私だけは覚えててやるんだ
『大ニュース! 大ニュース! 大事件だよ!!』
帰宅早々、私はA4の大学ノートに勢いよく万年筆を走らせる。
『普段日記なんか書かないけど、今日ばかりは書かずにはいられない! 書かずにはいられないんだってば! ああもう! 書きたいことが先行して手が追いつかないよ、もどかしい!』
『早く本題に入れ? んもう、せっかちな人は嫌われるわよ。でもいいわ、教えてあげる。耳の穴かっぽじってよく聞きなさい。あっ、これ日記だから、かっぽじるのは耳じゃなくて、目? それはそれで怖いね……』
『なんと! 本日、推しの風町渡季と会えたのです! ただ会えただけじゃないよ。一緒にお茶して、サインまでもらっちゃったんだから! 推しを独り占めだよ! すごくない!? もう、信じられない!』
『もうね、声がとっきーって感じなの。伝わるかなこれ? いつも聴いている……いつも聴いていた声なの。昔よりも髪は短くなっていたけど、私の知るとっきーそのまんまだった。もうめっちゃ可愛いの!』
『あ? 風町渡季を知らない? 大馬鹿者! 学生なら元素記号や歴史の年号よりも覚えるべきものがあるでしょ! 社会人だったらエクセルの使い方やお得意先の顔よりも先に覚えるべきものがあるでしょ!』
『いいわ。私がとっきーの素晴らしさを語ってあげる。正直こんなノートじゃ余白が全然足らないし、語り出したら幾つの夜を越えればいいかわからない。だから、かいつまんで重要なことだけ教えてあげる』
『勘違いしないでよ! この日記を読んで知った風にならないでよね? 彼女が出演した作品を最低でも五百周して、YuriTubeのラジオを繰り返し聴きなさい。朝起きて聴き、お昼を食べながら聴き、通勤通学のたびに聴き、眠りに落ちる瞬間までとっきーの声に酔いしれなさい。そこでようやくスタートラインに立てるんだから』
……というか、誰がこの日記を読むのだろう。
ま、細かいことはいっか。
『風町渡季――東京都出身の女性声優。愛称はとっきー。元双葉プロダクション所属。子どもの頃に演じた人形劇がきっかけで、声でお芝居することに興味を持つ。好きな作品として『大正サクラ戦乱』を挙げており、「色々なキャラを演じ分けて、いつか自分の声を広く届けたい」という思いから、声優の道を志す』
『媚びたアニメ声ではなく、耳にすっと入ってくるような透明感のある声が特徴』
『趣味は運動。休日は公園や緑の多いスポットをジョギングして気分転換している』
『高校を卒業して声優養成所に入所。一年後、オーディションに合格した彼女は晴れてプロダクションに所属する。いくつかの脇役を経て、二十一歳のときにテレビアニメ『残念ヒロインには
……………………。
なんか、◯ikipediaみたいな文章になってしまった。まぁ、とっきーの◯ikiを編集しているのは私なので、情報や文体が似るのは必然なのだけど。
それにしても、
「もう三年経つんだなぁ……」
『残念ヒロインには理由があり荘』――通称『残荘』は残念ヒロイン五人が繰り広げる青春アニメ。そのヒロインのひとり、猫屋依鈴の声をとっきーが担当していた。彼女にとって初めての主役の抜擢である。
ゴミアニメなんて
Blu-rayも購入して、円盤が擦り切れるほど視聴した。今でも各シーンは鮮明に脳内再生できるし、推しである依鈴の台詞は一言一句違わず言える。
私は、猫屋依鈴というキャラクターが好きだったし、彼女に魂を吹き込んでくれた風町渡季という声優に心を惹かれていった。回を重ねるごとにその気持は大きくなっていった。
普段アニメは見ないから比較なんてできないけど、無数にある作品の中で私は『残荘』が一番好きだって自信を持って言える。
『残荘』ラジオも毎週聴いて、Blu-rayに収録されたオーディオコメンタリーも円盤が劣化するんじゃないかって不安になるくらい視聴した。私の心はとっきー一色になっていき、やがてそれが推し活を超えたものだと気付く。
次はどんな役を演じるんだろうと考えると胸が高鳴った。これから出演回数も増えていくって信じて疑わなかった。
風町渡季の休業が発表されたのはそんなときだ。体調不良というのが表向きの理由だった。
休業声明が出されて以降、事務所からの動きはなかった。そして音沙汰もないまま数ヶ月経ったある日、とっきーの無期限活動休止が発表された。
――突然のご報告になっちゃってごめんなさい。発表にもありました通り、風町渡季は今季を持ちまして引退させていただく運びとなりました。今まで応援していただき本当にありがとうございます。みなさんと過ごした時間はあたしの宝物です。
それが、とっきーの最後のメッセージ。それからしばらくして彼女のSNSアカウントも削除された。
失望の淵に立たされた私とは裏腹に、とっきー消失は大きなニュースにならなかった。声優業界は流動的である。新しい子がどんどん出てきて、序列を奪っていく。
「渡季ちゃんのファンです! これからも応援します!」なんて豪語していたにわかオタク共も、新しいアニメが始まり、新しい声優が台頭すると、次々に目移りしていった。風町渡季の存在はフェードアウトしていき、民衆の記憶から彼女の存在が消えるのに時間はかからなかった。
「……ふぅ」
筆を置いて天井を見上げる。ただ日記を書くだけのつもりが、途中から回想録のようになってしまった。当時のことを思い出すと、言葉にならない寂しさが込み上げてくる。今日という日が宝石のようだったから、なおさらそう感じてしまう。
もうとっきーの顔は見れないと思っていた。もう彼女の声は聞けないと思っていた。だからYuriTubeで活動していると知ったときは、広い草原を裸足で駆け回りたくなるほどうれしかった。たとえ顔出しはしていなくても、声優を辞めていなかったという事実だけで十分だった。
そして今日、願い続ければ神様は見捨てないとでも言うように、奇跡が起きた。ずっと焦がれていた推しと出会うことができた。テレビやネットの媒体を通してない、生のとっきーと。
視線を手元に戻すと、ローテーブルに置かれたサインが視界に入った。
「とっきー……」
体調はもう大丈夫なの?
どうして事務所を辞めちゃったの?
今後アニメには出演しないの?
もう……いなくなったりしないよね……?
訊きたいことはたくさんあった。けれど、出会ったばかりの、どこの馬の骨かもわからない私が質問できることじゃない。だから踏み込まなかった。
それでも、私がやるべきことは変わらない。彼女にどんな理由があっても、他の新人声優が新しい時代を築いていっても、私のやることは何も変わらない。
「世間がとっきーを忘れても、私だけは覚えててやるんだ」
そう胸に誓って、ノートを閉じた。
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