のことのようにも思える。
この台本はあたしの宝物だった。それが、今のあたしには凶器に映る。
だってそうでしょう? 本物の宝物なら幸せな気持ちにさせてくれるはずだもの。
めくればめくるほど、当時の情景が蘇ってくる。
部屋で何度も台本を読み込んだ日々。監督さんから指導されながら緊張して臨んだ収録。ほかのキャストと励んだ自主練の数々。
それらは宝物という名の思い出であるべきなのに、幸せな記憶で終わらせてくれない。明確な悪意を持って、あたしに襲いかかる。
「うっ……」
胃液が逆流して、口を抑えてトイレに駆け込む。間一髪のところで床を汚さずに済んだ。
ほら、やっぱりだめだ。やっぱりこれは宝物なんかじゃない。
捨てればいいのに、未練がましくこうして保管してある。
部屋に戻ってベッドに倒れ込んだ。あたしの意識はそのまま深い沼に落ちていった。
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