目を背けた先に -08-
相談所かざみどりを出てからそれほど遠くない位置に、明人の住む住宅地はあった。
大通りを抜け、脇道へと逸れる。
そのまま路地を真っすぐ進めば住宅地に辿り着くのだが、目的地はその道中にある公園だった。
夕焼けに照らされた公園には人っ子一人いなかった。
日中なら遊び盛りの小学生のグループが元気に騒いでいたのだろうが、日の沈みかけたこの時間帯ともなるとやはり誰もいない。
そこで、幼い頃に一緒に遊んだ思い出の公園は、改めて見れば本当に小さな遊び場なのだとそこで気が付く。
あの頃は何もかもが大きく見えて、茂みの中へと入り込めば、どこまでも続く深いジャングルだと感じたものだった。
明人はここに彼女がやってくるという確信めいた予感を感じていた。
逃げた自分を追って――同じ場所に引きずり込もうと、必ず。きっと。
「警察の知り合いから聞いたんだけど、その幽霊と思われる集団の目撃情報が多いのがこの辺りなんだって。
……会ったらどうしたいか決まってる?」
「……はい」
そう答えて、公園の敷地へと一歩を踏み出す。
姫子の方へと振り返りはしなかったが、彼女はどうやら自身の後ろに付いてきているようだった。
「霧子達が先にこの辺りにやってきていろいろ準備している。幽霊の祟りとか、そういうのは怖いと思うけど安心していい。無愛想だけど腕は確かだから」
「俺は菫に会えれば、それでいいです」
「死にたいの?」
背に突き付けられた遠慮のない単語に対し、明人は何も答えなかった。
事実、彼自身も後のことを考えていなかった上に、それで償いになるのならという安易な考えもあった。
そのことを察したらしい背後の姫子から、小さな溜息が聞こえた。
「まあ、それは一旦置いておこうか。
さっき七人ミサキについて説明はしたけど、多分その子は七人目として取り込まれてしまったんだと思う。
霧子が言うには、あなたを襲おうとしたのは周りの霊の感情に浸食されたから。
優しい子だったんでしょ? 自分の意志であなたを襲おうとしたはずじゃないと思うよ」
「……でも、恨んでると思います」
明人は自身のしでかしたことを嫌と言うほど理解していた。
それがあの霊媒師の言っていたことと符合していたことには内心驚くが、
それよりも先に、やはり罪と言うものは必ず暴かれ、裁かれるものなのだということを思い知らされる。
そしてそれは思いがけない形で目の前に現れて清算を迫ってくるのだ。まさにそれがこの現状だった。
すでに彼はその覚悟ができていた。
姫子からの指摘の通り、死んでもいいとすら思っていた。
それで罪が清算されるのなら、彼女が許してくれるのなら――と。
だがその時、背後から小さな笑い声が聞こえた。
思わず振り向けば姫子はくつくつと小さく苦笑を零していた。
それがどこか小馬鹿にされたようで、明人は不快感を露にする。
「なんですか?」
「霧子からもう一つ伝言。女心を分かっていないって」
そして、返ってきたその言葉はさらに要領の得ないものだった。
不快感は変わらず、さらに疑問だけが彼の心の中に残る。
もしかすると、あの霊媒師から自分には分からない何かを伝えられているのだろうか。
しかしそうやって疑問を巡らせていると、不意に姫子はその足を止めた。
その肩が僅かに跳ね上がり、小刻みに震え始める。
そんな自身の肩を抱き竦めて、彼女は周囲を見回す素振りを見せていた。
夕日に照らされた彼女の表情には、先ほどまでの笑みはすでにない。
「どうかしたんですか?」
「私さ、幽霊だとか妖怪だとかは見えないんだけど」
彼女は言葉を続ける前に、一つ深呼吸をする。
だがその呼吸すら震えていた。姫子は苦し気に息を吐き出し、
「――そういう怪異が近くにいると悪寒がひどくなるの」
そう口にした直後だった。
ざぁ、と微かな風が吹いたかと思うと、次の瞬間に世界の色が捲れるように暗転していった。
それは比喩ではない。先ほどまでの茜色の景色はすでに暗く、周囲は紺青よりも深い闇に染まっていく。
頭上には煌々と怪し気に輝く星々と、不気味な威圧感を感じさせる大きな満月が浮かんでいた。
周囲の景色はまるで出来の悪い舞台のハリボテのような歪で醜悪な様相へと変貌し、自分の知っている見慣れた景色はすでにそこにはなかった。
そしてさらにおかしかったのは、周囲から何の気配も感じ取れなかったことだった。
遠くから聞こえる車の音も、人々の生活の音も、生命の息遣いも。
ここにはなにもない。なにも――ない。
「……ほら、来るよっ」
呻くような苦し気な姫子の声に我に返る。
気が付けば、先ほどまで何もなかったはずの周囲に気配が湧き出す――そのような感覚を明人は明確に感じ取った。
身構える間もなく、それらは深い漆黒の帳から浮上するかのようにその姿を現した。
それは複数の――共通した特徴のない人の集団だった。
底の見えない暗がりから現れたのは見た目こそ普通の人間だったが、その顔は無感情で人形のように見える。
不気味な月明りに照らされた顔色は蒼白で、彼らが亡霊なのだということは直感的に分かった。
そして、そんな多様な集団の中に彼女はいた。
自分達を取り囲む集団の外に、明人は見慣れた幼馴染の少女を発見する。
他の取り囲んだ存在達と同じように立ち尽くし、しかしその瞳は真っすぐに明人へと向けられていた。
「菫――っ!」
彼女に駆け寄ろうと明人は一歩を踏み出す――が、その内の二体の亡霊がその行く手を阻んだ。
ゆらりと鈍重な動きで菫と明人の間に割り込むのだが、その異様さには強引に抜けることを思わず躊躇してしまう。
しかしそうやって足踏みしている間にも、亡霊達は徐々にその輪を狭めてきていた。
徐々に増していく悪寒と喉元まで競り上がる不快感に視界は明滅し、目の前の映像が霞んでいく。
――ああ、だめだ、だめだ。
――まだ、お前に謝ってもないのに。
歯を食いしばってふらつく体を、思考を、必死になって支える。
彼女に許してもらえるなら死ねると、ここまで来る間にずっと強く思ってきた。
ならば、目の前の亡霊に危害を加えられることじゃ些細な事のはずだと自身を叱咤する。
明人は震える体を無理やり黙らせて、亡霊の間へと強引に体を割り込ませた。
当然ながら亡霊達は彼の進行を阻んだ。
それを鈍重な動作だと明人は見るが、しかし通り抜けたと思った瞬間には手足にいくつもの細腕が絡んでいた。
明らかに脆弱そうな見た目にも関わらず、強引に振り解こうとするも決して亡霊の腕が緩むことはない。
彼が組み伏せられるのは時間の問題だった。
「す――み、れ――」
体に覆いかぶさった亡霊の腕が首筋へと伸び、ゆっくりと両の手で明人の首を絞め上げる。
視界が徐々に暗くなっていく。これで死ぬのか――いや、それでいいのかもしれないと、彼は思う。
死ねばこの亡霊達と――菫と同じ存在になり、永遠にこの世を彷徨うことになるのだろうかとも。
それなら、謝るのはその時でもいいはずだ
ふっ、と、彼の身体から力が抜けた。
――直後、視界が開ける。
その時、「ぎゃっ」という小さな悲鳴が聞こえたと思う。
同時に自身に覆いかぶさっていた二体の亡霊は跡形もなく消えていた。
大きく咳き込みながらも上半身を起こして周囲の見回せば、ふと数メートル先の茂みに何かが飛び込んで行くのが見えた。
その影はやけに大きくて、僅かに見えたのは猫のような真っ白な長い尻尾――だったような気がする。
「ようやく来ましたか」
背後から静かな声が聞こえた。
振り向けばそこにいたのは無表情を携えた霊媒師、西南霧子だった。
そしてその傍らには美琴と凜もいる。
「シーちゃん、乱暴にしちゃダメだよ!」
「面倒臭いわね……」
凜に対する言葉が返ってきたのは、先ほどの茂みの中からだった。
その返ってきた声は女性のもので、それはどこかで聞いたような――そう、彼女の傍らに立っていたモデルみたいな女性のものだ。
そのことに訳が分からず周囲を見回していると、先ほどまで取り囲んでいた亡霊達が公園の奥へと退散しようとしている姿を目撃する。
するとその時、りん、と小さな鈴の音が耳元で聞こえた。
それはやけに響いて聞こえたが、その音は決して不快なものではなく、むしろ安心感を覚えるものだった。
そしてそう思った瞬間、明人の両脇を何かが駆けていった。
その二つの影を最初は犬かと思ったが、その走り去る背後にあった尻尾がやけに大きく見えた。
輪郭こそぼやけてはっきりと見えなかったが、あれは狐なのではないか。
だが一般的に知られる狐とは違い、その体は真っ白だった。
と言うのも、この暗闇にも関わらずそう見えたのは、その動物が白い光を放っていたからだった。
もはや真っ白に光り輝くシルエットのように見える彼らは、まるで獲物を追い立てるかのように亡霊達を追いかけ回していた。
「遅かったですね。こっちはもう準備はできていたのですが」
「それより私今どうなってる? 身体寒くて、頭もくらくらしてきたんだけど……」
「少しだけ我慢してください。もう大丈夫ですから」
明人はこの状況で淡々と会話をしている彼女達を呆然と見ていることしか出来なかった。
何が起きているのか、なぜこの状況で冷静にしていられるのか。
様々な疑問が思考を駆け巡るが、その時、ふと霧子と視線が合う。
「彼女、あなたのことを待っていますよ」
こちらが何かを言おうとすると、それを遮るかのように彼女はそう言った。
言われて前を向く。
そこには亡霊となった菫が、先ほどと同じようにそこに立ち尽くしている。
明人は再び霊媒師へと顔を向けるが、彼女は何も言わずに明人を見下ろしていた。
それが行けと言われているような気がして、明人はそこでようやく立ち上がった。
「菫――」
幼い頃から呼び慣れた名前に、ぴくりと亡霊の肩が小さく反応した。
すると彼女は鈍重な動作でこちらへと歩いてくる。
そして目の前までやってくると、他の亡霊と同じようにこちらへと手を伸ばした。
手を伸ばす先は、やはり自身の首だった。
――そうだ、これでいい。
明人はその結末を受け入れるつもりでいた。
死ぬことは怖いが、それで彼女が報われるならそれでも構わないと思う。
もう逃げない。一緒に逝きたいのなら逝ってやる――と。
彼女の顔が徐々に迫ってくる。
「なんて顔してるのよ」
――だが、その手は首をすり抜けて、明人の首に緩やかに回された。
正面から明人を抱きしめるような形で、穏やかに、そして優しく。
敵意も悪意もなく、ただただ柔らかな声色が耳元で囁かれる。
そこで彼は全てを察する――いや、受け入れた。
――ああ、もっと早く向き合えば良かった。
幼い頃の懐かしい感触と匂いが、そうなのだと確信させる。その想いを無言で噛み締める。
明人は彼女に倣って、その手を彼女の背に回して同じように優しく抱きしめた。
少し気恥ずかしさを感じてはいたが、それよりも彼女の囁きに答えたいと、不器用ながらも勇気を出す。
抱き締めた彼女の身体は華奢で、幼い頃にしたその時の感触とは違っていた。
あの頃は彼女の方が背が大きかった覚えがあるが、今ではこんなにも小さくて、力を籠めたら壊れてしまうのではないかと思えてしまうほどに。
「ねえ、もうちょっと屈んでよ。あんた、本当にでかくなりすぎ」
「……俺のこと恨んでるのかと思ってた」
「鈍感」
「ごめん」
「こうでもしなきゃ分からなかった? 手紙だって書いたのに」
「……まだ読めてない。というか、あの時は読もうとしたのにお前が手を掴んできたから……」
「嘘つけ。あんた、怖がって読む勇気がなかっただけでしょ」
「ごめん……」
消え入りそうな声で囁くように謝れば、彼女は小さく笑った。
耳元で囁かれていた為、こそばゆさを感じるが、それはひどく心地良かった。
「逃げてばっかりでごめん。
なんでお前が病気にならなきゃならないんだって思ってた。
でも、ぼろぼろになっていくお前が見ていられなくて……本当にごめん」
「気にしなくていいって。あんたは昔から泣き虫だったからそうなんじゃないかって思ってたし」
「……なんか腹立つなそれ」
「はは、いつもの調子出てきたじゃん。明人はやっぱりそれくらいがちょうどいいよ。
私がいなくても、そのくらい強気になれればいいんだけど。心配は……それくらいかな」
「でも俺、お前がいないと――」
「ばか」
言葉を遮り、菫は静かに明人から離れた。
向き合った互いの顔は近く、吐息を感じられる距離だった。
こちらを見つめる彼女の顔は困ったような笑みを浮かべている。だが、その唇だけはきつく結ばれていた。
それは笑顔と言うにはやや何かを我慢したような表情で、明人はしばらくそんな彼女と見つめ合う。
「あんたはその……手間のかかる弟と言うか、なんと言うか。
とにかく、私なんかよりいい人を見つけなさい」
しばしの沈黙の後、そう口にして彼女は笑った。
その笑顔がやけに寂しそうに見えたのは見間違いでも思い違いでもない。
幼い頃から彼女はこうだった。自身に対してお姉さんぶって、我慢して――決して本音を零さない。
全ては自分の為を想ってのことだと、今ならはっきりと分かる。
そんな彼女へと、明人は手を――。
「下ばっかり向いてないで、前向いて生きていけ。
あんた基は良いんだから、もう少しちゃんと着飾るとかしなさいよ。
あと、バスケばっかりじゃなくて勉強もしっかりやりなさい。あとは――」
「余計なお世話だよ。もうあの頃みたいなガキじゃないって」
――伸ばさない。
抱きしめていた手を静かに引っ込める。
両手を強く握り締め、自身の太ももに力強く押し付ける。
――向き合うって決めたんだ。
――最後くらい、格好つけさせてくれ。
自分が今、どんな顔をしているのか分からない。
頑張って笑っているつもりなのだが、もしかしたら不細工で情けない顔をしているかもしれない。
笑わば笑え。むしろ笑ってくれ――明人はそう願う。
彼女は「そっか」と口にすると、明人から数歩離れた。
「最後に会いに来てくれてありがとう。元気でね」
「――ああ、本当に、今までありがとうな」
――そこからの出来事は、絶対にいつまでも忘れられないものだったと断言できる。
菫の身体がゆっくりと透けていく。
その光景を目の当たりにして、言い表せない寂寥感が一気に心を満たしていった。
だが、それでも明人は笑顔を崩さない――のだが、菫の頬に一筋の何かが輝いた。
――ああくそ、俺だって我慢してんだよ。
そこからは明人も視界がぼやけていった。
だが、彼は必死になってそれを拭う。
鮮明な光景を保とうと、彼女の最期を見届けようと。
なりふり構わず腕で乱暴に拭い、彼女の姿をこの目に刻み付ける。
すると、彼女も同じように目を拭った。拭って、それを誤魔化すように笑う。
その照れたような笑みはやけに印象に残って、素直に綺麗だと明人は思った。
それが、明人が見た彼女の最期の姿だった。
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