違法経済特区編 第四話『スキーム』
路地裏での騒動を終えた
しかし買い物中も、帰路についている今も、ついさっき自分を助けてくれた少女のことがずっと気がかりだった。
名前も知らない、謎の少女。
他人のために、平気で大金を捨てることのできる変人。久間にとって、最も理解に苦しむタイプの人間だ。
だが、久間はそんな彼女に強く惹かれていた。それは未知への興味からだろう。お金を善としながらも、まるでそれを毛嫌いするかのごとく悪だとも吐き捨てる。矛盾したような意味不明な思考回路。それなのに、妙な説得力を感じさせられた。
それがどうにも不思議で、彼女のことが頭の中から離れなかった。
アパートへと帰宅した久間は、部屋に入る前にポストの中に目を通す。借金取りや大家からの催促がないかどうかを確認した。
ギリギリの生活を送っている久間にとって、避けては通れない難題だ。
いつ、ガラの悪い借金取りに怒鳴られ、アパートを追い出されるかもわからない。
ギィ、と長年の月日で磨り減った玄関の扉を開けた瞬間、久間は目を丸くした。
何故なら部屋の中には、見知らぬ少女が立っていたからだ。
鮮やかな赤色の蝶ネクタイと黒のベストを羽織り、手にはビリヤードのキューのように細長い棒を持っている。それはまるでハスラーを彷彿とさせた。
しかし、何よりも異質に感じたのは、その服装ではなく頭部だった。
腰まで伸びる長い銀髪も特徴的だったが、その髪の上から生えた動物の耳に、思わず目を奪われる。それはコスプレなどでよく見る猫や兎ではなく、あまり馴染みのない動物、ロバの耳だった。
「おかえりなさいませ、久間善治様」
少女はニコリと微笑み、久間の名を呼んだ。しかし、頭の上にロバの耳を生やした知り合いなど、当然いない。
いったい何者なのだろうか。というより、まずどうやって中に入ったのか。いくら築数十年の木造アパートとはいえ、容易く不法侵入を許してしまうほどボロくはない。手慣れたプロの空き巣ならば可能かもしれないが、そんな人物がこのような目立つ格好をするだろうか。それに、もし空き巣なら簡単に入れる物件より、楽に多く稼げる物件を選ぶだろう。このアパートでは、楽はできても稼げはしない。稼げたとしても、空き巣をしてまで得られるものなどはないだろう。
だが、さすがに久間も警戒はした。彼女が泥棒であるという可能性がゼロではなかったからだ。
「お前、誰だ⁉︎ どうやってここに入った!」
「普通に玄関から入りましたよ。まあ、少し特殊な方法でですけど。あと、何者かという質問には少しお答えしづらいです。おそらくですが、今ここで話しても久間様は信じてはくれないかと」
「あぁ? バカにしてんのか?」
「いいえ、とんでもない。むしろ久間様がまともな人間だとわかっているからこそ、簡単には信じられないだろうと判断したまでです」
少女の雰囲気は独特で、場に妙な緊張感が漂い始めた。
新手の勧誘か何かだろうか。だとしても、この部屋に侵入した方法がわからない。
「実は、久間様がご両親に押し付けられた多額の借金、この私が全て肩代わりさせていただきました。これで、もう借金生活とはおさらばできましたよ」
「はぁ? ど、どういうことだよそれ! 俺の借金は全部で三百万だ! 高くはないが、簡単に肩代わりできる額でもないだろう!」
「簡単ですよ、私どもとしましては。まあもちろん、ただでとは言いませんがね」
ロバ耳の少女は、ニヤリと不気味な笑みを浮かべた。
久間は思わず、ゴクリと大きな音を立て、生唾を飲み込んだ。
「はは、なるほど、代わりに何かさせようって魂胆か。そんなどう考えても危ない取り引き、俺が受けるかよ」
久間は詐欺に敏感だった。元々、今の借金も悪徳金融によって騙されて膨れ上がったものだからだ。
詐欺によって身を滅ぼした愚かな母親のことを、今でも鮮明に覚えている。
「借金を肩代わりしてさしあげたのです、拒否権の方はございません。それに久間様にとっては、この話はむしろ渡りに船かもしれませんよ?」
「んなのいらねぇっての、俺はこれからもコツコツ金を返す。誰がそんな危険な話に乗るか」
「もし、一億や二億といったお金を稼げるとしても……ですか?」
「……な、なんだと?」
肝を抜くような非現実的な金額に、さすがの久間も目を剥いた。
「嘘ではありませんよ。上手くやれば、それも可能なのです」
「つまりはギャンブルってことか?」
「いいえ、正確には違います。たしかにマネーゲームではありますが、私の目的は経済の回復です。そのために、より多くの人間に参加させ、破滅させなければならない。あなたはその一人に選ばれたのですよ」
「経済の回復だと?」
「はい。でもそこに関しては、説明が面倒なので後回しにしましょう。大切なのは、簡単にお金を稼ぐことだとは思いませんか? もう無理して働かなくてもいいんです。あなたのご両親のように、借金で苦しむこともなくなります。今のあなたの現状を考えたら、借金を全額返済することができ、なおかつ大金を稼げることのできるこのお話、乗らない方がおかしいのではありませんか?」
ロバ耳の少女は、手に持っていた細長い棒を振り上げ、先端をくるっと回転させた。
瞬間、視界が突然歪み始めた。足元から謎の黒い渦が発生し、次第に久間とロバ耳の少女を飲み込んでいく。
「う、うわああああああっ! な、なな……なんだこれ! う、動けっ……ねえっ!」
何か強い力によって動きを封じられ、久間はなすすべなく渦に取り込まれていく。
その時、目の前に佇むロバ耳の少女の口元が、ゆっくりと動いた。
「ようこそ、久間様。違法経済特区へ」
数秒後、久間の意識は途絶え、視界に暗幕が降りた。
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