第2話

「ん……」


 暗闇の中で目が覚めた。スマホを手繰たぐり寄せて時刻を確認すれば午後十一時過ぎ。もうすぐ日付が変わる。


「そっか……、ラジオ聴いたまま寝落ちして」


 夕方に帰宅してから五時間近く寝ていたことになる。ラジオを最後まで視聴できなかったから、もう一度最初から再生しようとしたけど、


「お腹減ったな」


 冷蔵庫の中には飲み物とアイスだけ。これでは腹の足しにならないということで、大人しく買い物に行くことにした。帰ってきたらラジオの続きを聴こう。


 部屋着と私服を兼用したスウェット姿のままアパートを出た。


 *


 東京都 国立くにたち市。


 秋のはじまりを感じさせる風を受けながら夜道を歩いていく。


 私は現在、アパートを借りて一人暮らし中だ。都心に比べれば家賃は安いし、人も密集していない。田舎育ちの私にはこれくらいの環境が合っている。


 静まり返った夜道を歩いていると色々考えてしまう。


 また応募作品が駄目だったこと、自分自身のこと、これからのこと。考えなければいけないことも、考えても仕方のないことも頭を巡る。


 もう二十五歳だ。自分の人生と真摯に向き合わなければいけない。


「そんなこと、わかってるんだけどなぁ……」


 あっという間に目的地に到着。駅南口にあるコンビニだ。


 何度も近くを通っているけど、こうして入店するのは初めて。普段はスーパーをよく利用するので、割高感があるコンビニは敬遠していた。


 女性の店員さんがレジに立っていて、ほかに客はいない。


 時間が時間なだけにお弁当コーナーの目ぼしい商品は全滅。売れ残りのおにぎりとカップの味噌汁をカゴに入れ、そのままレジへ。


「からあげちゃんひとつお願いします」

「かしこまりました」


 店員さんが手際よくレジ横のホットショーケースから取り出してくれる。


 なるべくコンビニは避けているけど、無性にホットスナックが食べたくなる日がある。きっと人間の体はホットスナックには抗えない構造になっているのだ。


 食い物であり、一度人間を虜にしたら放さない喰い物である。


 恐ろしい。でもおいしいから仕方ない。


「レジ袋、有料になりますがご利用されますか?」

「あ、お願いします」


 スマホを操作して電子マネー決済の準備をする。


 そこで、違和感を覚えた。


 いや、違和感というよりは親近感。その二つは真逆の性質を秘めているはずなのに、私には不思議と同じように感じられた。


 導かれるように、私の視線はスマホの画面を離れ、ゆっくり浮上する。


 視線の先には商品を袋につめてくれている女性店員がいる。当たり前だ、会計中なのだから。


 しかし、当たり前ではない光景がそこに存在している。


 目の前の女性から目が離せなくなり、すべての思考が吹き飛ぶ。


 このコンビニを利用するのも、彼女と言葉を交わすのも初めて。しかし彼女は、私のよく知る人物だった。


「とっきー……?」


 こちらの呟きに店員さんが反応した。目が合うと、世界の時間が止まった気分になった。


「え、ええ!? と、とっきー!? どうして!?」


 興奮のあまり身を乗り出す。彼女は驚いて、さっと後方に退いた。


「ほ、本物のとっきー!?」

「ち、ちがいます!」

「いや、とっきーでしょ!?」


 頭がパニック状態。風町渡季は永遠の推しで。さっきまでラジオで聴いていた声優さんで。


 それが今、私の目の前にいるわけで……。


「なんで嘘吐くの! とっきーじゃん!」

「ひ、人違いです……」


 何度訊いても、彼女は否定する。


 そうだ、名札。名札を見れば万事解決だ。


 制服の胸ポケットに付けられた名札に視線を移す。


 すると、そこには平仮名で『おうぎ』と記されてあった。


(おうぎ……さん? 風町じゃなくて?)


 いや、違う。風町渡季は声優名だろう。


 作家の場合は、みんながみんなペンネームで執筆しているわけではない。小説家は表舞台に顔を出す機会が少ないという性質上、本名で活動している人も一定数いる。


 一方、昨今の声優はアイドル的な意味合いが強い。メディアに出ることが前提なので、本名を秘匿にするケースが多い。


 彼女の顔を観察する。正面から、右から左から。下から覗くように、あらゆる角度から。


 髪、瞳、鼻、唇。すべてのパーツを隈なく観察し、脳内に保存された風町渡季と照合する。


 初対面の人間にじろじと見られて、彼女は頬を染めた。


「あ、あの……」

「うん。やっぱりとっきーだよ!」

「ですから、人違いで……」

「間違いないもん!」


 伏し目がちに顔を背けようとする彼女に、私は強く言葉を重ねる。


 肩の辺りで切り揃えられたショートヘア。ハーフリムのメガネ。自信の無さそうなボソボソした話し声。


 目の前の女性の容姿は、アイドル風町渡季のイメージとはずいぶんかけ離れたものだ。


 昔のとっきーは背中まで伸びたきれいな黒髪をなびかせていて、メガネもしていなかった。透明感のある澄んだ声がとっきーの特徴だ。


 だから、目の前のバイト娘が風町渡季だと言われても、誰も信じないだろう。


 でも、私は違う。


 どんなに時が経とうと、どんなに容姿が変わろうと、私にはわかる。


「私、とっきーの大ファンなの。見間違えるはずないの! とっきーなんでしょ?」


 いつの間にか私の声色は切実なものになっていた。


「あんまりしつこいと警察呼びま――」

「何年推しをやってると思ってるのっ!」


 哀愁の滲んだ叫び声が、彼女の言葉を遮った。メガネの奥の瞳がわずかに開いたように見えた。


 お店に迷惑だってわかっている。彼女に迷惑をかけているって理解している。それでもわがままな私は、マグマのように滾った想いを口に出さずにはいられなかった。


「とっきーが急にいなくなって、すごく寂しかった。だから、ネット声優として復帰してくれたとき、すごくうれしかったの……」


 今にも泣きそうな声で言葉を継ぐ。もしも彼女が風町渡季じゃなかったら、なにを言っているんだろうという話になる。


 昔の私は、なにもなかった。そこに現れたのが風町渡季。彼女の声に癒され、勇気をもらった。


 その矢先、彼女は姿を消した。


 けれどアニメからネットへ活動場所を変えて、彼女は戻ってきてくれた。心の底からうれしかった。


「見た目が変わったって、喋り方を変えたって、顔で……声でわかるもん……っ。大好きだから」


 目尻に溜まった雫をスウェットの袖で拭く。


 鼻をすする私を、彼女は無言のまま窺っていた。やがて、困惑した表情を浮かべる彼女に対して申し訳ない気持ちが芽生えた。


 もうよそう。想いは伝えた。いくら私以外にお客さんがいないからといって、これ以上滞在したら業務に支障が出る。彼女が否定する以上、追及することはできない。


「お仕事の邪魔しちゃって、ごめんなさい」


 お会計を済ませて、店を出ようとしたときだった。


「……待って」


 背後から声がかかる。先程までのボソボソした小声ではなく、濁りのない透き通った声。


 背中に微弱な電気が走った気がして、思わず顔を上げる。


 私が振り返ると同時に、彼女はメガネを外した。


「ぁあ……、ああ……っ」


 その光景にまた泣きそうになる。優しく歪んだ視界の向こうには、女の子が立っている。あの頃となにひとつ変わらない瞳の、なにひとつ変わらない声の女の子が。


 今日という日を生涯忘れることはない。そんな予感がした。その曖昧な予感を絶対な確信に変えてくれるように、彼女は言った。


「このあと、時間ありますか?」

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