空也、ムスヒの痛みを知ること
無性の神がそっとつぶやいた。
「付き合ってもらって申し訳ない。もう、大丈夫だから」
「だ、大丈夫じゃないッスよ。ムスヒさん、ちゃんと話しませんか?場所変えましょう」
急いで空也はタクシーを拾って人混みを避けた。運転手にタカギの店を告げると、ムスヒは首を横に振った。仕方なく、近くの公園で降ろしてもらうよう頼んだ。
誰もいない広場で、空也は錆びたベンチにムスヒを座らせると、自販機で買った缶コーヒーを手渡した。
「人間の君に聞いてみたかったんだ」
表情はいつもと変わらない。しかし、少し苦しそうな声だった。
「ムスヒさん」
「ボクは、どちらなんだろうね」
一点を見つめたムスヒの目は、何も映していないようだった。どちらも何も、ムスヒも他の別天神と同様に無性であるはずだ。性差意識も性欲もないのだ。
返答に窮していると、ムスヒが空也の顔を見つめた。
「君の言いたいことはわかる。ボクたちに性別がないのは太古の昔から認識していることだから。そうではなくて」
黒い瞳がわずかに揺れる。
「ボクはこれが限界なんだ」
「限界?」
ムスヒが目をそらした。まるで逃げるように。
「これ以上、男性らしい姿、女性らしい姿に変えられない」
「……」
「君に納得してもらうように、さっきはわざとやったんだけど」
無性の神が細い片腕を擦る。
「……ボクの身体は今君が見ている部分以外は出来上がっていない。ただの霞だ」
「えっ」
空也は思わず腰を浮かしてしまった。今、見ている部分といえば、頭部と首と手だけだ。
「普段は風船のように服を膨張させて、身体を形成している。だから少し触れただけでは違和感がないはずだけどね」
「そ、そうなんですか?じゃあ、服の下は透明ってことですか?」
「うん」
「あの、でも、言わなきゃ誰も気づかないんじゃ……」
「もちろん、誰にも言っていない。生産を司る神産巣日神が、まさか己の身体を生み出すことが出来ないなんて、みんな思わないだろうしね」
空也は興味本位でムスヒの姿を観察してきたことを恥じた。好奇の視線にさらされ続ける当人の気持ちを無視してきたのだ。人間として最低なことをしてしまった。
缶コーヒーを開ける音がした。ありがとう、小さくそう言ってムスヒは缶に口をつけた。コーヒーを飲むムスヒは人間と変わらない。
「ムスヒさんは自分のことボクって言うから、最初は男の姿なのだと思いましたけど、やっぱり目とか見ていると女の子なのかなって思ったりしていました」
「なるほどね。仕事だと〝私〟も使っているかな。それが周りを混乱させているのかもしれない」
空也も含めた周囲からのそういった空気を感じては、ムスヒは苦しんでいるのだ。他者と距離をとろうとするのも、近寄りがたい雰囲気を作り出しているのも、この神だけのせいではない。
ムスヒは街中でもらったティッシュや小冊子を手にとって言った。
「この中途半端な肉体は、ボクの人間に対する理解が足りないからいけないのだと思って、ライターの真似を始めたんだ。色々な人間の話を聞いて、心の機微を学んできたけれど、どうしてもダメだった」
空也は精一杯の励ましの言葉を探す。
「こんなこと言うのもアレですけど、人間の中にも同じようなことで悩んでいる人いますよ?でも一生懸命に生きていると思います」
「心と身体の性別が不一致な人々だよね。彼らの苦しみや痛みは理解できるものがあったよ。でも、それも男女という人間の性差があるからこその障害なんだよ。もちろん、当人にしかわからない苦しみもあるだろうけど、自分の心がどちらかを認識している。ボクはね、そこにも辿り着けていないんだ。無性の自分はその必要もないはずなのにね。おかしい話だ」
温い風がムスヒの前髪を揺らした。
「早く高天の原に帰りたかった」
見上げた先には秋の曇り空が広がるだけだった。
「でも、あの人と会ってしまったんだ」
空也は身体に電流が走る感覚に襲われた。
まさか――。
「それって、この前ビアガーデンで会った寺戸さんッスか?」
無言でムスヒはうなずいた。何の感情も乗せない顔を空也は見つめ続ける。
「最初に会ったのは七月の終わりだったかな。彼はね、突然ボクのテーブルに近づいて来たんだ。正確に言うと、彼ら、か。最初はグループでボクに絡み始めた」
あのビアガーデンで初めて会ったと寺戸は言っていたが、今の話の展開だと第一印象は良くなかったようだ。
「酔っ払っていたんだろうけど、仲間の一人がボクによくわからない理由で因縁をつけてきてね。適当にあしらったら、それが気に食わなかったようで、殴りかかってきたんだ」
「だ、大丈夫だったんスか?」
「ウマから護身用に借りていた動物が追い払ってくれた」
空也は先日のミツバチの大群や謎の封筒を思い出し、未知の力に恐怖した。ムスヒが借りたのは何の動物なのか気になったが、この場は黙っておくことに決めた。
ムスヒは何の表情も浮かべないまま話を続けた。
「その後、何日か経ったら寺戸がまた現れたんだ。平謝りしながらも陽気にビールを飲んでいたな。不真面目で不思議な人間だと見ていたけれど、どうも生い立ちはあまり恵まれていないようなんだ。肌守りを持ち歩いているのも、そのせいなんだろうね。けど、やさぐれることもなく自分の力で成功した。将来の展望も、理想を掲げるだけでなく謙虚さがあった。稀有な存在だと思って、色々と話をするようになったんだ。寺戸もボクのことに興味を持ったから今も交流を続けてくれるんだろうけど」
ムスヒは空き缶のロゴを指でなぞりながら、これまでの経緯を語る。けれども、その顔はあくまで何の感情も載せてはいない。ただの業務報告のようにさえ感じる。
それでも空也は、この神が抱いている淡く未熟な想いを総括した。
つまり。
「ムスヒさんは、寺戸さんのことが好きなんスね」
「そうだね」
あっさりとムスヒは己の気持ちを認めた。空也の方が赤面しそうだった。その〝好き〟が男女の恋愛感情ではないとはいえ、神が人間を慕うのは一大事のような気がする。
しかし、すぐさまムスヒの黒い瞳に影が落ちた。
「ただ、これ以上親身になるのは怖いんだ。ボクは、何を求められると思う?」
「え?」
「逆に、これ以上ボクは何も求めちゃいけない気がする」
ムスヒは両手を見つめた。
「トコタチのように、身体のぬくもりを感じることができれば、それで満足だったかもしれない。その感覚を失ったらいくらでも繰り返せば良いのだから」
昨夜、ムスヒがあの二柱から風俗街に誘われた時、適当に合わせているのだと思っていた。その心中を思うと、胸が締め付けられる。
空也は意を決して言った。
「オレ、ガキですから可愛い子見たら嬉しくなるし、女の子の身体とか触れたら反応しちゃうし、本当にバカだと思うッスけど、でも身体のつながりとか温もりとか、そんなものより心のつながりの方が絶対に大事ッス。だから、寺戸さんのこと考えて悩むムスヒさんは、別に間違っちゃいないし」
「……ありがとう」
言葉を遮るように、ムスヒは立ち上がった。
「寺戸は人間の男だから、人間の女を愛するものだろう?」
「まあ、一般的にはそうですけど……例外もありますよね」
「そうだとしても、人間の男を愛するのは間違いない」
風に乗って赤とんぼが周りを漂う。それらに手を伸ばしながら、ムスヒがつぶやいた。
「ちゃんと真似事ができれば、こんな悩みもなかったはずなのに。ありのままを受け入れてもらうことがこんなに怖いものとは思わなかった。それとも、ボクはまだ何かを彼に期待しているのだろうか」
空也は押し黙るしかなかった。これまでの人生で覚えた言葉の、この無力さは何だ。
ムスヒが公園の時計を見上げて言った。
「今日は色々と申し訳なかった。もう時間だよね」
「あ、はい。すみませんッス」
いつの間にか六時になろうとしていた。すぐ近くとはいえ遅刻はまずい。しかし、ムスヒを放って置くこともできない。
「もう一つ、お願いがあるんだ」
少しだけ眉間にシワをよせたムスヒが空也を見つめる。
「今日のこと、タカギには黙っていて」
「え?」
タカギこそ、一番の理解者だと思うのだが。そう言おうとした空也を見つめ、ムスヒは首を横に振った。
「迷惑かけたくないんだ。タカギにだけは」
この神も他の別天神と同じだ。それほどタカギに気を遣う必要があるのかと気になってしまう。
「でも、タカギさんはこんな人間のオレにも優しいし、面倒見も良いし、力になってくれると思うんですが」
「本当ならそんな必要はないんだ。高御産巣日神にそんなことをさせてはいけない。タカギこそ、早く高天の原に帰さなければ」
その返答に、空也は一瞬言葉を失った。ムスヒは再び空を見上げる。
「主殿はともかく、ボクもウマも、トコタチでさえ同じ考えのはずだ。タカギがいない天界など、考えられない」
赤とんぼが風に押し流されていく。
ムスヒはそれを見届けると、空也に向き直った。
「天の浮き橋が見つからないのは、まちがいなくボクのせいだ。情けないね。ウマやトコタチが抱えていたものに比べれば次元の低い縛りだと思う。君にすべてを話して、わだかまりが消えればなどと期待したけど、やはり難しいようだ。橋は架からない」
空き缶をゴミ箱に捨てて、ムスヒは夕闇の中を歩いていってしまった。
神様は天の原へ帰りたい ヒロヤ @hiroya-toy
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