第3話
昼過ぎの珈琲ショップ。テーブルを挟んだ向かいには天使が座っている。
そこへ年上の女性店員がオーダーを取りに来た。店主の
「今日は早いのね、姫」
「文豪の一日は早いのだよ」
私は天使を凝視したまま答える。
「姫はいつも通りコーヒーでいいの?」
「うん」
「ブラックで?」
「ブラックで」
「お連れ様はなににしましょう?」
かすみさんが天使に
「じゃあ、同じものを」
「かしこまりました」
注文を取り終えてカウンターへ去っていくかすみさんを見計らって、私は口火を切った。
「ほんとに……っ! ほんとっっっっっに、とっきーなんだね! 信じられない! 推しが目の前に座っているなんて!」
「えっと……」
いけない、私ったら先走りすぎて天使を困らせてしまった。前のめりな姿勢を正して、自己紹介をすることにした。
「私、
「あ、うん……。
「はあぁあああん……!」
私は手の平を合わせて片頬に添え、うっとりする。
「生とっきーが、私のためだけに、いつも聴いている声で自己紹介……! んん~~~っ、た、たまらない!」
私の耳に狂いはなかった。やっぱり彼女は風町渡季、本人だった。
一般人が人気声優を目の当たりにできる機会なんてイベントやライブくらい。ましてや直接会話できるなんて……!
「夢じゃないよね!?」
自分の頬をつねるという原始的な方法を試みる。普通に痛かった。夢の続きを見ているんじゃないかと不安になったけど、大丈夫、現実だ。
とっきーが場所を変えて話したいと言うので、夜が明けて一度それぞれ帰宅したあと、仮眠を挟み、行きつけの珈琲ショップに案内したという経緯だ。
「なんかとっきー疲れてる? あんまり寝れなかった?」
「どうしてですか」
「だってラジオのときみたいに元気ないから。というか、大人しい感じ?」
「一応身バレ防止で……」
「なるほど!」
だから変装用の伊達メガネもかけてるんだ。タレントにとってプライベートの守秘は宿命。私たち一般人には想像できない窮屈さを感じているに違いない。
それにしても、
「とっきーの私服めっちゃかわいいんんん!」
可愛く編み込まれたクリーム色のカーディガンは、まさしく天使の羽衣のよう。
「は、恥ずかしいから、あんまり見ないでください……! 今日はラフな格好なので」
「私よりラフな女はいないから大丈夫!」
腰に手を当てて胸を張る。
「なんでパジャマなんですか?」
「ユリクロのルームウェア、コスパ最強なんだよ。寝るときも出掛けるときもこれ一着あればOK」
「あ、あはは……」
とっきーが控え目に笑う。ラジオの明るい雰囲気も好きだけど、慎ましやかな一面も抜群に可愛い。
「ラジオは声だけだから、こうして直接とっきーの顔見れるのうれしいな~」
「あ、ラジオ聴いてくださってるんですね」
「もちろん!」
身を乗り出して鼻息を荒くする。
「初回から欠かさず聴いてるよ! アーカイブなんて何億回リピートしたことか。とっきーのラジオだけが生きがいだもん」
この救いようのない世界で、とっきーのラジオだけが福音だ。うん、これからは『福音ラジオ』と呼ぶことにしよう。
「あ、あの……」
「どうしたの、とっきー?」
天からの使いは照れくさそうにモジモジする。そして可憐な笑顔を浮かべて言った。
「いつもラジオを聴いてくれて、ありがとうございます」
「う゛う゛っ」
「ど、どうしたんですか! 胸が苦しいんですか!?」
「最愛の推しから至近距離でお礼言われた……! 破壊力ヤバすぎ」
リスナーに対して、とっきーは常に感謝の気持ちを忘れない素敵な女の子だ。でも、今のは違う。私だけに言ってくれた謝意である。
「ラジオみたいに『ありがとっきーで~す』って言ってくれたら百点満点だったなぁ。まぁ、こうやってお話できてるだけで最高に幸せだから、これ以上求めるのは贅沢だよね、えへへ」
舌を出しながら、自分の頭をコツンと軽く叩いた。
「あ、あの、八重城さん」
「んん゛ん゛!」
「ど、どうしたんですか、また胸を抑えて! 鼻血まで出てますよ!?」
「と、とっきーがいきなり名前で呼ぶからっ」
オタクにとって声優に名前を呼んで(読んで)もらえるのは至上の喜びである。しかもラジオネームではなくて、本名で。こんなの身が持たん。
「で、どうしたの、とっきー?」
ナプキンで鼻血を拭きながら改めて訊ねる。
「その……、あたしがコンビニでバイトしてること、口外しないでほしいんです」
「しないよ絶対に!」
「本当ですか……?」
「ファンにバレて騒ぎになったら、とっきーにもお店にも迷惑がかかるもんね」
「あ、ありがとうございます!」
もともと他言するつもりなんてなかったけど、私が断言すると彼女の表情がふわっと和らいだ。
そうか、私が彼女のプライベートを言いふらすかもと懸念して、釘を刺すために、こうしてお茶に誘ったんだ。
でも、理由なんてどうでもいい。こうして推しと対面できたのだから。
「バイト先の人たちはとっきーのこと知ってるの?」
「ううん。ただのフリーターだと思ってます」
「ふうん」
アニメやゲームに興味がない人からすれば、声優も一般人と変わらないのだろう。
「でも、うれしいな~」
「なにがです?」
「ふたりだけの秘密を共有しているみたいでさ」
ネットの中の風町渡季はキラキラ眩しい。けれども現実の彼女は大人しい性格で、人目を忍んでアルバイトをしている。
私だけが知っている推しの秘密。なんだか愉悦感のようなものを抱く。悪いな、とっきーファンのオタク共。私だけこんなに幸せで。
「おまちどおさま」
かすみさんがふたり分のコーヒーを運んできてくれた。華やかな香りが鼻の奥を撫でる。
「ん~~~! やっぱり朝はコーヒーだよねぇ」
「もうお昼だけどね。それに、あなたブラック飲めないじゃない」
べつにいいでしょ、と私は頬をふくらませて反抗の意志をかすみさんに示す。
「カフェラテとかじゃダメなんですか?」
「文豪の朝はブラックコーヒーからって相場が決まってるんだよ」
とっきーの質問に私はきっぱり答える。
「さっきも言ってましたよね。小説家さんなんですか?」
「違う違う、ただの小説家志望。ね、かわいい文豪ちゃん?」
私よりも先に答えたのは、テーブル横で意地の悪い笑みを浮かべているかすみさん。
「またかすみさんは小馬鹿にして~! 本当に小説家になるんだもん! 未来の文豪だもん!」
「はいはい。執筆がんばってね、未来の文豪ちゃん。あと、苦いコーヒーも飲めるようにね」
かすみさんがそう残してカウンターに戻ると、私は水を飲む犬のような恰好でちびっとカップに口づけた。
「にが……」
試しに啜ってみたけどやっぱりダメで、角砂糖を盛々入れていく。べつに負けたわけじゃない。砂糖はコーヒーをよりおいしくさせるスパイスだ。だからこの黒い液体に屈したわけではない。
そして、何個目かわからない白い塊を投入したところで、私は太ももをすりすりさせながら上目遣いでとっきーを見た。
「そ、その……とっきー?」
「はい」
「迷惑じゃなかったら……その、サインほしいな~……なんて」
甘く、謙虚な口調でおねだりする。
「べつにいいですけど」
「いいの!?」
「あたしのサインなんて価値ないですし」
「そんなことないよ! どこぞの地上絵や洞窟の壁画よりもずっと価値あるもん!」
「世界遺産と比べられても……」
カバンの中を漁る。
「あ~もう、なんでこういうときに限って色紙の一枚や二枚ないかなぁ」
「色紙持ち歩いている人なんかいないと思いますけど」
適当なものがなかったので、仕方なく原稿用紙に書いてもらうことにした。どこにでも売ってある普通の用紙だ。
しかし、紙の上に添えられたお供は別格。擦り傷を宿した万年筆。上品な光沢と、ほどよい重厚感を放つ。私の相棒だ。
「わあ、高級そうな万年筆! 本当に小説家を目指してるんですね!」
「ああ~~~とっきーに褒めてもらっちゃったぁあああ! うれしいぃぃぃ」
「宛名はどうします?」
「私の名前も書いてくれるの!?」
「いらないなら、あたしのサインだけにしますけど」
千切れるくらい首を振った。
「それって、とっきーが私のために書いてくれる世界で一枚だけのサインってことじゃん! 感無量だよぉ」
「フルネームでいいですか?」
「あ、名前だけでいいよ。姫はプリンセスの姫で――」
「さっき聞いたので大丈夫です」
原稿用紙のマス目の上にさらさらとペン先を滑らせていく。とっきーが、私がいつも使っている万年筆で、私のためにサインを書いてくれている。幸せすぎて言葉にならない。
他意はなかったけど、口止めの交換条件としてサインをねだるような形になってしまったかもしれない。でも、そんなのは杞憂と言わんばかりに、彼女は快く受け入れてくれた。本当に天使すぎるよ。
「できました」
「わあ……!」
受け取ったペラペラの紙は、黄金のインゴットのように重く眩しく感じられた。
「日付まで書いてくれた……っ! 私の宝物! 墓場まで持っていきます!」
「ふふ、大袈裟ですよ」
書いてもらった原稿用紙を抱きしめる。
最推しと出会えて、お話できて、サインまでもらえた。なんか今日一日で私の夢がぜんぶ叶ったような気分だ。たとえこの命が今日尽きようとも、納得して三途の川を渡っていける。
――くしゃ。
「……あ」
「どうしたんですか」
「抱きしめたら、サイン……しわくちゃになちゃった」
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