万年筆と渡り鳥はかく語りき
礫奈ゆき
世界で一番の推し
第1話
【万年筆はかく語りき】
東京都千代田区 つきの書房。
校了を控えた編集室には重苦しい空気が流れていた。
キーボードの打鍵音、コピー機の音、電話対応の声。それがこの部屋のすべて。
そんな息の詰まりそうな部屋の中で、私こと
叔父は私の原稿に目を通す。上から下へ、右から左へ。
眼鏡越しの黒目の移動を、私は固唾を飲んで見守る。
しばらくして、叔父は原稿の束をトントンと整えて口を開いた。
「ボツ」
「はあああああ!?」
私はたまらずテーブルを叩いて立ち上がった。
「どこが駄目なのよ!」
「冒頭がすでにつまらん」
「これから面白くなるんだって!」
編集長の叔父は面倒くさそうにため息を吐いた。
「もちろん尻上がりに面白くなっていく作品もある。だがな、良作は冒頭から読者を引き込む魅力がある。新人賞を狙うなら必ず意識しないといけない。前にも言ったよな」
「言ってた……気もする」
「ならちゃんと修正してこい。なにが問題かって、俺にアドバイスを求めるくせに、それを活かさないところだ。ほかの霊長類でももっとマシな学習能力しているぞ」
「なんだとお!」
幾度となく繰り返されてきた光景に、「また始まったよ」という声が周りから聞こえてくる。
「最後まで読んでよ! 今回のは力作なんだから!」
「コース料理の前菜が不味かったら、メインディッシュも期待できんだろ」
「ぐぬぬ」
なにも言い返せなかった。
「もういい、帰る!」
「次来るときは原稿だけじゃなく、身なりも直してこい」
ルームウェア姿の私に叔父が言った。
「これコスパ最強なんだよ? ユリクロでいちきゅっぱだったんだから」
「パジャマで原稿を持って来る奴があるか」
「なに着ようと私の勝手でしょ。他人に迷惑かけてるわけじゃないし」
「おまえなぁ……」
叔父はなにか言おうとして、寸前のところでやめた。
「なによ」
「いや、いい。とっとと帰れ。おまえと話すと毎回いらん体力を使う」
「えーえー言われなくても! こんな汚いオッサンと二酸化炭素が充満した所にいたら、寿命が縮まりますから」
*
くそっ……。
出版社をあとにし、怒りの歩調で駅へ向かう。
叔父の
プロからアマチュア、ファンタジーからノンフィクションまで。いろいろな作家の、いろいろな作品を世に送り出してきた。
それがいけない。編集者としての目が肥えたせいで、代わりにひとつの作品を愛する心を忘れてしまったのだ、あのオヤジは。
だから私の傑作が理解できない。かわいそうな叔父だ、まったく。
「…………」
郵便ポストが目にとまった。赤い投函箱は西日を跳ね返して悠然と立っている。
「くそっ!」
行き場のない悔しさを拳にこめて、郵便ポストを殴る。不思議と痛みはなかった。
それくらいアドレナリンが分泌され、怒りのボルテージが上がっている。
「このこのこのっ! おらぁあああああ!」
私の夢は小説家だ。いくつもの新人賞に応募してきた。
けれど、すべて撃沈。
そこで、不本意ながら叔父に小説の添削をお願いすることにした。
結果はこのザマだ。添削というには毎回イチャモンをつけるだけ。
あまつさえ、こんな絶世の美女を厄介者扱い。
今回は会心の出来……のはずだった。
それをあのオヤジはたった数枚読んだだけで突き返したのだ。なんという暴挙。
「このッ!」
ポストを殴る鈍い音が、夕方の空に虚しく消えていく。
怒りに身を任せる私の背後に、郵便局の配達員さんが立っていた。ちょうど集荷の時間なのだろう。
「お嬢さん」
「はい」
配達員さんはニコっと笑った。爽やかな好青年じゃないか。
「サンドバックが欲しいならジムに行ってね」
「……すみません」
*
玄関の扉を閉めると、今まで姿を見せなかった疲れが全身にのしかかった。
スニーカーを脱ぎ捨て、リュックを乱雑に投げる。
部屋に入り、ちゃぶ台に突っ伏してYuriTubeを開く。
「おっ! 更新されてる!」
私の気分は一気に高揚した。
姿勢を正してイヤホンを装着したら準備完了。
『みんなー! はろはろとっきーっ! パーソナリティの
透き通った声が耳朶を打つ。一週間に一回更新されるこのラジオ番組は、私の唯一の生きがいだ。
風町渡季は女性声優である。愛称はとっきー。
もともとはテレビアニメ声優だったけど、現在はYuriTube上でしか活動していない。
なにを隠そう、私はとっきーの大ファンなのだ。
『――と頂きました。秘め無しさん、いつもありがとっきーで~す。ね~もう九月ですよ。例年なら九月ってまだ残暑が厳しいんですけど、今年は雨が多くて、なんだか肌寒いですよね。今年は早めの秋到来になるのかな? みんなも風邪を引かないように気をつけてね』
あっという間にオープニングトークが終わり、リスナーから届いたお便りを読み上げる。
一回三十分のラジオ番組は、世界で最も短い三十分を提供してくれる。
このラジオはボイスオンリーだ。イラスト挿絵が表示されているだけで、とっきー本人は登場しない。
耳を澄ませて聴き惚れるも良し、執筆時の作業BGMにするも良し。とても尊いラジオなのだ。
「あぁ、もぅ……しあわせ」
癒しの声が、鬱積していた怒りを溶かしていく。
顔も見えないラジオ番組なのに、まるですぐ目の前からエネルギーをもらっているような気分になる。
いつもの私なら、とっきーの一言一句、息遣いまで脳内に保存するようにラジオを聴くのだけど、今日ばかりはまぶたが重い。
怒りは体力を奪う。
とっきーの声が子守唄になったかのように、夜が迎えにくる前に眠りに落ちてしまった。
世界で一番の推しの声に、耳を傾けながら。
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