『屋根の上の複雑な猫』

N(えぬ)

あれ?本当は違うの?……すみません

「なんでこのアパートにはエレベーターがないの?」

 彼女は自分の住むアパートの建物にエレベーターが無いことに泣きながら手すりにすがって階段を上がっていた。


 このアパートの2階の部屋にムラカミ・ソノミという20代後半になる女性が一人で住んでいた。彼女は数日前からカゼ気味で、「インフルエンザじゃないだろうね?」と上司から言われて、辛い体をなんとか持ち上げ、それこそ這いつくばるようにして病院に行ってみたが、インフルエンザではないと言うことで一安心した。けれど安心もつかの間、病院でもらった薬を飲んでいても日増しに症状が重くなって行った。


 彼女は自分で自分に、単なるカゼだからと言い聞かせて休養を避けた。「カゼで学校や仕事を休んだことは無い」という彼女の隠れた誇りがあだになった。

 無理をして仕事を続けて「きっと今が、具合の悪さのピークで、乗り切れば明日からよくなる」という根拠の無い自信も見せていた。

 やっと仕事をこなしたその日の夜、フラフラになりながらアパートに帰り着いたが食事をする気力も無く、「せめてこれを……」とゼリー食品を一つやっと吸い込み「冷たいものがおいしい」と独り言を漏らして着替えることもせずベッドに倒れ込んで気を失うように眠ってしまった。


 翌朝、『さー、起きろ』と言わんばかりに窓から差し込む日の光で目を覚ました彼女は前夜からの記憶がまるで無かったけれど、気づいてみればきちんとパジャマに着替えて枕元にスマートフォンが置いてあった。そのことに、「無意識にこんなにきっちりしてるなんて、わたしってすごいわ」と少し興奮した。


 時間を見ると、会社へ行くなら起きなければいけない時間だったが、上半身を起こすのもやっとというくらい体がだるくて、ベッドで天井を見上げながら泣く泣く、「カゼ、不敗記録」の継続断念を決意して会社に電話を掛けて休みを申し出た。

「出られるようなら、午後から行きますから」と、多分やっとそのように聞こえるようなしゃがれ声で上司にいうと、

「いやいやいや。今日は休んでおきなさいよ。しゃんとして出社できるまで休んでいいから」と上司はそういった。


 彼女は前夜と同じゼリー食品を腹に流し込んで朝の分のカゼ薬を飲み、また眠ることにした。というより、眠るしか無かった。体の状態は前日よりさらに悪くなっていた。上司が心配して休めというのも頷けた。そして今は、自分の体がカゼを治すことに専念する状況に移行したことを強く自覚していた。


 彼女はしばらく眠りに就き、夜になって目が覚めた。だが、努力の甲斐もなくそのときには朝よりさらにカゼは悪化していた。眠っている間に激しく寝返りを打ったりしていたようで、掛け布団は弾き飛ばされて髪もボサボサで枕はベッドから落下して姿を消していた。鏡は見なかったがおそらく今なら、どんな訪問者も彼女の顔を見て『これはイケませんね』と一言発しただろう。この状態なら、救急車を呼んでも文句はなさそうな状態だった。


「ああ、こんな時、来てくれる人がいれば……」

 と、誰しも思うことだが彼女には残念ながら訪ねて来てくれるような友人もいなかったし、窓から癒やしの光を差し込ませる星の王子もいなかった。

「救急車を呼ぶしか無いのか……」

 苦しい息の中で彼女はそう思って枕元にあったはずのスマートフォンを探したが見当たらなかった。これで急に絶望感が彼女を襲った。探そうにも体に力が入らず動かない。助けを呼ぼうにも声も出ない。訪ねてくる人もいないだろうし、誰かに連絡することもできない。外界との接点がたたれていた。


「わたし、このまま死んでしまうのかな。……トム、わたしを助けに来て」


 切羽詰まった彼女が呼んだこの『トム』というのは有名な映画俳優の名前だった。それは彼女のアイドルで、理想の男性像だった。


 彼女は『トム』の名を呼んですぐ気を失うように眠りにつき、どれほどか時間が過ぎてからぼんやりと目を覚ました。もはや、何時間たっているのかは壁の時計を見ても、それが差す時間が午前なのか午後なのかは外の日の光でしか判断できなかった。外は明るかった。「午前10時ということ」そう思った。


 そのときベッドから見える窓の外のベランダの手すりを右からそろそろと歩いて一匹の猫が現れた。灰褐色の毛色で鋭く引き締まった顔立ちの美しい猫だった。猫は窓の「彼女が見える位置」まで来ると窓のほうへ向き直って腰を落とした。

 彼女は、この猫と顔見知りだった。よくこうしてベランダの手すり伝いにやって来るので、窓を開けて中に入れてやり、しばらく遊んだりしていた。


「トム、ごめんね。きょうは窓を開けてあげられないわ」


 彼女はこの猫を『トム』と呼んでいた。それは猫の毛色とその端正な顔立ちが、かつて映画で観た憧れの『トム』を思わせたからだった。

 猫のトムは、しばらくじっと部屋の彼女を見ていたがスッと腰を上げると早足でベランダの手すりの上をいずこかへ去って行った。



 夕暮れが近づくころ。彼女は、眠っているわけでもなく、あえぎながら、もはや放心してぼんやりと天井を見上げていた。天井では無くて天空だったかもしれない。ベッドに体を横たえながらも見上げる天井にチラチラと星の光さえ見えるような状態だった。体に力は無く、指先が少し動かせるくらいだった。外が暗くなったのか目が見えなくて暗いのか、日が暮れて暗いのかもわからなかった。時間も空間も、判別することが出来なかった。それでも目の前に浮かんで見えるものがあった。


「あぁ、トム」


 彼女は声にならない声で唇をわずかに動かした。だが彼女が今呼んだ名前は、俳優のトムではなく「猫のトム」だったようだ。確かに彼女の目の前に猫のトムの目があった。トムの匂いも鼻に感じただろう。トムの前足の肉球が自分の頬を撫でたりもした。もうろうとした意識ではそう思えただけで、確証は無かった。そうしている間に彼女の意識はさらに次第に薄れて行った。



 どれほど時間が過ぎた後のことかわからないが、遠くで彼女の部屋のドアが開く音がした。どやどやと人の足音。


「失礼しまーす」


 人が彼女のベッドのところへやって来た。それはなにか制服を着ている人たち。救急隊の人間だった。


「はい。ムラカミ・ソノミさんですか?私たちのことわかりますか?」


 彼女は身元を確認されて、救急隊によって、なすがままに病院に運ばれた。

 そして暗かった景色が次第に明るさを取り戻した。病院に着くと点滴などの処置が行われ、少し状態が落ち着くと部屋が用意されて入院した。彼女は安心と共に気を失うようにまた眠ってしまったが、次に目を覚ましたときにはベッドの横に母親が座っていた。


「母さん」


「ソノミ!」


「目、覚めましたね~」看護師がベッド脇に寄って来てソノミに繋がれた機器をチェックし彼女の顔を見て声を掛けた。


 彼女は母親と久しぶりに話をし、それはとてもうれしかったのだが、話しているうちに、彼女のために救急車を手配し、病院に、遠方に住む母親を呼び寄せたのは、どこの誰なのかという話題になった。


 救急の通報には知り合いと名乗り、母親への電話には「友人」と名乗る男性の声だったという。

 友人としか名乗らない男性にソノミの母親は「お名前を」と聞いたが、


「ニックネームでトムといいます。ってそう言って電話切れちゃったのよ。男の人だったけど、ソノミの彼氏かい?」


「トム?!……か、カレシじゃないけど……。そんなことって……」


 彼女にとって思い当たる『トム』は、あの猫しかいなかった。ソノミはベッドで少し体をずらして虚空を見つめてフフフと笑った。それを見て母親は、一人で笑って、いやらしい、と言った。



 彼女が退院して数日。週末。彼女の部屋の窓から見える向かいの家の緑色の屋根のてっぺんに、あの猫のトムが座っていた。


「王子。今日はソノミ様のお部屋をお訪ねにならずよろしいので?」


 緑色も鮮やかなカエルの大臣はトムを見上げながらそういった。

 トムはそのカエルの大臣の横で、両方の耳をピンと立て颯爽とソノミの部屋の方を眺めていた。


「ああ、今日はやめておこう……」


「きっとソノミ様は王子に会いたいと思っておられると」


「……」


 トムは実は猫では無い。この辺りを統治するカエルの国の王子だ。だが今は、猫に姿を変えている。それには理由わけがある。


 以前、ソノミの部屋のベランダの鉢植えの植物の葉の上で休息を取っていたときのこと、偶然ベランダに出て来て鉢植えに水をやろうとした彼女を見初めたのだ。


 けれど、彼女は王子を見つけて、

「うわっ、カエル!」

 と奇声を上げ、逃げて部屋に入ってしまった。つまりこのとき、王子は恋に落ちそして失恋したのだ。


 王子はどうしても彼女を諦められなかった。思い悩んだ。そんなとき王子は、彼女は猫が好きだと言うことを知って、猫に姿を変えて彼女の前に現れるようになったのだった。

 人間になって彼女と会うこともできる。だがそれは、人間でも無く、猫でも無く、カエルである自分の誇りを捨て去ることだ。自分には王子という役割もある。いつか国を率いていかねばならない。自分はそれを捨てて、カエルという自分を偽っていくことはできない。そう思ったのだ。だがせめて猫に。そうして、彼は猫として人の名を付けられて愛されているカエルになったのだった。


「こっち、おいでよぉ。トム~!」


 ソノミはベランダに出て屋根の上の猫に手を振る。

 トムの心中は、飛びつきたいうれしさがあると同時に、複雑なのであった。




おわり



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