現実:4
感覚的にワンフロア分登ると、すぐに階段は打ち止めとなった。
非常階段のように殺風景な階段は、淡い照明の光の下で、また灰色の壁を浮かび上がらせている。
一呼吸置く俺には構うことなく、先を歩いていたインクがまたドアノブに手をかけた。
「……想像していたよりは、居心地が良さそうですね」
やや乾燥しているが、吹き込んでくる暖かな空気。
これまでの狭い廊下と階段とは違い、大きく広がった空間。
先ほどまでの色味のない景色とは違って、橙色の絨毯や壁に立てかけられた絵画が視覚に情報を与えてくれる。
「……どうやら俺たちを攫ったのは、身代金の要求のためじゃなさそうだな」
吹き抜けのようになっている大広間は、奥の方に螺旋階段があり、横だけではなく縦にも奥行きがある。
吹き抜けの二階部分には沢山の本棚が並んでいて、通路部の四隅にはまたそれぞれ俺たちが出てきた場所と似たような灰色の扉が見えた。
疑問は増えるばかりで、また頭痛がする。
全体的にゴミ屋敷とは程遠く、手入れは行き届いている印象で、どう考えても困窮している人間の所有物とは思えない。
一般庶民にカテゴライズされる俺には、到底関わりがないような相手の手の中にいる気がしてならなかった。
「まずは試すべきは、あそこですね」
「あそこ?」
自分が連れ去られてきた場所の内装への手間のかかりかたに面を食らっている俺とは違い、インクは迷わずある一点に向かって歩き出す。
そこは、他の灰色の扉とは違って、漆のような光沢のある黒い扉。
大きさも一回り以上大きく、何か威圧感のようなものを感じさせる。
出入り口だろうか。
俺は今更ながらに気づく、ここには窓がない。
「……さすがにここには、鍵がかかっていますか」
がちゃがちゃ、とその黒い大扉のドアノブを乱暴に捻るインクだったが、これまでとは異なり素直に開くことはない。
しかし、錠や鍵穴のようなものもまた見当たらない。
いったいどうやってあの扉を開ければいいのだろう。
「面倒ですね。壊しますか?」
「相変わらず暴力への迷いがないな」
「私を邪魔するものは、全て壊します。誰も道は譲ってくれません。道はこじあけるものです」
古代ギリシャのスパルタの民として育ったのかと疑うような血の気の多さ。
黙っていれば可憐なのに、こうも内面が攻撃的だと全てが台無しだ。
そんな、もし彼女に念動力だけでなく
「どうした? まさか、君、俺の心を読む力とかないよな?」
「は? 何の話ですか? そんなものあったら、今頃トオルはトマトソースまみれのミートボールになってますよ」
「ミートソースパスタ好きだったのに、もう食べれなくなりそうだ」
「そんなくだらないことはどうでもいいんです。問題はこの扉です。この扉、変です」
俺に軽いトラウマを植え付けたことをくだらないと言い切り、インクは僅かな困惑と多大な苛立ちを表情に出す。
黒塗りの扉を忌々しそうに彼女は睨みつけている。
いったいこの扉の何が変なのだろう。
見た目としては、そこまで何か特別目立つところはない。
たしかに大きめではあるが、あくまで常識の範囲内に思える。
直接触らず他人やものを自在に動かせる十七歳の女子の方がよっぽど変だ。
「この扉、私の力がかかりません」
「かからない?」
「馬鹿みたいなオウム返しはやめてください。腹が立ちます」
「……ごめんなさい」
素直に謝った俺を一瞥すると、インクは小さく舌打ちする。
そのうち、本当に彼女を不機嫌にさせたという理由だけで肉団子にされてしまうかもしれない。
「力がかからないっていうのは、この扉が見た目以上に重いとか、硬いとか、そういうことか?」
「いえ、そういった抵抗が強いという感覚ではありません。なんというか、空振りというか、そもそも、私の異能が一切効いてない気がします」
「それは、どうしてだ?」
「私が聞きたいですよ、そんなの。試しにトオルでも投げつけてみますか?」
「俺の命を軽く試すな」
どうやらインクの異能が、なぜかこの黒扉が作用しないらしい。
いったいどういった仕組みなのか、それともインクの方に何かしらの問題が生じているのかはわからないが、これまでのように力押しではどうにもできないようだ。
「でも、何かを投げつけるのはありですね。上に、本棚のようなものもあるし、試してみますかね……」
それでもまだインクは、この黒い扉を無理矢理壊すことを諦めてはいないらしく、物騒な目つきで周囲を見回している。
「それ以上君の方法で試しても、無駄だから、やめた方がいい」
しかし、その時、俺たちの頭上から、特別大きくはないのに、やけに耳に響く声がかけられる。
大広間の二階部分の通路から、穏やかな微笑を浮かべて、こちらを見下ろす蒼瞳。
すらりとした細身に肩口まで届く長さの髪。
柔らかな声色に、中性的な外見も相まって、一目では性別も判別できない。
「あなたが私たちを——」
「ここに連れ去ったのは、僕じゃないよ」
インクの言葉を遮るようにして、その蒼い瞳の何者かは言葉を紡ぐ。
短気な彼女はそれが気に障ったのか、右手を少し掲げて、異能を使う素振りを見せる。
「——へえ。君、
だが、実際にインクが力を使う前に、興味深そうにその青い瞳の何者かが笑った。
インクは掲げた手を宙空に止めたまま、警戒に眉間に皺を寄せる。
彼、あるいは彼女は、俺たちと同じ側なのかどうか、それが一番の問題だ。
「ああ、そんな警戒しないでよ。べつに、挑発するつもりはないんだ。そっちの君が二秒後に僕に問いかける通り、僕も君たちと同じだよ。ここがどこなのかも知らないし、どうしてここに連れてこられたのかも知らない」
そっちの君、という言葉の時に俺を指さして、その人物は無抵抗を示すように両方の手のひらを俺たちの方に向けた。
空色に青く染まる瞳は、真っ直ぐとこちらに向けられているのに、どうやらそこに映っている景色はまったく別のものらしい。
「僕の名前はオゾン。君たちに変に隠すと、六秒後にそっちの彼女に痛めつけられてしまうみたいだから素直に白状させてもらうと、僕には十秒先までの未来が見えるんだ。俗に言う、“
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