現実:2



「おはようございます」


 今が朝かどうかもわからない俺に、落ち着いた声がかかる。

 鈍痛響く中、ゆっくりとまぶたをひらけば、そこには天井から足を伸ばす、ひっくり返った黒髪の少女がいた。


 いや、違うな。


 すぐに思い違いに気づく。

 俺から見た天井の方が、床。

 逆さまになっているのは、俺の方だ。


「おはようございます、と言ったんですが」


 黒髪の少女は、不機嫌そうに挨拶を繰り返す。

 なぜか逆さ吊りで宙ぶらりになっている俺は、朦朧としている中、急かされている気がして、仕方ないので挨拶を返す。


「……おはようございます」


「そうです。それでいいです。挨拶は返すものです」


 満足そうにうんうんと頷くと、少女はその黒くて大きな瞳を真っ直ぐと俺に向ける。

 段々と記憶が蘇ってくる。

 ただ、蘇ってきた記憶はどれもこれも荒唐無稽で、繋がりがなく、むしろ思い出す前より気分が悪くなった。


「まず一つ前提として訊きたいんですが、私を攫った頭のおかしな不届き者があなたということでいいですね?」


「……いや、違う」


「は?」


 いや、は、じゃないんだが。

 なぜそんな自信満々に盛大な勘違いをできるのか、不思議で仕方がない。


「そんな今にも犯罪を犯しそうな顔してるのに?」


「顔で人を決めるな。あと、普通に失礼だろ」


「犯罪者相手に礼儀とか、いります?」


「犯罪者相手じゃないんだから、いるだろ」


「ふむ。そうですか。まあ、はい、私がロリコン人攫いでーす、と正直に吐くような人間なら、ロリコン人攫いになるわけないですよね」


「ロリコン人攫いとか言ってるが、君は何歳なんだ?」


「十七です」


「同い年だ」


「まさか。その顔でご冗談を」


「失礼こえて無礼だな」


 ふっ、と俺の反論を鼻で一蹴すると、少女は一歩分俺に近づく。

 じろじろと俺の顔を観察すると、なぜか急に顔をしかめた。

 こいつ、本当に態度悪いな。


「一つだけ、疑問があります」


「よく一つで済んでるな」


「それは、どうやってこのどう見ても凡庸で平凡で特筆することのない無用なあなたが、私という特別な存在をここまで連れてきたのか、ということです」


「だから前提から間違ってるんだよ」


「あなたが無能なことですか?」


「その前提じゃなくて、いや、その前提も本当は否定したいところだが」


「無駄口はいいです」


「……さっきからずっと俺を誘拐犯だと思っているみたいだが、それは違う」


「違うというと? ロリコン人攫いですか?」


「意味同じだろ。そうじゃなくて、俺も、君と同じってことだよ」


「どこが同じなんですか? 脳髄割っていいですか?」


「言葉遣い過激すぎだろ」


「言っておきますが、冗談で言ってません」


 黒髪の少女の瞳は、怖いくらいに澄んでいる。

 いまだに宙に浮いたままの俺はそこで思い出す。

 

念動力者サイコキネシス


 当然のように空中で逆さ吊りになっている俺は、現実離れした出来事が多すぎて忘れているが、今この場でもっとも特別な出来事は、彼女の存在だ。

 俺の頭がイカれているか、これが夢でなければ、説明できることは何一つない。

 念動力なんてもの、フィクションの世界でしか聞いたことがない。

 俺の生きる世界に、異能力なんてものは存在しなかった。


「たぶんだが、俺も、君と同じで、攫われた側の人間だよ」


 ここがどことか、どうしてここにいるのかとか、なぜ異能力者なんて都市伝説じみた存在が目の前にいるのかだとかは、今はどうでもいい。

 一番大事なのは、今まさに俺は、この身長百六十センチもなさそうな小柄な女の子に、命を握られているということだった。

 

「……ふむ。まあ、正直、薄々途中から気づいていました。この私を攫うには、あなたはあまりに無力すぎる」


「わかったなら、おろしてくれ。そろそろ吐きそうだ」


「私は、自分で言うのもなんですが、この通り特別です。普通の一般人が私を攫うなんてことは、ほぼ不可能に近い」


「おいおい、他人の話きいてるか? まず、下ろしてくれ」


「ただ、解せないのは、私が攫われた際の記憶もないということです。もし、あなたが今、あえて力を隠している場合は、やはりあなたが私を攫った犯人ということになる」


「頼む。おろしてくれ。あと最初からずっと、短絡的すぎる。すぐに俺を犯人にするな」


「私、考えるのは苦手なんです。やっぱり、あなたの言葉が嘘だった時のため、念の為に捻っておきますか?」


「捻るって言葉がこんなに恐ろしく聞こえたのは初めてだ。あと、はやくおろしてくれ」


「おろせおろせ、さっきからうるさいですね。DV男ですか?」


「言葉遣いだけじゃなくて発想も過激すぎる」


 再び、少女はふっと鼻を鳴らす。

 どうやら他人を小馬鹿にする癖があるらしい。

 それか、俺を小馬鹿にする癖の間違いか。



「私はインク。あなた、名前は?」



 インク。

 変わった名前だ。

 本名じゃないかもしれない。


「……トオル」


 相手が下の名前しか名乗らなかったで、合わせて俺も下の名前だけを告げる。

 その瞬間、俺を絡め取っていた重力から解放され、冷たくて硬い床に自然落下する。

 ただでさえ軽い打撲だらけの体に、また一つ二つ痣が増え、俺は痛みに顔をしかめる。

 そんなぼろぼろの俺を睥睨するようにして立つ少女——インクは真意を悟らせない無表情で、友好さの欠けらもなくやっとまともな“挨拶”をする。



「よろしくお願いします、トオル。あなたの言葉に嘘がないことを、祈ってます。私も、人の内臓を潰す感覚は、あまり好きではないので」


 



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