目を背けた先に -09-






「――本当にありがとうございました」



 深々と頭を下げ、明人は目の前のテーブルに僅かばかり厚みのある封筒を置いた。

一万円でいいと言ったにも関わらず、出来る限りの大金を用意してきたらしい。

恐らく親から小遣いの前借をしてきたのだろう。


 後日、昼前の相談所かざみどりの応接室ではそんな光景が繰り広げられていた。

それを見ていた姫子は、彼のその誠実さを微笑ましく思いながら見ていた。

それにここにやってきた時の彼の表情は、まるで憑き物が取れたかのようにさっぱりとしたものだった。

これ以上、自分達が支えずとも彼は一人でやっていける――そんな確信を感じられる人間に成長できた、のだと思う。


 その対面のソファーに座る霧子は静かに首を振った。



「必要ありません。私はやるべきことをやっただけですので」

「じゃあ、せめて一万円だけでも……」

「私は幼馴染の彼女について聞き込みをしてほしいとだけお願いしました。

それにも関わらず、あなたは彼女と向き合って、その未練を解消までしてくれた。

それは少なくとも一万円以上の働きです。だから、必要ありません」



 相変わらずの無表情で、きっぱりと断った。

どうやっても受け入れるつもりはないらしく、対する明人は困ったような表情を浮かべる。


 彼女は稀にこんなことを提案することがあった。

それは相手が学生だからだとか、金銭に固執しない性格だからという理由だけではない――少なくとも姫子はそう思っている。


 しばしの間、彼女は相変わらずの無表情で明人と対面していた――のだが、その仏頂面が、不意に和らいだ。



「それくらいあればお墓参りくらいできるでしょう。

良い花とお供え物でも買って会いに行ってあげなさい。

故人の死を受け入れることも大事ですが、時には思い出すことも同じくらい大事です。

少なくとも、あなたにはその権利と義務があるのですから」



 そこで初めて、霧子は笑みを見せた。

無表情が僅かに崩れたかのような薄い笑顔、あるいは笑い方を忘れた人間が見せる薄幸の笑み――姫子は彼女の笑みをそう形容していた。

親しい友人や家族以外に、彼女がそれを見せることは本当に稀な出来事だった。


 明人はその言葉と笑みに唖然として、少しの間固まっていた。

だが我に返った彼は、再び静かに頭を下げる。



「本当に、ありがとうございます」











***










「結局タダ働き?」

「お金より大事なこともあるでしょう? なので、あなたのバイト代もありません」



 明人が事務所を出て行った後、霧子と姫子の間でそのような交渉が繰り返されたが、結果は姫子の惨敗だった。

いつもの事務机に向かって業務に勤しむ美琴へと視線を向けるも、彼女も無言で首を振る。

霧子が首を縦に振らないため、それは分かり切っていたことだった。



「それで、七人ミサキはどうなったの?」

「まとめて然るべき場所へ送り届けました。一人ずつ送ってもその間に他が逃げ出して、また新しい霊を取り込んで怪を成す。

だから今回ばかりは先にあちらへと連れて行きました。そしてその後にお話を聞いてあげて、いつものにように三途の川へと渡した。

それと、正確にはあれは七人ミサキという怪異ではありません。

現世に未練を抱える霊が共鳴し合って集団になっていただけですよ」

「……もしかして、あれって定期的に発生するの?」



 「ええ」と、霧子は頷いた。



「このご時世、あまりにも哀れな死に方をする人が多すぎますから。

人間関係、金銭のトラブル、将来への絶望……理由は人それぞれです。

私が月に十件以上の事故物件をお祓いしているのは知っていますよね。

未練のある悲しい死に方をする人間は昔と比べてその数は膨れ上がりましたし、今も増加する一方です。

だから、ああいった存在はなくならないし、これからも現れます」

「その度に霧子が鎮めに行くの?」

「私かもしれませんし、他の霊媒師がそれをするかもしれません。私みたいな若者は少ないですけどね。あるいは渡し守が――」

「渡し守って?」

「……そういう人たちがいるんですよ」



 そう答えて霧子は、自身の座る仰々しいオフィスチェアを回転させて背後の窓の方へと体を向けた。


 霊や妖怪、あるいは神といった存在と深く関りを持つため、時折彼女の会話の端々には常人の知らない神秘が垣間見えることがあった。

決して霧子はその詳細を明かそうとはしないが、それが現れる度に姫子は積極的に彼女と会話をしようとする。


 それは作家としての仕事と、自身の好奇心を満たすための行為だった。

しかしこのデリケートな所は、あんまりにもしつこく会話を続けようとすると、霧子はしばらく口を利かなくなることだ。

その度に「これだから作家は面倒だ」と、小言を零されて肝心な所が聞けずじまいというケースもあるので、会話をする時の言葉選びは慎重にならざるをえない。


 だから今回も――いや、依頼を無事に解決できたので、それに水を差すのは無粋か。

姫子は話題を変えることにした。



「それにしても切ないお話だったね。伝えたいことはちゃんと言えばいいのに」

「生前ならともかく、それだと逆に未練が大きくなります。だから、あれでいいんですよ」



 きぃ、と椅子が小さく鳴った。

彼女がどういう表情をしているのかは、こちらからでは分からない。



「生者は死者を憐れむが、死者は生者を羨む。

未練がそうさせるのです。

そうやってできた未練は様々なものとの離別を拒み、いずれは両者にとって良くない結果を招きます。

特に死者は生者を羨む。羨むから妬む。妬むから歪んで、自分と同じ場所に引きずり込もうとする」



 それは何度も聞いた文言だった。

霊媒師の師の一人である実の長姉から、幼い頃から聞かされてきたものだという。

人と霊は共存できない。だからその境界線をはっきりと引く。それが自分達の仕事だ――彼女はそう言っていたという。


 その思想は彼女もしっかりと受け継いでいた。

故に、彼女は人にもそれ以外にも最善の手段を以て向き合い、そして救う。

だが守護霊といった特殊な存在を除き、やはり異なる存在は交わるべきではないと考えていた。

その関係の芽吹きには人一倍厳しく、例えそれがどれだけの悲劇の結末だろうと、

残酷なまでの公平さを以て、確実に彼女はそれぞれを在るべき場所に還す。


 ――それすなわち『死人に口なし』。



「彼女は本当に強い人間でした。

普通なら周りの霊の感情に浸食されて、同じように生者を引きずり込もうとしていたはずです。

彼のことを大切に想っていたから、必死にそれに抗っていた。

彼を独り立ちさせようと頑張っていたから、本心を伝えずに見送らせた」

「それって好きな男の子だったから?」

「それを言うのは野暮ってもんですよ」



 少しだけ明るい声色で言葉が返ってくる。

やはり上機嫌なようで、これなら神秘の一片を深堀してもいいのではないかと作家としての思考が傾く。


 だが、ふと見た美琴はじっとこちらを見ていた。どうやらこちらの考えはお見通しのようだった。

そんな双子のテレパシーだとかそういうものを感じながら、今回もお預けかと苦笑しながらも自室へと戻っていく。


 今だったら執筆作業が捗りそうだと思いながら、姫子は自室へのドアノブへと手を掛けた。

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ささやきに耳を傾けて minato @minato_simo_kyky

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