渡り鳥と万年筆はかく語りき

礫奈ゆき

§1

世界で一番の推し

【万年筆はかく語りき】


 ――東京都千代田区 つきの書房


 校了を控えた編集室には重苦しい空気が流れていた。キーボードの打鍵音、コピー機の音、電話対応の声。それがこの部屋のすべて。そんな息の詰まりそうな部屋の中で、私こと八重城やえしろ姫梨ひめりはおじさんと対座している。


 テーブルを挟んで、おじさんは私が持ち込んだ原稿に目を通す。上から下へ、右から左へ。眼鏡越しの黒目の移動を、私は固唾を飲んで見守る。自然と、膝の上の拳にも力が入る。


 しばらくして、おじさん――もとい、叔父さんは原稿の束をテーブルの上でトントンと整えて、軽く息を吐いた。緊張した。目の前の叔父から視線を外さず、第一声を待つ。そして、だらしなく伸びた顎髭あごひげをさすりながら、叔父は口を開いた。


「ボツ」

「はあああああ?! なんでえええええ!?!?」


 私はたまらずテーブルを叩いて、席を立った。緊張の糸をぶち切る大声にもかかわらず、周りはぴくりとも反応しない。皆、黙々と各自の仕事に集中している。いつものことだからだ。


「どこが駄目なのよ!」

「冒頭がすでにつまらん」

「まだ一枚目じゃん! これから面白くなるんだって!」


 編集長の叔父は面倒くさそうにため息を吐いた。


「もちろん、尻上がりに面白くなっていく作品もある。だがな、良作は冒頭から読者を引き込む魅力がある。新人賞を狙うなら、なおさら意識しないといけない。前にも言ったよな」

「言ってた……気もする」

「ならちゃんと修正してこい。なにが問題かって、俺にアドバイスを求めるくせに、それを実行しないところだ。他の霊長類でももっとマシな学習能力しているぞ」

「なんだとお!」


 なじる叔父と子どものように地団駄を踏む私。幾度となく繰り返されてきた光景に、「また始まったよ」と周りから呆れ笑いが聞こえてくる。


「もっとちゃんと読んでよ! 今回のは力作なんだから!」

「進化が見えん」

「話が進むと面白くなるんだって。とくに中盤からクライマックスにかけてなんか涙無しじゃ語れない感動の展開が――」

「コース料理の前菜が不味かったら、メインディッシュも期待できんだろ」

「ぐぬぬ」


 白い顎髭をたくわえた叔父がまっすぐ私を見る。私はなにも言い返せなかった。


「もういい、帰る!」

「次来るときは原稿だけじゃなく、身なりも直してこい」


 ルームウェア姿の私に叔父が言った。


「これコスパ最強なんだよ? ユリクロで上下セットいちきゅっぱだったんだから! いち・きゅっ・ぱっ!」

「パジャマで原稿を出しに来る奴があるか」

「なに着ようと私の勝手でしょ。他人に迷惑かけてるわけじゃないし」

「おまえなぁ……」


 叔父はなにか言おうとして、寸前のところでやめた。


「なによ」

「いや、いい。とっとと帰れ。おまえと話すと毎回いらん体力を使う」

「えーえー言われなくても! こんな汚いオッサンと二酸化炭素が充満した所にいたら、寿命縮まりますから」


 怒りの歩調で出版社をあとにした。


 *


 くそっ……。くそっ……。


 出版社をあとにして、恐竜のようなドシンドシンという足音を立てて駅へ向かう。


 おもしろくない。ああ、おもしろくない。まったくおもしろくない。


 叔父――桑上草石くわかみそうせきは、出版業界で長く働いている。プロからアマチュア、ファンタジーからノンフィクションまで。いろいろな作家の、いろいろな作品を読み、世に送り出してきた。


 だから、叔父の発言はどれも正論だ。頭の隅でそれはわかっている。あの面倒くさそうな態度とドライな物言いのせいで忘れそうになるが、経験はたしかなものだ。


 でも、それがいけない。無数の作品を扱ってきて編集者としての目は肥えたが、代わりに一つの作品を愛する心を忘れてしまったのだ、あのヒゲオヤジは。だから私の傑作の素晴らしさが理解できない。かわいそうな叔父だ、まったく。


「…………」


 郵便ポストが目にとまった。赤い投函箱は夕焼けの光を跳ね返して悠然と立っている。


「くそっ!」


 行き場のない悔しさを拳にこめて、郵便ポストを殴る。不思議と痛みはなかった。それくらいアドレナリンが分泌され、怒りのボルテージが上がっている。


「このこのこのっ! おらぁあああああ!」


 ボクシングのような連打を浴びせる。鉄を殴る鈍い音は夕方の空に虚しく消えていく。往来の人が奇異な目でこちらを見て過ぎ去っていくが、関係ない。


 私の夢は小説家だ。その登竜門にするべく、いくつものコンテストに応募してきた。が、一次選考を突破したためしがない。審査員の視界の端にもかからなかった。


 だから不本意だけど、長年のキャリアを見込んで叔父に小説の添削を手伝ってもらうことにした。広い砂浜から赤い小石を見つけるのが難しいように、どれだけ私の作品が輝きを放っていても、無数の作品に埋もれては審査員も発見するのに骨が折れる。叔父なら、私の作品を正しく評価してくれるはず――以前の私はそんな淡い期待を持っていた。


 しかし、結局は叔父も同じだった。添削というには毎回イチャモンを付けるだけ。それに、こんな絶世の美女がわざわざ会いに来てあげているのに、いつも厄介者扱い。はらわたが煮えくり返りそうだ。


 叔父の職場に足を運んでいるうちに、コンテストに応募した回数よりも、添削原稿を門前払いされた回数のほうが上回っていた。


 でも、今回は違う。会心の出来……のはずだった。圧倒的な熱量を込めて執筆し、後半なんて自分で書いてて泣いてしまったほどだ。それをあのオヤジはたった一、二枚読んだだけで突き返したのだ。なんという暴挙。


「このッ!」


 渾身の一発。郵便ポストを殴ったところで私の気持ちは晴れない。そんな虚無感に苛まれる私を、郵便局の配達員さんが見ていた。ちょうど集荷の時間なのだろう。配達員さんはニコっと笑った。爽やかな好青年だ。みんながみんな彼のような優しい笑顔の持ち主だったら、この世界はもっと救われていたかもしれない。


「お嬢さん」

「はい」


 声までイケメンである。みんながみんな彼のようなイケボだったら、この世界はもっと慈愛に満ちていたかもしれない。


「サンドバックが欲しいならジムに行ってね」

「……すみません」


  *


「はぁ……」


 玄関の扉を閉めると、今まで姿を見せなかった疲れが肩からのしかかった。スニーカーを脱ぎ捨て、カバンを乱雑にフローリングに投げる。叔父に突き返された原稿がカバンから散らばった。


 リビングに入り、そのままローテーブルに突っ伏してYuriTubeを開いた。


「おっ! 更新されてる!」


 私の気分は一気に高揚した。目的の動画がアップされていることを確認すると、スマホを一旦ローテーブルに置いてキッチンへ。ティーバッグのルイボスティーを淹れて、お供のクッキーをお盆に載せて戻る。


 お茶を一口飲んで、イヤホンを装着したら準備完了。いざ夢の世界へ。


『みんなー! はろはろとっきーーーっ! パーソナリティの風町かざまち渡季ときです。この番組は――』


 透き通った声が耳朶を打つ。一週間に一回更新されるこのラジオ番組は、私の唯一の生きがいだ。


 風町渡季は女性声優である。年齢は私と同じくらいで、愛称は『とっきー』。もともとはテレビアニメ声優だったけど、現在はYuriTube上でしか活動していない。


 なにを隠そう、私は風町渡季の大ファンなのだ。いや、ファンなどという軽い外来語では済まされない。推しなのだ、愛なのだ、この気持ちは極みなのだ。それくらい、とっきーのことを応援している。


『――といただきました。秘め無しさん、いつもありがとっきーで~す。ね~もう九月ですよ、みなさん。例年なら九月ってまだ残暑が厳しいんですけど、今年は雨が多くて、なんだか肌寒いですよね。今年は早めの秋到来になるのかな? みなさんも風邪引かないように気をつけてくださいね』


 気付けばオープニングトークは終わっていて、リスナーからのお便りコーナーに移っていた。一回三十分のラジオ番組は、世界で最も短い三十分を提供してくれる。


 これは動画コンテンツではない。イラスト挿絵が表示されているだけで、とっきー本人が登場するわけではない。だから、彼女の音声だけが流れることになる。耳を澄ませて聴き惚れるも良し、執筆時の作業BGMにするも良し。とても尊いラジオなのだ。


「あぁ、もぅ……しあわせ」


 癒しの声に胸の奥がじんわり温かくなる。顔も見えないラジオ番組なのに、まるですぐ目の前からエネルギーをもらっているような気分になる。クソ叔父との言い合いで鬱積していた不快さが、嘘のように晴れていく。


 いつもの私なら、とっきーの一言一句、息遣いまで脳内に保存するようにラジオを聴くのだけど、今日ばかりは目蓋が重い。怒りは余計な体力を奪う。


 体に流れる疲労物質を意識した途端、まるでとっきーの声が子守唄になったかのように、夜が迎えに来る前に眠りに落ちていった。


 世界で一番の推しの声に、耳を傾けながら。

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