イ苗刑
厠谷化月
イ苗刑
コンビニから帰ってくると、アパートの前の道を大家の
「あら
耳津さんは十
「こんにちは。寒いですねえ」
俺はそれだけ言うと、一礼してそそくさと耳津さんの横を抜けた。
「本当に寒いわねえ。風邪ひいてない?」
アパートに足を踏み入れる寸前に、耳津さんは言った。俺は挨拶だけにしなかったことを深く後悔した。ただ、これからもこのアパートに住み続けるには、彼女を無視するわけにはいかなかった。俺はアパートに入れかけた足を引っ込めて、耳津さんの方を向いた。
「ええ、おかげさまで」
「そお、ならよかった。独り暮らしだと体調崩した時大変でしょうから。まあなんかあったら気軽に言ってちょうだい」
「ありがとうございます」
俺はさっきの反省を生かして、そう一言だけ言うと、体をアパートの方へ向け、もう一度足を踏み出した。耳津さんも、根は親切でいい人なのだから無下にできない分、扱いに困るのだ。
「そうそう、そういえば漏手さん——」
耳津さんは突然思い出したように声を上げた。名前を呼ばれてしまっては応えるしかなかった。危うく舌打ちしかけたところを抑えて、俺は再び振り返った。
「——猫飼ってない?」
「飼ってないですよ」
俺は平静を装って、なるべくいつもの口調で答えた。しかし内心ドキリとしていた。意識して口調を抑えたものの、動揺が隠せていたかはわからなかった。
「それならいいんだけどね。最近猫の糞が落ちてて困ってるのよ。どうして動物飼育禁止にしたのか、わからないのかしらねえ」
「そうですね」
「そうなのよ。猫なんて可愛らしい見た目して、結局はケモノなんだから、毛は落ちるし、ニオイはするし、迷惑なのよね。昔住んでた人で、隠れて飼ってた人がいたんだけどね、もう春になると発情期で夜も騒がしくって。結局ケモノなんだからそうなるのよね。その前から洗濯物にケモノの毛がつくとかで他の人から苦情が入ってたから怪しいとは思ったのよ。結局鳴き声でばれちゃって——」
耳津さんはそうとう迷惑がっているようで、話が止まる気配はなかった。道を冷たい風が吹き抜けた。俺は思わずくしゃみを一つした。
「あら、大丈夫。風邪?独り暮らしだと体調崩した時大変でしょうから。気を付けてね。」
誰が言っているんだと怒鳴りつけてやりたくもなったが、ここは抑えて、微笑みながらお礼を言った。それでどうにか話を切り上げることに成功し、俺はようやくアパートの建物に足を踏み入れることが出来た。
「ちょっと漏手さん、何なのそれは?」
後ろから耳津さんがヒステリックな声を上げた。いい加減怒りを抑えられる自信がなくなってきたが、再び振り返った。
耳津さんは、ほうきで掃く手を止めて、俺が下げている袋を見つめていた。
「ちょっとそれキャットフードじゃないの?」
耳津さんはさらにヒステリックな声で言った。本当に猫が嫌いなのだろう。俺は中身が透けて見える袋に入れたことを後悔した。
ここで言い訳しても無駄だと思い、俺は袋から一缶取り出して耳津さんにキャットフードを見せた。
「これですか。そうですよ」
俺は堂々とした態度でそういった。ここでおどおどしてはいけないとわかっていた。耳津さんは吊り上がった目でそれを確かめた。
「やっぱり猫飼ってるんじゃないの。うちは飼育禁止なんですよ」
「違いますよ、耳津さん。僕が食べるんですよ」
耳津さんの目から怒りの炎が消え、何か気持ちの悪いものを見るような目に変わった。驚きで二の句が継げないようだった。
「知りませんか。最近これに中濃ソースをかけて食べるのが流行ってるんですよ」
俺は口角をあげて見せた。舌なめずりをしてもいいのかなとも思ったが、演技過剰のように見えても困るのでやめておいた。
あまりに堂々とした俺の態度に、耳津さんは疑うことを忘れたようであった。両手で目一杯ほうきの柄を握りしめ、気色の悪い人間を直視することに耐えているようだった。
「どうですか?耳津さんも食べませんか?」
俺は缶を持つ手を耳津さんに差し出した。耳津さんはゆっくり後ずさりをしながら、一生懸命に首を横に振った。口をパクパクさせていたが、声はあまりにもかすれていて聞こえなかった。馬面からは完全に血の気が引いていた。
「そうですか、おいしいのになあ。それじゃあ」
俺は強引に話を終わらせてアパートへ入っていった。後ろからはほうきで道を掃く音が聞こえてこなかった。
部屋に入ると、電話機のランプが赤く点滅しているのに気付いた。コンビニへ買い物に行っている間に留守電が来ていたようだった。電話の主はだいたい予想がついた。
「もしもし、
録音された音声を再生すると、鼻の詰まったような声の若い女からのメッセージが再生された。予想通りムーくんの恋人の
俺の親友のジャム彦、笑魚の言うムーくん、が行方不明になってから十日が経った。どこから俺の電話番号を仕入れたのか、笑魚から毎日のように電話が来ていた。最初は少しでも彼女の気持ちが収まるならば、と我慢して聞いていたが、こちらの都合も考えずに電話をよこすことや、勘が悪く馬鹿真面目にジャム彦を探す彼女に嫌気が差してきた。
ジャム彦は大学の友人だった。気のいい奴で俺はいつもジャム彦と遊んでいた。基本的にいい奴だった。鼻をフガフガ鳴らしながらものを食べるのが唯一の気になる所だったが、気にしなければいいことだし、二年半以上も付き合ってそれしか欠点がないのならば、それはいい奴ということである。
俺は欠点とは思わなかったが、ジャム彦は危ない奴でもあった。何が危ないかというと、何も考えずに結構なことを口に出すことである。一度大学の学食で一緒に昼を食べているときだった。
「俺よお、市長はさあ、絶対に弁慶症だと思うんだよねえ」
ジャム彦はフガフガと鼻を鳴らしながら、いつものように間延びした声を上げた。世間話をするような調子で言い出したものだから、俺は危うく首を縦に振りかけた。俺がピンと来ていない様子を見ると、ジャム彦はさらに続けた。
「ありゃあ、家じゃあ、嫁の尻に敷かれてるぜえ」
俺は何とも答えられず、ただ曖昧な返事をしただけに留めた。ジャム彦は俺の返事を気にせずに、またフガフガといいながら飯を食べ始めた。俺は血の気が引いた顔で周りを見渡した。幸い学食は騒がしく、誰も気づいていないようで、ホッと胸をなでおろした。
いい奴ではあるのだが、ジャム彦のような奴はこの社会では生きていけないだろうな、と俺は悟っていた。だから、十日前からパッタリと大学に来なくなったときも、俺はあまり驚かなかった。
部屋の窓がコツコツと音を立てた。時計を見ると時間通りだった。カーテンを開けると、窓の外に二十糎ほど突き出した申し訳程度のベランダに、一匹の三毛猫が座っていた。三毛猫が部屋に入ってこないことを俺はわかっていたが、歓迎するという意味を込めて窓を開けてやった。
いったん部屋の奥へ戻り、買ってきたばかりのキャットフードの缶を袋から取り出すと、ベランダの方へ向かった。三毛猫は申し訳程度のベランダにチョコンと座って俺を待っているようだった。
俺は缶を開けてキャットフードを三毛猫の前に置いてやった。その隣には水を満たしたスープ皿を置いた。
三毛猫は一目散にキャットフードを食べ始めた。横取りするものはいないのに、脇目も振らず食べていた。俺は窓脇に座って、三毛猫の食事を眺めていた。三毛猫はフガフガと鼻を鳴らしながら缶の隅に挟まったキャットフードの断片を舌でこそげとろうと奮闘していた。
三毛猫がいる間は窓を閉めるわけにはいかず、電気ストーブを付けて暖めていた部屋には、無慈悲にも冷たい風が吹き込んでいた。思えばジャム彦は、この狭いベランダが好きだった。俺の部屋に来れば、季節を問わず遠慮もなしに窓を開けこのベランダに座って過ごしていた。
「寒いから中入ろうぜ」
「ここが俺ん特等席だからよお」
去年の冬、俺は部屋に来たジャム彦に何度となくそう言ったが、ジャム彦はいつも間延びした声でそう言っていた。
部屋の電話がけたたましく呼び出し音を鳴らした。俺は窓を開けたまま奥に行って電話に出た。
「もしもし熱史くん——」
鼻の詰まったような声が聞こえた。笑魚からだった。
「——ムーくん見なかった?今日はムーくんの家から学校まで何度か往復したけどいなくて」
「まだ見てないなあ。警察には連絡したの?」
毎度のことにさすがに辟易していたが、ここで怒ったところで何もならなかった。俺はできるだけ穏やかな声で聞いた。窓の外では三毛猫がまだフガフガと鼻を鳴らしていた。
「したけどまともに取り合ってもらえなかったのよ」
「そうか、納税者に何て態度をとるんだろうな。俺も探してみるよ」
俺はそう言って電話を切った。以前ジャム彦が、笑魚が猫を毛嫌いしていると愚痴をこぼしていたのを覚えていた。アレルギーというよりも、タブー視しているようであると言っていた。なんでも彼女は猫を悪魔の使いだと思っているようで、猫を避けるために回り道をするのは当たり前で、ジャム彦が幼い頃猫を飼っていたというだけで、しばらくは手もつながなかったほどである。笑魚は猫を忌避しているのだ。
アパートの前の道に植わった街路樹は、もうすっかり葉を落としていた。冬は始まったばかりだった。裸の街路樹に挟まれた道を、猫の眼があしらわれたマークを脇に描いたワゴン車が走り去っていった。イ苗刑なんてむごたらしいものをよく思いついたものである。
イ苗刑 厠谷化月 @Kawayatani
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