第6話

 なにを言われたか、わからなかった。


 鼓膜に残るは甘い夢から覚ますような低域の声。

 目の前のとっきーは、私の知らない冷たい瞳をしている。


「とっきー……?」

「違う。あたしは扇ひばりとして話してるの」

「扇……ひばり……」


 おうぎひばり。それが、風町渡季の本名だった。


 推しの本名を知れても、私の心が浮き立つことはなかった。


 彼女は私から離れて伊達メガネを外し、面倒くさそうに頭を掻いた。


「毎晩毎晩、食いもん持ってきて、ダラダラしゃべって。もう来るなって暗に言ってるのわからないかなぁ」

「とっきーが喜んでくれるかなって思って……」

「頼んでないでしょ。鬱陶しいのよ」


 強い言葉が胸を抉る。


「あのね、とっきー……」

「だからぁ、今のあたしは扇ひばり。とっきーって呼ぶな」


 体の芯が震える。


 威圧されているから怖いのではない。私の中でなにかが崩れようとしているから怖いのだ。


「あなたは風町渡季。私の永遠のアイドルで、視聴者に元気を与えることができる声優さんだよ!」

「はぁ……、いつまで夢見てるのよ」


 冷たい声が耳朶を打つ。


「声優がキャラを演じるように、あたしだって風町渡季の皮を被ってる。これが素のあたし。風町渡季なんて所詮は創作キャラなんだよ」


 ……やめて。


「ネットで活動してるときは風町渡季を応援してくれていいよ。けど、リアルまでアイドル扱いすんな。気が休まらないでしょ」


 お願い、もうやめて。


「ちょっと話し相手になってあげれば調子に乗りやがって。ひっそりやりたくてコンビニ夜勤やってんのに台無しだよ、ったく」


 やめてよ、とっきー……。


「う、う、うぅ……」

「?」

「うえぇぇぇええええええええん!」

「えぇ……」


 堪えきれなくて泣いちゃった。


「ちょ、ちょっと! だいの大人がみっともなく泣かないでよ! 通行人が見るでしょ!」

「だって……、だってぇ……うぇええええん!」


 マンガみたいな泣き方をする私を見て、彼女が狼狽する。


「言い過ぎたなら謝るから、泣くのやめてよ」

「ぐすん……」


 私はカバンから原稿用紙を一枚取り出して涙を拭き、チーンと鼻をかんだ。


 そして、とっきー……扇さんを睨みつける。


「今のあなたはとっきーじゃない!」

「だからそう言って――」

「悪魔だ!」

「あ?」

「悪魔がとっきーの体に憑いて、言いたくもないことを言わせてるんだ! この悪魔め!」

「いや、えっと……」


 くしゃくしゃに丸めた原稿用紙の玉を投げつけた。


「とっきーはそんな言葉遣いしないもん。清純で優しくて、お水と酸素だけで生きてて、お手洗いにも行かなくて」

「あたしは昭和のアイドルか」

「返してよ! 私の大好きなとっきーを返してよ!」


 立ち位置が逆転して、今度は私のほうが強く出る。


 とっきーが肩を竦めながら言う。


「声優だって仕事以外ではただの一般人で、アイドルは営業。オタクだってそれくらい理解してるわよ」

「……っ」

「また泣くの?」

「だって、とっきーはそんなこと言わないもん。ファンの夢を壊すようなことは絶対に」


 虚勢を張って、再び目尻に雫が溜まるのを我慢する。


「今のとっきーは悪魔にとり憑かれてるだけで、正気じゃないんだ。うん、そうだよ。私のとっきーがこんな不良キャラなわけないもん。へへ、へへへ。とっきーはどこにも行ってない、ずっと心の中にいるんだ」

「おーい、大丈夫かぁ? 闇落ちしそうになってないかぁ?」

「待っててね、とっきー。私が絶対に悪魔を祓ってあげる! すぐに天使のとっきーに戻してあげるからね!」


 呆然とするとっきーを置いて、私は夜の闇へと消えていった。

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