目を背けた先に -07-






「――へえ、明人も同じ高校なんだ」



 中学三年の夏頃――確か夏休みの前、だったと思う。


 母親におつかいを頼まれたその帰り、住宅地に差し掛かった頃に彼女と鉢合わせた。

聞けばあちらもおつかいの帰りのようで、そのまま帰り道を共にすることになった。

いつものように肩を並べ、幼い頃から見慣れた道を進む。

その最中の話題は、自分達の置かれた時期のこともあり、自然と進路の話になるのは必然とも言えた。



「バスケやるの?」

「うん。と言うか声かけられた。ウチでバスケやらないかって」

「推薦とかやるじゃん」

「いや、ただ声かけられただけだから、まだそういうのじゃないって。多分」



 謙遜する彼に対して彼女は「自信を持て」と、笑ってその肩を軽く小突いた。

彼もそれには気を良くしたようで、はにかむように笑みをこぼす。



「菫は?」

「私は地道に勉強するよ」

「でもまあ、お前は勉強できるから問題ないだろ。部活とかどうすんの?」

「運動部はないかな。今はまだ分かんないけど、勉強の方に集中したい」

「英語の?」

「なに、覚えてたの?」



 それは小学生の頃の話だったか、あるいは中学生になった頃の話だったか。

いずれにせよ憧れだけで夢を語っていた幼い頃の記憶だ。

それを思い出して、二人は再び笑う――笑い合って、からかい合う。


 そうやって笑い合った後、ふと少年は少女の顔を改めて見る。

茜色の眩い夕陽が彼女の横顔を照らしていて、その笑顔はまるで輝いて見えた。

見慣れたはずの笑顔なのに、なぜだか目が離せなくて無意識の内にじっとそれを見つめていた。


 ――こいつ、こんなに可愛かったっけ。



「なに?」



 なんでもないと言って、彼は誤魔化すように適当な馬鹿話を続けた。


 それは一瞬――ほんの一瞬だけの気の迷いだ。

幼い頃からお節介焼きで、姉御肌を吹かせていた男勝りな元気な少女。

気が付けばいつも一緒にいた。笑った。遊んだ。喧嘩した。喜び合った。

これからもきっとそうなのだから、それを口にするのは少し――いや、そうじゃない。

何を馬鹿な妄想をしているんだと思考にブレーキをかける。

見惚れていたと勘付かれないように、彼は彼女から視線を逸らした。


 ――直後、場面が変わる。


 気が付けば彼は真っ白な部屋の中にいた。

僅かに視線を動かせば、そこが病室であり、そしてその中央にベッドがあることに気が付いた。


 ベッドには誰かが横たわっていた。

真っ白なシーツの上に置かれた血色の失われた枯れ枝のような腕、痩せ細った首筋、小さくなった顔――。

あぁ、と、堪らず彼の口から震えた声が吐き出される。

目の前の彼女が呼吸をしているのか、していないのかも分からない。


 ――まるで死体だ。


 彼女が生きているのは分かっていたが、だとしてもこの姿はあまりにもショックが大きかった。

少し前まではあんなに元気だったのに、笑っていたのに、綺麗だったのに――。

じわじわと口の中の水分が失われ、次第にそれは体中へと伝播していく。

カラカラになった喉から、乾いた息が吹き抜けていった。

そして終いには呼吸すら忘れてその場に立ち尽くしていた。


 ――なんでこいつが。

 ――なんで病気にならなきゃいけないのか。

 ――なんで、なんで、なんで。


 途端、思考が溢れた。

これは二度目にお見舞いに来た時の記憶だ、と。

彼女を驚かせようと思って、内緒で病室へとやってきた時の記憶――封じ込めてしまったその一片。


 自身の楽観的な予想に反して、彼女の面影はすでに消えかけていた。

まるで悪夢を見ているようで、目の前の現実を信じることができなかった。


 ――そうだ。俺は逃げたんだ。


 病に苦しみ、ぼろぼろになっていく彼女から目を逸らした。

必死に生きようとしている時も、そして最期を迎える時も、葬式の時も。

封をしていた記憶が蘇り、思い出された自己嫌悪と罪悪感があっという間に脳内に満たされていった。

パニックになった彼は自身を責め立てる恐怖に堪らず後退る――が。


 次の瞬間、枯れ枝のような手が自身の腕を掴んだ。



「なんで会いに来てくれなかったの?」



 弾かれたようにやつれた顔がこちらを向き、見開かれた目がこちらに向けられる。

口にした抑揚のないものだったが、しかし彼にはそれが恨み辛みを詰め込んだ呪詛のように感じられた。

それが、彼の限界だった。


 堰を切ったように泣き喚いていたような気もすれば、幼子のようにとにかく謝罪を口にしていたような覚えもある。


 だが何よりも辛かったのは、病床の彼女が目を見開いたまま、決してその無表情を崩さなかったことだった。

いかなる謝罪も受け入れるつもりはないという拒絶に感じ取られ、それがさらに心に罪悪感を刻みつける。


 ――本当に、死んでしまいたいほど惨めだった。











 ***











「あああああああああああああ!!」



 喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げて、明人は目を覚ました。

パニックになっていたものの、視界に真っ先に入ってきたのが見知らぬ天井だったのは幸いなことだったのかもしれない。

ここはどこだと思考し――自身が相談所かざみどりを訪ねた記憶が蘇る。


 気が付けば薄手の毛布が半身に掛けられていて、そのままさらに視線を落とせばそこには濡れたタオルが落ちていた。

上半身を起こした際に額から落ちたのだろうか。


 そこで自分が倒れたのだということを理解した。

あの霊媒師達に迷惑を掛けてしまった事実に罪悪感を覚える――が、周囲を見渡しても誰もいない。

代わりにあるのは窓から差し込んでくる茜色の夕焼けだった。

どれだけ気を失っていたのかは分からないが、そのお陰で体の怠さは幾分かましなものになっているような気がする。



「びっくりした」



 ふと、その声のした方を向く。

部屋の隅の通路から、作家だと名乗っていた女性――確か瀬良姫子と名乗っていたか――が現れた。



「嫌な夢でも見てた?」

「……今、何時くらいですか?」

「六時くらいかな」



 最悪だ――と、堪らず頭を抱えた。

だが、どれだけ後悔してもそれも無駄な時間だと言うことだけは分かっていた。

毛布を跳ね除け、地に足をつける。立ち上がる。

少しふらついたが、歩けないほどではない。


 だがこの時、彼の胸中は文字通り悪夢のような荒療治によって想起させられた、幼馴染の少女への罪悪感と自己嫌悪で満たされていた。

この瞬間にも夢の中で見た彼女とのやり取りが、繰り返し脳裏で再生される。


 ――行かなきゃ。

 ――謝らなきゃ。

 ――死ななきゃ。



「待って。そんな体調でどこに行くつもりなの」

「俺、行かなきゃ……」



 姫子へそう返して事務所を扉へと向かい、ドアノブへとその手を掛ける。



「じゃあ、少しだけ話を聞いて」



 だが、返ってきたのは制止の言葉ではなかった。

予想外の言葉に対し、明人は思わず姫子へと振り返る。



「霧子から。

少しだけ霊との縁を緩めたから、動く分には体調の方は問題ないはず。

あと、霧子はあなた自身はどこに行けばいいのか分かってるって言ってたけど、それは大丈夫?」

「分かります……」

「それじゃあ一緒に行こっか」

「え?」

「一人で行かせるわけにはいかないでしょ」



 そう口にして、姫子は優しく笑った。

気が付けば、彼女はいつの間にか手にしていた上着に袖を通している所で、



「それに、私もバイト代欲しいからね」



 今度は悪戯好きのするような、あるいは少年のするような笑みを浮かべた。

夕日に照らされたその笑みは少しだけ幼馴染に似ていて、そこに懐かしさを感じる反面、そんな優しい思い出が心を刺す。


 堪らず視線を逸らし、明人は逃げるようにドアノブを回した。

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