考える海

千本松由季/YouTuber

考える海


考える海


目次

一 摩天楼

二 背中の絵

三 姉

四 失うもの

五 考える海



      一 摩天楼


 どんなに記憶を辿っても、いつも、美帆は屈強な男達と一緒だった。同じ男の時もあったし、違う男の時もあった。


 美帆は九才になった。父に外で会う約束をして、父の仕事が延びて、ボディーガード達は美帆と映画館へ入った。額の汗が無かったら、美帆はお人形に見えた。身体の中に残る、外の狂ったような熱気がなかなか引かなかった。彼女の左右に男が座り、あとの二人は左右の出入り口に立っていた。

 ソビエトの映画監督、タルコフスキーの『惑星ソラリス』。一九七二年制作のSF映画など観る者も少なかった。時折、観客達はドアを守る男達を振り返った。シェパードのように鋭い目。熱波の東京に黒い長袖。

 それは子供が観るような映画ではなかった。しかし、学校へ行かない美帆には優秀な家庭教師がたくさんいて、彼女のその映画への理解度は完璧だった。

「ソラリス」という惑星を覆う「海」。知能を持った「考える海」。美帆はその泡立ち、渦巻くピンクの海を、ストロベリーシェイクみたいだと思った。イチゴ色の海の、思考する海の困惑に、彼女は共鳴した。海は待っている。自分が誰なのか教えてくれる者を。


 美帆の右側に正樹が座っていた。正樹は児童養護施設で育った。成績のいい彼を、美帆の父が引き取った。来年大学の建築家へ送ることに決まった。将来、父の事業を手伝わせるために。父の表向きの事業は不動産デベロッパーだった。美帆にはそれがどんな仕事なのか分かっていた。

「美帆」

正樹が美帆の腕を突っついた。美帆のことはみんな「お嬢さん」か、「美帆さん」と呼ぶのに、正樹だけは「美帆」だった。他の男達と違って、正樹だけは半袖だった。

「こんなの何が面白いの?」

正樹は大きく伸びをした。

「うるさい」

美帆は銀幕から目が離せなかった。迷子になった巨大な「海」。その焦燥感。


 美帆達は父のオフィスを尋ねた。いつものことだが、エントランスやエレベーターの中で、知らない人達が美帆に会釈した。

 摩天楼の上。父はスタッフ達と大きな机いっぱいの設計図に見入っていた。藤原組の表の商売。大規模施設の建設。

美帆達は誰もいない隣のオフィスで待った。東京中を見渡せる。夜が近付いても活動が止まらない。

 この都会も、あの「海」みたいに考えているのだろうか?

 正樹が窓にへばりついた。

「美帆、俺は最強の建築家になって、天下を取る。組長みたいに!」

正樹は大きく腕を広げ、そして景色を抱き締めた。美帆も真似して両手を広げて窓に押し付けた。美帆は未来のある正樹が羨ましかった。美帆の将来は、いつも乗せられる車の、黒く塗られた窓から見るみたいに、なんにも見えなかった。



      二 背中の絵


 美帆の人生最初の記憶。……湯船の中、美帆はお臍を下に浮いていた。元気に足で湯を蹴った。伸びた髪がお湯の中で、背中をくすぐった。彼女の笑い声がこだました。

 天窓に逃げる湯気のトンネルの向こうに、美帆の父親の背中が隠れたり現れたりした。記憶の中の風景の全部がモノクロームなのに、父の背中に描いてある絵だけに色が付いていた。いつも彼女は、まだおぼつかない手で父親の背中をタオルで擦ってあげた。擦っても落ちない絵。美帆は不思議に思った。


 その絵は今でも変わらない。……滝に逆らって登る鯉。蒼く光る鱗。滝壺に散る桜。

 幼稚園にも小学校にも行かず、美帆は家にいた。

 美帆の頭が少しずつ壊れて、見えてはいけない物が見えたり、聞こえてはいけない物が聞こえたりした。美帆の母と同じ病気。父は美帆を同じ布団に包み、抱いてやった。美帆の幼い女の部分に触った。父は母にもそうして騒ぐ頭を沈めた。

 病院の帰り、美帆は行ったことのない小学校を見たくなった。運転手に頼んで遠回りした。車が止まる。ボディーガードに外に出ないように言われる。プールに子供がたくさんいる。男の子も女の子もいる。大人の男性が何人かいて、きっとその人達は先生で、でも、ずっと見ていても、どっちから見ていても、誰の身体にも絵なんて描いてなかった。



     三 姉


 母のいとこ父を訪ねて来た。白い髪の言葉になまりのある男だった。美帆はお盆でお茶を運んだ。

「お母さんとそっくりになって」

母は美帆にとってただの亡霊だった。写真を見たことすらない。父はきっと思い出したくない。

「どこが似てるんですか?」

「全部かなあ。違うのはね、貴女のお母さんの髪はそんな風に巻いてなかったですよ」

 これは夕べ、美容師になりたいお手伝いさんが、遊びでカーラーを巻いてくれたから。そんなに似てるんだ。知らない、死んだ人に。

「貴女のお姉さんは、お父様に似ていましたね。あんな事件に巻き込まれなかったら、今、……そうですね、大学生ですよ」

「私に、姉がいたの? 事件って?」

 彼は沈黙した。父が応接室に入って来た。それ以上のことを聞けるチャンスはなかった。


 そのお客が帰ってから考えた。「事件」というからには、その記録がどこかにあるに違いない。美帆はその時、学校に行っていれば、中学二年生だった。

 父の背中に絵が描いてある理由も、家に険しい目の男達が出入りしてる理由も分かっていた。父には表の顔と裏の顔があることも。表の商売と裏の商売があることも。

 家庭教師が帰ったあと、美帆はようやく一人でパソコンの前に座った。「藤原組」、それは父の組の名前。そして「少女」という言葉も入れてみた。『藤原組長女惨殺』というタイトルの記事を見付けた。どうやって殺されたのかは書いてない。惨殺というくらいだから、きっとマスコミの取り決めで書かないことにした。

 動機は書いてある。勢力争いに負けた組がその腹いせにやったと。「余りに残虐な殺人であり、他に前科もあったことから、主犯の死刑が確定し、もう執行されている」美帆は自分にいつもボディーガードがいることが理解できた。

 その日から美帆は部屋に籠って、ネットで世界中の残酷な殺人事件について調べた。凶悪であればあるほど、彼女の気持ちが高揚した。もし自分が被害者だったら、どんな気持ちがしただろう? 何度も何度も想像した。

 美帆の頭は、この頃から本格的に錯乱し始めた。


 医者に入院するか? と聞かれた。

「幻視、幻聴はまだあるの?」

殺人事件を追い過ぎて、美帆は憔悴していた。入院はしたくないです、と彼女は言ったが、父に諭されて入院することになった。

 入院中は必ず組から来たボディーガードがいて、食堂にまで付いて来た。

 美帆の妄想は酷くなって、自分が殺される場面が鮮明に浮かぶようになった。最も苦しい死は、生きたまま焼かれることだ、と書いてある。そうなったら、どんな気持ちだろう? 


 美帆は十八になった。世界中の殺人事件を集めたデータはかなりの量になっていた。

 その頃になっても、美帆は父親と同じ布団に寝ていた。彼等が普通の関係でないことは周りの誰もが知っていた。

 父親は死んだ妻とそっくりで同じ病気を持つ美帆を、妻と同じように愛していた。美帆はそんな年になっても、父親と関係するのが異常だと知らなかった。ある程度、誰にでも、そういうことはあるんだと信じていた。美帆の父親への愛は純粋で、父に捨てられた時が、彼女の死ぬ時だった。

 凶悪殺人のことを考えている時と、父の大きくて硬い物が美帆の中で動いている時だけ、錯乱した頭が静まった。



      四 失うもの


 最高裁の記録を見るのは手続きが複雑だった。美帆の手には負えないことが分かった。それまで籠の鳥で満足していた美帆は、初めてボディーガードなしで出掛けた。

 駅に行く途中で、正樹に会った。彼は建築家の大学院生になっていた。既に美帆の父の仕事を手伝っていた。正樹の夢はどこまでも大きかった。

「美帆、こら、一人でどこへ行く?」

「私は、行きたい所へ行って、やりたい事をやる!」

「心掛けはいいけど。心掛けだけじゃ世の中渡っていけない。俺が一緒に行ってやる」


 ネットに姉の事件を一番詳しく書いていた、下衆な雑誌社に行った。細長いビルは、かびの臭いがした。風に窓がばたばた鳴った。美帆は自分の名前と要件を言った。

「……十年以上前の話ですからね」

当時姉の事件に関わったという人に会えた。その人は私の名前を聞くと、すぐ素性が分かった。貴女のお父様に連絡して承諾を受けてもいいか? と聞かれた。美帆は、父には関係ないと言った。

 その記者も覚悟を決めたようだった。もし美帆がこちらの欲しいものをくれれば、事件の記録を公表しようと言った。欲しいものって? お嬢さん、俺達は週刊誌だよ。組が怖くては商売にならない。その服脱いで、刺青のボディペインティングをしよう。藤原組の残った方の娘……。

 美帆は数分、最悪の事態を考えた。彼女になにかあれば、父が容赦しない。記者は美帆の心を見透かしたように言う。君に同意書を書かせる。それに次の週刊誌が出る頃、俺達はもうここにいない。美帆は正樹の方を見た。

「欲しければ取れ。俺は何も言わない。俺は親に捨てられて怖いものがなくなった。君だって同じだろう? 失って怖いものはないだろう?」

父を失ったら? そんなことして父を失ったら? ……それでも構わない。美帆は自分の中の狂気に従うことに決めた。



      五 考える海


 犯罪記録


 犯行に関わったのは、主犯のAと、共犯のB、Cの三人。Aの死刑は確定されている。Bは無期懲役。Cは犯行をビデオで撮影する役目だった。Cは懲役十年。

 Aの供述より。当時、小学校五年生だった被害者の女児を、誘拐し、車の通らない廃道で、ロープを身体に巻き付けて、車の後ろに縛り、約三キロに渡って引き摺り回した。スピードは約五十キロは出ていた。その後、瀕死の被害者を三人で暴行した。被害者の性器には深い損傷があった。命乞いをする女児の手と足をチェーンソーで切り離した。被害者を手足と共にビニールシートで包んだ。崖の上から海へ投げ込む前にビニールシートを開けると、被害者にはまだ意識があった。成り行きを記録したビデオは後日、藤原組の組長に届けられている。


 記事のデータにそのビデオも入っていた。男達の顔だけは上手く隠してあった。美帆はそれを何度も何度も観た。

 ……これが私のお姉さん。もし私が先に生まれていたら、あれは私だった。手足がチェーンソーで切られた後も、まだ意識があったんだ。自分がこうなっていたら。考えると興奮する。その後、海で姉は発見されたのだろうか? 性器の損傷が分かったということは、発見されたんだろう。人間って面白いな。笑えてくる。手足を切られても意識はあるんだ。血は? 血はどのくらい出たんだろう? ビデオは暗くてあまりよく見えない。手を切った時は、血が噴き出しているのが少し見えた。でも足を切った時は暗くてよく見えない。もう出所しているCに会ってみたいな……。


 毎日一日中、何をしていても、あのビデオが何度も何度も、美帆の頭に浮かぶ。車で引き摺られている時の恐怖の叫び。チェーンソーが近付いて来た時の叫び。あの声が頭に一日中響く。

 いつもの病院に行った。美帆は鮮やかに頭に浮かぶ、彼女の好きなそのところを思い出していた。AとBが二人でビニールシートの端を持って、勢いよく海に投げ込むその前に一度シートを開けて、まだ生きてる恐怖の目がビデオでアップになる。


 ……もし自分が姉だったら……。

 美帆はあの映画を思い出した。ピンクの泡立つ海。自分が誰だか分からない。泣いている、思考する海。血を海に投げたら泡立ってピンクになるのかな?


 最初に美帆の異変に気付いたのは父だった。美帆と同じ病気だった母をよく知っていたから。病院に連れて行かれ、全部白状させられた

 ……姉のことを知った。週刊誌に写真を撮られた。ビデオを何十回も観た。気分が高揚した。あれが私だったらいいと思った……。


 その直ぐ後に週刊誌が出た。

『藤原組の残った方の娘』。

 刺青のボディペインティングは本物の彫り師が担当した。美帆は彼に「海」を入れてくれと頼んだ。正樹がずっと一緒にいて、手を握ってくれた。時々くすぐったくて、笑えて、正樹も一緒に笑って、共犯である彼らの将来を思った。

 彫り師は美帆の若い背中に、海から立ち昇る竜を描いた。写真を観た。逃げて行く竜が白い息を吐いていた。


 湯気の中から見え隠れした、父の背中。美帆の人生最初の記憶。

 沸騰する海から、沸騰する音が聞こえる。風が吹いて、大気の切れ間から、ゆっくり渦を巻く、ピンク色が見える。考える海が見える。絶望したピンクの考える海。……お願い、誰か私の思考を止めて。

 ……私は自分の狂気に従っただけ。救いのない私と「ソラリス」の考える海の……。

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