宝物なんかじゃない
【渡り鳥はかく語りき】
「悪いことしちゃったかな……」
午前二時。レジ下のおしぼりを補充しながら自問する。
あれから数日が経った。あの日以来、八重城はうちに来なくなった。
「べつに店に来るな、なんて言ってないじゃん。あたしはただ公私混同するなって言っただけで」
アイドルはみんな偽りの自分を演じている。仕事と人気を獲得し、業界に生き残るために必死だ。それは悪いことではない。アイドルに限らず、人は社会で生き残るために色々な顔を持たなければいけない。仮面を被ろうと、最後に生き残っていれば正義になる。
だから、業界にしがみつけなかったあたしは負け組だ。
風町渡季の名を捨て、扇ひばりとして今後は生きていくこともできたはずなのに、退いてなお、まだ声優活動をしている。
風町渡季は創作キャラであり営業だ。本当のあたしとはかけ離れた存在。リアルのあたしと一緒にされても迷惑だ。
八重城がそこの線引きを乱してプライベートに介入してくるから一喝入れてやった。あたしは間違ったことはしていない。アイドル業を営む者として正当な行動を取った。同じ世界に生きている同業者や関係者ならきっとあたしの行動を評価してくれる。
出過ぎたマネをしたのはあっちのほう。彼女が嘆こうが失望しようが、あたしの知ったことではない。
なのに……。
あたしの気持ちは晴れない。雨の日の濁った川のような色をした感情が、ずっと胸の中で渦巻いている。
風町渡季は創作キャラだ。でも、そんな作り物であっても、あいつは好きだと言ってくれた。自分の気持を飾らず伝えられる彼女であっても、面と向かって好意を伝えるのは勇気がいることだっただろう。
あたしは彼女の憧れだった。そして、それを壊した。一人のファンの想いを無下にし、夢を砕いた罪悪感が募っていく。少し言葉が強すぎたかもしれない、もっと他に伝え方があったかもしれない……時間が経つほどに亀裂が入った心の隙間から後悔の念が侵食してくる。
備品も補充して、フライヤーとコーヒーマシンの清掃も終わった。体に染み込んだルーティンは時間の概念を介さない。飲料コーナー上の時計を見てもまだ数十分と経っていなかった。客はいつも通り忘れた頃にぽつぽつ来るだけ。都内といっても、郊外で深夜となれば閑散とする。まぁ、ほとんど接客をせずに済んで時給が高いことを見越して、コンビニ夜勤を選んだ経緯はあるのだけれども。
「バイトの時間、こんなに長かったっけ……」
静寂の時間が罪悪感を増幅させる。
「ああもう! なんであいつのことばかり考えてるの……っ!」
数日前までは赤の他人だった。今だって風町渡季の素性がバレたという点を除けば、とりわけそれ以上の接点はない。なのに、どうしてあたしは八重城のことばかり考えてしまうんだ。
自分にも、あの女にも腹が立つ。
こういう時は体を動かすことでしか苛立ちを解消できない。そう思って、一時間前に清掃しばりの床をもう一回モップがけしようとした、その時だった。
「しゃいませー……」
入店音がして自動ドアが開く。真っ暗な外から姿を現したのは一人の女の子だった。思わず食い入るように見てしまった。今まさにあたしの思考を支配していた、その迷惑な女性客を。
「八重城……」
言葉を交わさずに見つめ合う。沈黙を埋めるように軽快な店内BGMが流れていく。
いつも通りの八重城姫梨がそこにいた。いつも通りの部屋着で、いつも通りに二つ結びに束ねた髪を両肩に垂らして。そう、いつもと変わらない八重城姫梨。ただ一点、彼女の表情を除いては。
目を丸くするあたしとは対照的に、八重城の顔色は真面目だった。きつね色の瞳に宿った強い意志が、先日までのようにただここに遊びに来たわけではないことを雄弁に語っている。
八重城は陳列された商品に目もくれず、まっすぐにこちらに歩いてくる。
レジ越しに対面した。なにを言っていいかわからず言葉を探すあたしに対して、先に口火を切ったのは彼女のほうだった。
「週末、シフト入ってる?」
「いきなりなんなの」
挨拶も前置きもなしに訊ねる八重城。彼女の前ではもう猫を被ったりしない。八重城の態度も先日までのような陽気なものではなく、その口調には明確な荒々しさがある。
「週末! シフト入ってる!?」
音量を二段階も上げて、八重城は同じ質問をする。
「いや、入ってないけど……」
「じゃあ、週末の夕方五時に駅前に来て。旧駅舎のところ」
「どうしてよ」
「話があるから」
「今話せばいいじゃない」
「今はまだ無理。ちょっと準備があるから。待ち合わせ、約束だよ」
「は、はあ? あんた、なに勝手に決め――」
「週末! 夕方五時! 駅前の旧駅舎!」
一方的に吐き捨てて、走り去ってしまった。
「……なんなのよ」
*
週末はあっという間に訪れた。
この数日間、あたしは不機嫌だった。理由なんてひとつしかない。あの女だ。勝手に待ち合わせを取り付けてきて、こちらの意見も聞かず帰っていったあの女。
「ムカつく」
本来、あたしが気にする必要なんてないのに、あいつに振り回されているみたいで
電気ケトルに水道水を入れてスイッチオン。沸騰したお湯でカップスープを作り、惣菜パンと一緒にリビングに運ぶ。ノートPCを立ち上げて、少し遅めの昼食にありつく。約束の時刻まで二時間ほどあるのでラジオの編集でもしようと思ったけど、イマイチ気分が乗らない。
あいつに従う義理なんてないけど、なんだかんだ出かける支度をしてしまった。八重城が今までの行いを反省して下手に回れば、あたしも謝ってあげてもいいと考えている。
編集気分じゃなかったので、YuriTubeで面白そうな動画を探していたら天気アプリの通知が届いた。
「今夜から雨なんだ」
秋雨前線の影響で、それなりの大雨になるらしい。カーテンを開けるとずっしりとした曇天が空を覆っていた。予報では夜にかけて雨が降り出すらしいけど、午後三時をまわった今すでに泣き出しそうな空模様である。八重城との待ち合わせは夕方の五時。彼女の用件はわからないけど、雨が酷くなる前に帰ってくるほうが良さそうだ。
「ん?」
YuriTubeを眺めていたら、ひとつの動画が目に止まった。来年一月から放送開始される『アビサル・フェアリーズ』のPVだ。三十秒程度の告知動画。童話のようなファンタジー色強めの作画だけど、戦闘シーンは迫力があって息を呑む。間違いなく冬アニメ筆頭の人気作品になるのがこの短い動画だけで伝わってくる。
それはいい。あたしの意識は別のところに向けられていた。PVに登場した某キャラクターの声が鼓膜にこびり付いたのだ。
動画下のURLから公式サイトに飛ぶ。キャラクター紹介ページには、声を担当している声優さんの名前が併記されている。
はやる気持ちでクリックしていた指先は動作を止め、瞬きを忘れたあたしの視線は、とあるキャラクターの紹介欄に落ち着いた。それは、本作品の華である正ヒロイン・マーレというキャラ。
マーレ――CV:朱羽紅音
「…………」
胸に重さを感じた。虚無感? 孤独感? 劣等感? それらはどれも当たっているようで、どれもあたしの気持ちを的確には表してくれない。禍々しいそれは驚くべき速度で胸の中を蝕んでいく。
忌まわしい陰を払拭しようと、椅子から立ち上がって本棚を探る。目的のものはすぐに見つかった。埃をかぶった薄い冊子――『残荘』の台本だ。
もう見てはいけないってわかっていたのに、馬鹿なあたしは同期が活躍するPVを見て、昔の台本を手に取ってしまった。表面の埃を払って、第一話の台本をパラパラめくっていく。
「懐かしいな……」
目に飛び込むのは雑多な書き込み。登場人物の心情、音響監督からの修正箇所、なんのために書いたか憶えていない記号や落書き。アニメをやっていたのがつい昨日のことのようにも思えるし、遥か昔のことのようにも思える。
この台本はあたしの宝物だ。いや、宝物だった。それが、今のあたしには凶器に映る。だってそうでしょう? 本物の宝物なら幸せな気持ちにさせてくれるはずだもの。
めくればめくるほど、当時の情景が蘇ってくる。部屋で何度も台本を読み込んだ日々。監督さんから指導されながら緊張して臨んだ収録。他のキャストと励んだ自主練の数々。
それらは宝物という名の思い出であるべきなのに、幸せな記憶で終わらせてくれない。明確な悪意を持って、あたしに襲いかかる。
「うっ……」
胃液が逆流して、口を抑えてトイレに駆け込む。間一髪のところで床を汚さずに済んだ。
ほら、やっぱりだめだ。やっぱりこれは宝物なんかじゃない。もう捨てればいいのに、未練がましくこうして保管してある。
リビングに戻ってベッドに倒れ込むと、あたしの意識はそのまま深い沼に落ちていった。
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