しのぶ夏桜

 新緑の葉が風に揺れ、陽光が身を焦がす夏の日々。

 わたしの瞳に映るのは冷めた紺色の背中。


 写真には残せない、夏の熱気にも負けない冷たい青は、いつもどこか遠くを見ていた。


 わたしたちのいる場所から、ずっとずっと遠い。

 掲げた火の光すら届かない。

 そらよりも先の、大海の先を――




「おはよう」


 ある日のこと。

 静かに花開く桜のように、突然わたしはから声をかけられた。


 彼の背中を見かけ、わたしは通り過ぎる。

 けっして交わらない道。

 桜花が咲き誇り、散り、再び開く円環を描いていたのに。


 今日この日をもって繋がった道を見て、わたしは笑って言葉を返した。


「おはようございます!」


 驚いた。

 けれどそれ以上に、わたしの中に芽吹いていた心を刃で刈り取るなんて気はさらさら無かった。


 それからというもの。

 円環だった道は渦を巻いて、より味わい深い色をにじませた。


「……」

「どうかした? 俺の顔に何かついてる?」

「いえ。思った以上に綺麗な目だなーっと思って」


 初めての挨拶から、いったいどれだけの月日が経っただろう。

 まじまじと見る機会なんてある訳もなく、ふと覗き込んだ顔を見て、わたしの目は囚われてしまった。


 月が浮かぶ、澄んだ夜空みたいな服装も。

 長く背にかかるまで伸びきった、カラス染みた黒い髪も。

 わたしにとって見慣れた、暗い……でも嫌いになれない静かな色。


 けれども瞳だけは両者とも違っていた。

 夜桜が映える紺碧とは真逆の、散った桜が舞う空の色。


「いや、そんな事ないよ」


 前髪のかかっていない、左側の広々とした空の如き彼の顔は、わたしの言葉を否定して苦笑する。

 きっと右も同じと視線をずらすと、黒い前髪で隠された瞳は別の景色を描いていた。


 それは曇天の先の青空を見ている気分で。

 どんな思いがあって、どんな感情で、どんな事が秘められているのか。


 わたしからじゃ、見えることが出来ない。


「俺なんかじゃ、まだまだ」


 自分は他と比べれば、到底足元にも及ばない。


 例えばそう。

 空に映った揺れる淡い桃色の花とか、真っ直ぐ空を目指す新緑の葉とか。

 それらを抱える桜の木に、自分なんかでは釣り合うどころか、せいぜい遠巻きに見るだけの存在だ。


 そう取れる言い回しをする彼に、わたしはそんな事ないと首を振っても、彼の笑いは苦々しいまま。


「もう。本当、困ったお兄さんですね」


 それならわたしは、笑顔で彼を見続けよう。

 どんなに空が覆われていようとも、風で旅する落花になってでも、その色を見届ける。


 何度でも、いつまでも。

 例え螺旋の先に夜の帳が降りようと。

 わたしはまた、あの一言を口ずさむ。


「おはようございます、お兄さん」


 放った夏咲きの桜が風に乗る。


 羽ばたく事なんて叶わず、くるくると、円から外れた螺旋を描いて。

 遅咲きの桜は、ついに海に身を寄せて波紋を生み出す。


 そのままゆっくりと。

 一進一退を繰り返しながら、ゆっくりと大海原へ。

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忍-二次創作集 薪原カナユキ @makihara

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