所詮は創作キャラなんだよ

 ――あんた、いい加減にしなさいよ。


 一瞬、なにを言われたかわからなかった。再び頭に血が巡るのに時間を要した。


 鼓膜に残るは甘い夢から覚ますような低域の声。


 鼻先が触れ合いそうな眼前に風町渡季がいる。冷たい瞳をしている。それは、私の敬愛する彼女とはかけ離れたもの。


 大好きな推しにこんな至近距離で見つめられているのに、先程まで早鐘を打っていた心臓は今や凍てつく鉛のよう。


「と、とっきー……?」

「ちがう、あたしは扇。扇ひばりとして話してるの」

「扇……ひばり……」


 胸ポケットの名札に目を落とすと、平仮名で『おうぎ』と書かれてある。


 おうぎひばり――それが、風町渡季の本名だった。


 彼女は私から体を離すと伊達メガネを外し、面倒くさそうに頭をかいた。


「毎晩毎晩、食いもん持ってきて、ダラダラしゃべって。もう来ないでって暗に言ってるのわからないかなぁ」

「と、とっきーが喜んでくれるかなって思って……」

「頼んでないでしょ。鬱陶しいのよ」


 強い言葉が胸を抉る。


「とっきー……?」

「だからぁ、今のあたしは扇ひばり。とっきーって呼ぶな」


 体の芯が震える。威圧されているから怖いのではない。私の中でなにかが崩れようとしているから怖いのだ。今まで信じて大切にしてきたものが、音を立てて崩れようとしているから怖いのだ。


「あなたは風町渡季。私の永遠のアイドルで、視聴者に元気を与えることができる声優さんだよ!」

「はぁ……、いつまで夢見てるのよ」


 非常に冷たい声色だった。


「声優がキャラを演じるように、あたしだって風町渡季って皮を被ってる。これが素のあたし。風町渡季なんて、所詮は創作キャラなんだよ」


 ――やめて。


「ネットで活動してるときは風町渡季を応援してくれていいよ。けど、リアルまでアイドル扱いすんな、気が休まらないでしょ」


 ――お願い、もうやめて。


「ちょっと話し相手になってあげれば調子に乗って。ひっそりやりたくてコンビニの夜勤やってんのに、それを壊さないでよ。はぁ、なんでこうなったかな」


 ――やめてよ、とっきー……。


「う、う、うぅ……」

「うん?」

「うえぇぇぇええええええええん!!!」

「えぇ……」


 堪えきれなくて泣いちゃった。


「ちょ、ちょっと! だいの大人がみっともなく泣かないでよ! 通行人が見るでしょ!」

「だって……、だってぇ……うぇええええん!!!」


 マンガみたいな泣き方をする私を見て、彼女が狼狽する。


「言い過ぎたなら謝るから、泣くのやめてよ」

「ぐすん……」


 私はカバンから原稿用紙を一枚取り出して涙を拭き、チーンと鼻をかんだ。そして、目元を赤くさせたままとっきー……扇さんを睨みつける。


「今のあなたはとっきーじゃない!」

「だからそう言って――」

「悪魔だ!」

「あ?」

「悪魔がとっきーの体に憑いて、言いたくもないことを言わせてるんだ! この悪魔め!」

「いや、えっと……」


 くしゃくしゃに丸めた原稿用紙の玉を投げつけた。


「とっきーはそんな言葉遣いしないもん。お日様みたいに周りを照らしてくれる女の子で、謙虚で優しくて、お水と酸素だけで生きてて、お手洗いにも行かなくて」

「あたしは昭和のアイドルか」

「返してよ! 私の大好きなとっきーを返してよ!」


 立ち位置が逆転して、今度は私のほうが彼女に詰め寄る。


「声優だって仕事以外では一般人で、アイドルは営業。オタクだってそれくらい理解してるわよ」

「っ……!」

「また泣くの?」

「だって、とっきーはそんなこと言わないもん。ファンの夢を壊すようなことは絶対に」


 再び目尻に溜まった涙を拭う。


「やっぱり今のとっきーは悪魔にとり憑かれてるだけで、正気じゃないんだ。うん、そうだよ。私のとっきーがこんな不良キャラなわけないもん。へへ、へへへ。とっきーはどこにも行ってない、ずっと心の中にいるんだ」

「おーい、大丈夫かぁ? 闇落ちしそうになってないかぁ」

「待っててね、とっきー。私が絶対に悪魔を祓ってあげるからね! すぐに天使のとっきーに戻してあげるからね!」


 そう言って私は、憮然とした表情を浮かべるとっきーを置いて、夜の闇へと消えていった。


「……どんな捨て台詞よ」

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