たとえこの命が今日尽きようとも

 テーブルを挟んだ向かいには天使が座っている。昼過ぎの珈琲ショップで、そんな神々しい存在とこうして見つめ合っている。


 そこへ年上の女性店員がオーダーを取りに来た。店主の幡杜はたもりかすみさんだ。


「今日は早いのね、姫」

「文豪の一日は早いのだよ」


 私は天使を凝視したまま答える。


「姫はいつも通りコーヒーでいいの?」

「うん」

「ブラックで?」

「ブラックで」

「お連れ様はなににしましょう」


 かすみさんが天使にたずねた。


「じゃあ、同じものを」

「かしこまりました」


 注文を取り終えてカウンターへ去っていくかすみさんを見計らって、私は口火を切った。


「ほんとに……っ! ほんとっっっっっに、とっきーなんだね! 信じられない……! 推しが目の前に座っているなんて……!」

「えっと……」


 前傾姿勢で話す私に、彼女は困り笑顔を浮かべる。


 いけない、私ったら先走りすぎて天使を困らせてしまった。椅子に深く座り直して改めて自己紹介をすることにした。


「私、八重城やえしろ姫梨ひめりっていいます。プリンセスの『姫』にフルーツの『梨』で姫梨です」

「あ、うん……。風町かざまち渡季ときです」

「はあぁあああん……!」


 私は手の平を合わせて片頬に添え、うっとりする。


 「生とっきーが、私のためだけに、いつも聴いている声で自己紹介……! んん~~~っ、た、たまらない!」


 私の耳に狂いはなかった。やっぱり彼女は風町渡季、本人だった。テレビの向こうの存在だった女の子が、今目の前にいて、私とお話してくれている。


 一般人が人気声優を目の当たりにできる機会なんてイベントやライブくらい。ましてや直接会話できるなんて……!


 ラジオで聴く声とリアルの声はちょっと違うけど、それが生々しくてまた良い。


「夢じゃないよね!?」


 自分の頬をつねるという原始的な方法を試みるが、普通に痛かった。一度仮眠を挟んでいるせいで夢の続きを見ているんじゃないかと不安になったけど、大丈夫、現実だ。


 とっきーが場所を変えて話したいと言うので、夜が明けて一度それぞれ帰宅したあと、行きつけの珈琲ショップに案内したという経緯だ。


「私、とっきーの大ファンなの!!」

「そ、そうなんですね」

「あれ? なんかとっきー疲れてる?」

「え?」

「だってラジオのときみたいに元気ないから。というか、大人しい感じ?」

「一応身バレ防止のためというか……」

「なるほど!」


 だから変装用の伊達メガネもかけてるんだ。タレントにとってプライベートの守秘は宿命。私たち一般人には計り知れない窮屈さを感じているに違いない。


 ……それにしても、


「とっきーの私服めっちゃかわいいんんん!」


 ゆったりとしたプルオーバーのパーカーを着たとっきーに目が釘付けになる。


「は、恥ずかしいから、あんまり見ないでください……! 今日はラフな格好なので」

「私よりもラフな女いないから大丈夫!」


 腰に手を当てて胸を張る。


「なんでパジャマなんですか?」

「ユリクロのルームウェア、コスパ最強なんだよ。寝るときも出掛けるときもこれ一着あればOK! あっ、別にユリクロの回し者じゃないからね?」

「あ、あはは……」


 とっきーが控え目に笑う。ラジオの明るい雰囲気も好きだけど、慎ましやかな一面も抜群に可愛い。


「ラジオは声だけだから、こうして直接とっきーの顔見れるのうれしいな~」

「あ、ラジオ聴いてくださってるんですね」

「もちろん!!!」


 テーブルに両手をついて、前のめりになる。


「初回から欠かさず聴いてるよ! アーカイブなんて何億回リピートしたことか。とっきーのラジオだけが生きがいだもん」


 この救いようがない世界で、とっきーのラジオだけが福音だ。うん、これからは『福音ラジオ』と呼ぶことにしよう。


「あ、あの……」

「どうしたの、とっきー?」


 天からの使いは照れくさそうにモジモジしたあと、可憐な笑顔を浮かべて、私を真っ直ぐに見て言った。


「いつもラジオを聴いてくれて、ありがとうございます」

「う゛う゛っ」

「ど、どうしたんですか! 胸が苦しいんですか!?」

「最愛の推しから、こんな至近距離でお礼言われて……っ。もうこの世に思い残すことない。キッチンから包丁持ってくるね」


 ラジオの中でも、とっきーは常に感謝の気持ちを忘れない素敵な女の子だ。でも、今のは違う。ラジオという形式に囚われない、正真正銘、私だけに言ってくれた『ありがとうございます』だ。あまりの破壊力に心臓発作を起こしそうになった。


「あ、でも、ラジオみたいに『ありがとっきーで~す』って言ってくれたら百点満点だったなぁ。まぁ、こうやってお話できてるだけで最高に幸せだから、これ以上求めるのは贅沢だよね、えへへ」


 舌を出しながら、自分の頭をコツンと軽く叩いた。


「あ、あの、八重城さん」

「んん゛ん゛!!!」

「ど、どうしたんですか、また胸を抑えて! 鼻血まで出てますよ!?」

「と、とっきーがいきなり名前で呼ぶからっ」


 オタクにとって声優に名前を呼んで(読んで)もらえるのは至上の喜びである。しかもラジオネームではなくて、本名で。こんなの身が持たないわ。


「で、どうしたの、とっきー?」


 ナプキンで鼻血を拭きながら改めて訊ねる。


「その……、あたしがコンビニでバイトしてるってこと、口外しないでほしいんです」

「しないよ絶対に!」

「本当ですか……?」

「ファンにバレて騒ぎになったら、とっきーにもお店にも迷惑がかかるもんね」

「あ、ありがとうございます……」


 もともと口外するつもりなんてなかったけど、私が断言すると彼女の表情がふわっと和らいだ。そうか、私が彼女のプライベートを言いふらすかもと懸念して、釘を刺すために、こうしてお茶に誘ったんだ。


 でも、理由なんてなんでもいい。こうしてずっと好きだった女の子と対面できる機会を得られたのだから。


「バイト先の人たちはとっきーのこと知っているの?」

「ううん。ただのフリーターだと思ってます」

「ふうん」


 案外そんなものなのかもしれない。アニメやゲームに興味がない人たちからすれば、声優も一般人と変わらないのだろう。街を歩いていても電車に乗っていても気付かれないかもしれない。


「えへへ、うれしいな~」

「なにがです?」

「ふたりだけの秘密を共有しているみたいでさ」


 ネットの中の風町渡季はキラキラ眩しくて。けれども現実の彼女は大人しい性格で、人目を忍んでアルバイトをしている。私だけが知っている推しの秘密。なんだか愉悦感のようなものを感じる。悪いな、とっきーファンのオタク共。私だけこんなに幸せで。


 そこに、鼻の奥を撫でる芳しい香りが漂ってきた。


「おまちどおさま」


 かすみさんがふたり分のコーヒーを運んできてくれた。テーブルに置くと、華やかな香りがいっぱいに広がった。


「ん~~~! やっぱり朝はコーヒーだよねぇ」

「もうお昼だけどね。それに、あなたコーヒー飲めないじゃない」

「ミルクとお砂糖マシマシなら飲めるもん」


 私はムキになって頬を膨らませる。


「じゃあなんでブラックなんて頼むんですか?」

「文豪の朝はブラックコーヒーからって相場が決まってるから」


 とっきーの質問に私はきっぱり答える。


「さっきも言ってましたよね。小説家さんなんですか?」

「違う違う、ただの小説家志望。ね、かわいい文豪ちゃん?」


 と、私よりも先に答えたのはテーブル横でニヤニヤ顔を浮かべているかすみさん。


「またかすみさんは小馬鹿にして~! 本当に小説家になるんだもん! 未来の文豪だもん!」

「はいはい。執筆がんばってね、未来の文豪ちゃん。あと、苦いコーヒーも飲めるようにね」


 かすみさんがそう残してカウンターに戻ると、私は水を飲む犬のような姿勢でちびっとカップに口づけた。


「にが……」


 試しに啜ってみたけどやっぱりダメで、角砂糖を盛々入れていく。べつに負けたわけじゃない。砂糖はコーヒーをよりおいしくさせるスパイスだ。だからこの黒い液体に屈したわけでは断じてない。


 そして、何個目かわからない白い塊を投入したところで、私は太ももをすりすりさせながら上目遣いでとっきーを見た。


「そ、その……とっきー?」

「はい」

「め、迷惑じゃなかったら……その、サインほしいな~……なんて」


 甘く、謙虚な口調でおねだりする。


「べつにいいですけど」

「いいの!?」

「あたしのサインなんて価値ないですし」

「そんなことないよ! どこぞの地上絵や洞窟の壁画よりもずっと価値あるもん!」

「世界遺産と比べられても……」


 言うよりも早くカバンの中を漁り始めた。


「あ~もう……、なんでこういうときに限って色紙の一枚や二枚ないかなぁ」

「色紙持ち歩いている人なんかいないと思いますけど」


 適当なものがなかったので、仕方なく原稿用紙に書いてもらうことにした。どこにでも売ってある普通の用紙だ。


 しかし、。上品な光沢、ほどよい重厚感、使い込まれた擦り傷を宿した万年筆。私の相棒だ。


「わあ、高級そうな万年筆! 本当に小説家を目指してるんですね!」

「ああ~~~とっきーに褒めてもらっちゃったぁあああ! うれしいぃぃぃ」

「宛名はどうします?」

「え、私の名前も書いてくれるの!?」

「いらないなら、あたしのサインだけにしますけど」


 千切れるくらい首を横にブンブンと振った。


「それって、とっきーが私のために書いてくれる世界で一枚だけのサインってことじゃん! んん~~~っ、感無量だよぉ。もう思い残すことない、キッチンから包丁持ってくる」

「宛名はフルネームでいいですか?」

「あ、名前だけでいいよ、姫梨で。姫はプリンセスの姫で――」

「さっき聞いたので大丈夫です」


 原稿用紙のマス目の上にさらさらとペン先を滑らせていく。とっきーが、私がいつも使っている万年筆で、私のためにサインを書いてくれている。幸せすぎて言葉にならない。


 他意はなかったけど、口止めの交換条件としてサインをねだるような形になってしまったかもしれない。でも、そんなのは杞憂と言わんばかりに、彼女は快く受け入れてくれた。本当に天使すぎるよ、この娘。


「できました」

「わあ……!」


 受け取ったペラペラの紙は、黄金のインゴットのように重く眩しく感じられた。


「日付まで書いてくれて……っ! 正真正銘、世界で一枚だけのサインだよ!」

「フルネームじゃなくて本当によかったんですか?」

「……うん、これでいい。これがいいの。宝物! 遺産! 墓場まで持っていきます!」

「ふふ、大袈裟ですよ」


 書いてもらった原稿用紙を抱きしめる。


 最推しと出会えて、お話できて、サインまでもらえて。なんか今日一日で私の夢がぜんぶ叶ったような気分だ。たとえこの命が今日尽きようとも、納得して三途の川を渡っていける。人生で最高の日だった。


 ――くしゃ。


「あっ」

「どうしたんですか」

「抱きしめたら、サイン……しわくちゃになちゃった」

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