第5話
つきの書房にて。
「るんるん」
「やけに上機嫌じゃないか」
「あれ、わかっちゃう? 草石叔父さんは死んだ魚みたいな目してるのに観察眼だけはあるね~感心感心」
テーブルの向かい側に座って原稿に目を通していた叔父が、怪訝そうに私を見た。
「聞きたい?」
「べつに」
「んもう! しょうがないなあ! 実はこの前ねぇ」
「いいつってんだろ!」
叔父は原稿の束を整えて、こちらに返した。
「今回もボツだ」
「そっかぁ、残念」
「どうした。いつもなら恐竜みたいに怒鳴り散らすのに」
「そんな時代もあったねぇ。すぐ感情に訴えるのは野蛮人の所業だよ。私は卒業したんだ」
そう、今の私は心の余裕が違う。狭苦しい水槽の中で飼われている金魚と違って、今の私は広大な海をのびのび泳ぐイルカのよう。
遠い存在だったとっきーと繋がりを持てたのだ。世界はバラ色に変わるなんて陳腐な台詞があるけど、本当にちょっと前まで見ていた景色が極彩色に映る。
「んふふふふふ」
「おまえ、ついにクスリにでも手を出したか」
「ほんと、恋って麻薬よねぇ」
明後日の方角に恍惚の眼差しを泳がせる。
「八重城姫梨は生まれ変わったの。新しい命を継いだ私は、改めて文豪への坂道を駆け上るのよ」
「そう言うならなぁ、前回の赤ペン事項くらい修正してこいよ」
「はぁい。じゃね、叔父さん。素敵な週末を」
「……本当に大丈夫か」
*
「いた!」
深夜になってとっきーが働いているコンビニに行くと、期待通り彼女がいた。ガラス越しに姿を確認して、中に入る。
「とっきー!」
「へ? や、八重城さん……?」
スキップしながらとっきーがいるレジに駆け寄る。
「えへへ、来ちゃった。はい、モンエレ」
「えっと……」
「あ、モンエレ苦手だった?」
エナジードリンクは癖が強いから苦手な人もいる。それに刺激物は喉への負担も大きいから、食生活を徹底している声優は避ける人も多い。差し入れのチョイスを考えるべきだった。
「気が利かなくてごめんね。次は水とかお茶にするね」
「い、いいですよ。気を遣わなくて」
「私が好きでやってることだから。っていうのは口実で、単にとっきーに会いたいだけ。なんちゃって」
「…………」
「とっきー疲れてる?」
「う、ううん。ほら、夜勤って接客とかほとんどないから、表情が強張るんですよね」
「それはいけないね! とっきーの笑顔は天使の微笑みなんだから! 私がお話し相手になってあげるね」
「八重城さんだって小説書くの忙しいでしょ?」
「とっきーより優先することなんてないよ!」
とは言ったものの、今日もまた叔父からダメ出しされたことを思い出す。
とっきーだってこうして一生懸命働いているんだ。私も手を動かさなければ彼女に合わす顔がない。
「やっぱり今夜は帰るよ」
「執筆がんばってくださいね」
「はわあ! とっきーが応援してくれるなんて……! んんんーーーっ!」
朝、職場に向かう新婚夫婦の旦那さんはこんな気持ちなのだろうか。湧き上がったエネルギーをそのままに、足に羽が生えたように自宅へ帰った。
*
翌日の深夜。再びバイト先に来店した私は、平たい紙箱を彼女に差し出す。
「とっきー大福好きでしょ。前にラジオで言ってたもんね。これフルーツ大福の詰め合わせ。面白いよね~」
「…………」
喜んでくれると思ったのに彼女の表情は浮かない。もしかしたら夜食を食べたばかりでお腹いっぱいなのかもしれない。
「お腹が空いたら食べてね。これが定番のイチゴで、こっちがキウイ。この薄黄色の皮はパイナップルだよ。パイナップルの大福って微妙って思うでしょ? これがけっこう病みつきになるのよ~」
「……ほんとうに、こういうのいいですから。お気持ちだけで」
「気にしないで。とっきーがおいしそうに食べてるの想像すると、私までお腹いっぱいになるの。お茶も置いていくね」
差し入れを置いて退散。
それからも、毎晩のようにコンビニに足を運んでは、とっきーの好物を差し入れした。ラジオで得た知識がこんな形で役に立つとは。
夜が訪れるのが楽しみになった。昔見た、陽が落ちてからしか会えない男女の恋愛映画を私は思い出していた。人が眠りについた時間にアイドルと秘密裏に会っているという状況がさらに私を高揚させた。
とっきーのタイムスケジュールに合わせるために、私の生活リズムも自然と夜型になった。日付をまたぐころにコンビニに赴き、お喋りして、帰ってYuriTubeを聴く。
先程まで直接顔を合わせていた声優さんのラジオを聴いていると思うと、だらしなく口元が緩んでしまう。温泉に入っているような気持ちのいい余韻に浸りながら明け方に眠る。
それがここ最近の流れ。幸せ。
*
「やっほー! とっきー! こんばんは」
今日も来てしまった。これがラジオ体操なら皆勤賞で景品をもらっているだろう。
町はとっくに夜に沈んでいるけれど、挨拶は大事。元気よくダブルピースをして推しの元へ。
しかし、異変に気づく。
「とっきー、どうしたの? お腹空いた?」
「べつに」
「なにか悩み事あるの? 私でよければ相談に乗るよ? 私ととっきーの仲だもん」
「そうじゃなくて……」
「さぁて、今日のお土産はなんだろうな~。えへへ、なんだと思う? じゃーん、プリンでした! 隣町にある一日五十個限定のプリンでね、とっきーに食べてほしくて始発の電車で――」
「……っ! ちょっと来てっ!」
「え!? ちょっと、と、とっきー!?」
とっきーはレジカウンターを出ると、強引に私の腕を掴んだ。
「
「いってらー……」
今夜はもうひとりスタッフがいて、休憩に入ることを伝えて、とっきーは私を外へと連れ出した。
「ね、ねえ! とっきー、どうしたの!?」
耳を貸さずぐいぐい引っ張っていく。人目がない店の裏手に連れ込まれ、逃げ場をなくすように壁に追い詰められた。
「と、とっきー……どうしちゃったの? きゃっ!?」
心細そうな私の声を掻き消すように、とっきーは手を壁に突き出す。壁ドンの形になり、じっと見つめられる。
こ、これは……。
思わず唾を飲み込む。鈍い私でも、さすがにわかる。
そうなんだね……そういうことなんだね、とっきー。
風町渡季は雲の上の存在だった。私みたいな地上の
ある日、住む世界が異なる種族が
地を這うミミズは毎日、作物を貢いだ。それが天使の心を変えたのだ。
私は風町渡季が好き。大好き。愛している。この気持は一方通行だと思っていた。
でも、もし、この想いが私だけのものでないとしたら……。
壁を背にした私には、もう逃げ場はない。目の前にはただ、愛しの女性の熱い眼差し。
とても真剣な瞳だ。緊張しているのかもしれない。
だとしたら、私にできることは、少しでも彼女の緊張を解いてあげることだ。
「とっきー……」
口から漏れる声は自分でも驚くほどに甘かった。至近距離で見つめられ、美しい
私だって緊張している。当たり前だ、初めてなのだから。
けれど、ここで頑張らなかったら、とっきーだって踏ん切りがつかない。
「いい、よ……」
私は、静かに目を閉じた。顎を少しだけ上げて、唇を尖らせる。
秋の入口に吹く夜風さえ涼しく感じる。私の体は熱を帯びていた。
本で読んだけど、初めてはレモンの味がするという。カルピスだっけ?
でも、今の私は夕飯に食べたチキン竜田の味がするだろう。とっきーにとって初めての味が揚げ物というのはいかがなものか。
とっきーはこれまでに彼氏がいたことがないと、ラジオで語っていた。なら、彼女にとってもこれが最初の儀式になる。それがチキン竜田の味。
いや、関係ない。こういうのはお互いの気持が大事なんだ。二人の想いは固まっている。だったら、もう流れに身を委ねるだけなんだ。
これからきっと、チキン竜田を食べるたびに思い出す。初恋の味を。
目を閉じていても、とっきーの顔が近づいてくるのがわかった。柑橘系の香りが鼻孔をくすぐり、それがとっきーの匂いだと知る。
唇に全神経を集中させる。
そして、唇同士が触れ合う瞬間、彼女は口を開いた。
「あんた、いい加減にしなさいよ」
…………。……え?
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