ウラミジール

 そこそこ人生を生きてきて、そんなに人から恨まれることはなかった、と思う。私はまあまあ外ヅラがよいので、嫌な仕事も引き受けるし、上司に頼まれれば理不尽なことでも頭を下げる。そういうことができるのは、基本的に私が事物と事象にあまり関心を払っていない結果だろう。そのため、私が人を深く恨んでいるということも、ない。

 それでも、〈恨み〉について考えることが時たまある。私に向けられていない、誰か他の人に対する強いそのエネルギーの熱量を、ニュースなんかを見ながら考える。ロシアでは大規模なデモがあり、何人か死傷者が出た。私はその人たちのひとりになってみようとするが、うまくはいかない。そんなときは、中学生のころの佐倉さんを思い出す。

 佐倉さんは2年A組の学級委員だった。小学生のときに同じクラスになったことがあるが、そういえばそのときも学級委員だった。なんだかいつも学級委員をやっていた印象がある。

 2年のときの担任はテキトーな若い社会の教師で、1学期は真面目に朝の出席をとっていたものの、だんだん朝のホームルームに来るのが遅くなり、「まあお前ら大丈夫だろ」と授業まで姿を見せなくなった。思い返すとヒドイ話だ。

 で、誰が出席をとっていたかというと、佐倉さんだった。担任とどのような取り決めがあったかは知らない。気がつくと、夏休みが明けてしばらくしてから、佐倉さんが「田中さん」みたいな感じて点呼を行っていた。そして、出席簿に記録をボールペンでつけた。欠席は/、遅刻は×。

 初めはみんな律儀に手を挙げていたが、水は低きに流れるので、それもおざなりになっていった。朝のホームルームはおしゃべりの時間になり、佐倉さんは虚空に向かって名前を呼び続けていた。

 それでも、私は自分の名前が呼ばれると、手を挙げた。まっすぐ、背筋を伸ばして。佐倉さんは私と目を合わせると、決まって小さく微笑んだ。この混沌としたホームルームの時間の中、それは私と彼女のささやかな共犯関係だった。私は彼女とは違うグループに属していたので、それ以外に関わる機会はなかったが、朝のこのひとときは、私の心をなごませた。

 冬休みの前あたりに、私は担任に呼び出された。放課後に職員室を訪れると、担任は渋い顔をして出席簿を持っていた。

「具合でも悪いのか?」

 開口一番、彼はそう訊いた。私は彼の質問の意図がつかめず、「なぜそんなことを?」と返した。彼は出席簿を開いて見せた。私の名前の横には、×のマークが並んでいた。夏休みが明けてしばらくしてから、私はほぼ毎日遅刻をしていることになっていた。

「朝が起きられないとか、そういうことはあるかもしれんが、やっぱりこのままだと内申にも響くし……」

 担任の心配そうな口ぶりを聞きながら、私は朝のひとときを思い出していた。彼女と目を合わせる、あのびたっとした瞬間、糸と糸がぴんと張ってつながる時間。ひんやりとした風が胸の中に入りこんでくるのを、私は感じた。

 結局、他の友達の証言で、私の「遅刻」については修正されることになり、朝のホームルームには担任がやって来て出席をとるようになった。佐倉さんと顔を合わせることはなくなった。だから、彼女がどんな気持ちで、毎朝毎朝、私の名前の横の空欄に×のマークを書きこんでいたかはわからない。

 ときどき、私も誰かを恨んでみたくなる。この前は、プーチンの画像を見て、彼を恨んでみようとした。ウクライナ、KGB、オリガルヒ。でもなかなかうまくいかないので、呟いてみる。ウラジミール、ウラミジール。なかなかうまくは、いかない。

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エッセ異聞 坂崎かおる @sakasakikaoru

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