現実:1


 蛍光灯の光がやけに眩しくて俺は開いたばかりの目をもう一度閉じた。

 どこかにぶつけたのか、誰かに殴られたのか、頭部には鈍痛が響き、どことなく全身にも倦怠感が漂っている。

 後頭部には硬くて冷たい何かが触れていて、そこでやっと俺は自分が仰向けに倒れ込んでいることに気づく。


 再び目をあける。


 瞳に映ったのは見たことのない灰色の天井。

 困惑に身体を起こしてみても、胸の中でにわかに騒めき出した焦燥を落ち着かせるものは見つからない。


 ここはどこだ?


 やっと完全に自意識を取り戻した俺の頭の中を支配したのは単純なクエスチョンマークだった。

 コンクリートの床に白塗りに壁。

 机も棚も窓もない異常なまでに簡素な部屋。

 他人の姿は見えず、どこに続いているのかわからない木製の扉が一つあるだけ。

 改めて自分の身を確認してみる。

 軽い頭痛が続いていることを除けば、普段と変わった様子はないように思えた。

 出血している箇所もなければ、目立った外傷も特にない。


 どうして俺はここに?


 目を覚ますと見知らぬ場所にいた。

 間違いなく俺が今直面している現実は異常だった。

 自らの記憶を探ってみてもこの状況を説明できそうにはない。

 いつも通り家から最も近いという理由だけで進学を決めた私立高校に通い、何の変哲もない一日を過ごし、真っ直ぐに帰宅した。その後は母が作り置きしてくれていた夕飯を一人で食べ、日課のコンピュータゲームと数時間触れているとそのまま寝落ちしたはずだ。

 そして目が覚めるとこの場面に記憶がつながる。


 いったいどうなっているんだ。


 混乱が収まってくると次に襲い掛かってくるのは恐怖だった。

 俺の貧困な想像力でまず思いつくのは拉致監禁といったところだ。

 幼い頃に父とは死別しているため母子家庭で育った俺だが、実際のところどちらかといえば裕福な家庭で育ったといえるだろう。

 一人っ子だということも考えると、攫う対象としては自分でも中々適当なのではないかと思わなくもない。

 暴行を受けた気配はない。

 だとすると睡眠薬でも盛られたか。

 色々思考は働くが答えは出ない。

 あまりにも情報が少なすぎた。

 ゆっくりと立ち上がり、辺りを注意深く観察する。

 すると部屋の隅に真っ黒なボストンバッッグがあることに気づいた。


 あんなものさっきまであっただろうか。


 寝ぼけて見過ごしたのかもしれない。

 そのまま部屋の中を見回してみたが、他に特別なものは見つけることができなかった。

 生唾を飲み込み、バッグの方へ近づいてみる。

 こんなあからさまに置かれたら気になって仕方がない。

 もしかすると罠かもしれないが、もし俺に危害を加えるつもりだったらそんな回りくどいことをする必要もない気がした。俺が気を失っている間にどうとでもできたはずだ。

 慎重に手を伸ばし、バッグをゆっくりと時間をかけて開いていく。

 何かが入っているようだ。

 警戒を緩めずに内側がよく見えるようにすると、中に入っている物体が何なのかが判明した。


「……嘘だろ」


 その物体を手に取り、そっとバッグから取り出す。

 ずっしりとした重みに、鈍い光沢感。実物を見るのは初めてだったが、それが何なのかはすぐに理解できた。

 拳銃だ。

 ガンマニアではないので詳しい型などはわからないが、それが俗にいうピストルなるものであることは間違いなかった。

 信じられない気持ちでさらにバッグの中を覗き込んでみると、一枚の紙きれが残っていることに遅れて気づく。

 取り上げてみれば、その紙切れには文字が書かれていて、すでに混乱し切っている俺をさらに動揺させるメッセージが記されていた。


“弾丸は一つ。残り二人になったら引き金をひけ”


 弾丸は一つ。

 それはこの拳銃が命を奪う可能性のある凶器だということを示している。

 さらに残り二人になったらという文面も気になった。

 この近くに俺以外の誰かがいるのだろうか。

 正確には意味を把握できず、その不気味さが俺の不安を煽った。

 それに俺はもう一つ気になることがあった。

 それはメッセージの内容ではない。

 この謎のメッセージを誰が書いたのかという問題だ。

 改めて俺は正方形の白紙をじっくりと眺めてみる。

 すると俺はあることに気づき、そして戦慄した。


「……これ、俺の字だよな?」


 思わず自問自答の声が外に出てしまう。それほどの衝撃だった。

 全体的に角ばっていて、平仮名が小さくなりがちなその字体は間違いなく俺自身のものだった。

 当然ながら俺がこんな文字列を書き記した記憶は全くない。

 ただよく考えてみると、もう一人俺とそっくりな字を書く人物を知っている。それは母だった。

 これは母からのメッセージなのだろうか。

 それとも俺の記憶がないだけで、これは自分で書いたものか。

 または誰かが俺と母の字体を真似て書いたフェイクか。

 考えても答えは出ない。

 俺は念のためメモと銃をポケットにしまい込み、部屋を探索することにする。

 まず試しに扉の鍵が壊せないかと、ドアノブに触れてみた。すると意外にもロックはかかっておらず、無駄に大袈裟な音を立てて扉は開く。

 おそるおそる半開きになった扉の外を覗いてみると、そこに壁紙の一つも貼られていない真っ白な廊下が続いていて、人の気配は全くしない。

 もう一度部屋の中を見渡した後、慎重に扉の外へ足を踏み出す。

 換気扇だろうか。耳障りな濁った音が鼓膜に響く。

 ここはいったいどこなのか。やけに生活感がせず、普段誰かが使っているような様子もない。

 てっきり監禁でもされていると思っていたが、それにしてはやたらと衛生的というか、綺麗な場所だった。

 まるで何かの実験施設のようで、床には埃の一つも見当たらない。

 混乱が深まるばかりの俺は左へ行くか右に行くか、首を振りながら逡巡する。


「あ」


 するとちょうど俺が右へ向かおうと決めた瞬間、左側からはっとしたような声が聞こえてきた。

 俺をここに連れてきた人物に見つかったか。

 声のした方に振り返りながら、慌てて臀部のポケットにしまった銃に手を伸ばす。


「……見つけました。私をここに連れてきた小悪党」


「え?」


 しかしその時、突然俺の足が床から離れてしまう。

 奇妙な浮遊感に支配され、いったい何が起きているのか理解できない俺はやっとここで廊下の左奥からこちらを睨みつけている人物と視線を交わす。

 黒い髪に黒い瞳。

 気の強そうな相貌には少女のような幼さが垣間見えるが、小柄な背丈に反して盛り上がりのある胸部がれっきとした女性であることを主張している。


「運が悪かったですね。あいにく私は“ただの女の子”じゃない」


 黒髪の彼女から確かに感じた怒り。

 そこで俺は気づく。

 俺たちは互いに大きな勘違いをしていたということを。


「ま、待ってくれ、俺は――」


 ――ゴン、と鈍い音が後頭部に伝わり、遅れて全身に痛みが広がっていく。

 最後まで言葉を紡げながった俺は、今度は天井に勢いよく身体をぶつけられる。

 一度めの衝撃だけで痛覚が壊れてしまったのか、感じたのは鉄臭い香りが鼻に充満するくらい。


「まあでも、まさか攫った相手が“念動力者サイコキネシス”だとは思わないですよね。そこくらいは同情してあげます」


 遅れて気づく。

 最初の衝撃は、きっと壁に叩きつけられた。

 そして最後に床に思い切り落とされ、そこで俺の意識は再び途切れて消えた。




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