目を背けた先に -06-






「明人、これ菫ちゃんのお母さんからよ」



 帰宅して早々に母親からそんな言葉を聞かされ、明人は心臓が跳ね上がった。

出来ることなら母の声を無視してリビングを通り過ぎたかったが、幼馴染の名前を出されてはそういうわけにもいかない。


 リビングに入ると、彼の母親は真っ白な洋封筒を手渡してきた。

特に装飾などはなく本当にシンプルなものだったが、その表面には見慣れた文字で『山里 明人 様』とボールペンで書かれていた。



「菫ちゃんの部屋を掃除してた時に見つけたんだって」



 彼女にしては柄にもなく仰々しいなと、明人は母親と共に苦笑を浮かべた。


 そんな明人へと「言えるような内容だったら、後で教えてね」と、手渡した母は少し気を遣ったような笑みを浮かべてそう言った。

そこで改めて、これが彼女の遺書なのだという実感が湧いてくる。


 分かったと短くそれだけを口にして、明人は二階の自室へと上がって行った。











 ***











 ――何が書かれているんだろう。


 手紙を机の上に置いてから、じっと明人はそれを見つめていた。

しかしなかなか手を伸ばす気にはなれず、ただ漠然と彼はそれを眺めるばかりであった。


 この自分宛てだという手紙はどうにも不自然ではあるのだが、先日亡霊として現れた彼女の姿を見た今では何か意味があるのではないのかとも思える。

襲ってきた件についても、自身を蝕もうとしているこの体調不良の意味も。これを読めば、その全てが分かるのだろうか。

あるいはあの霊媒師の所に持っていくべきだろうか――とまで考えるのだが、杞憂となった場合はただ恥をかくだけだと、それは踏みとどまる。

やはり、まずは自分で中身を確認するしかないらしい。


 ――深く息を吐く。


 立ち上がり、明人は落ち着かない様子で部屋の中を歩き回る、立ち止まる――それをしばらく繰り返した。

踏ん切りのつかない自身の優柔不断さに苛立ち、呆れ、落ち込む。

生前の菫にからかわれた記憶が蘇り、その通りだという自虐を心の中で呟いた。


 明人がようやく机を目の前にしたのは、それからまたしばらくしてからだった。どれだけ時間が経ったのかは分からない。

座り慣れた椅子に腰を下ろして、封を切ろうと机の上の洋封筒へと手を伸ばす。

だが触れる直前、彼の手はぴたりと中空で制止した。


 ――怖い。


 何がそんなに怖いのだろうか。恨まれているからだろうか――だが、何に対して?

そんな自問自答の末に浮かんできたのは、先日この部屋に現れた亡霊となった彼女の姿だった。

あの時、彼女はこちらを襲うおうとしてきた。そしてその影響なのか、自身の身体を何かが蝕んでいる。


 ただ漠然と自分が恨まれていることしか分からない。

生前は仲が良かったと思っていたのだが、それは自分がそう思い込んでいただけなのだろうか。

そしてその全てがこの手紙に書かれているのだろうか――そう思うと、手が震えた。

ふと病床に横になった時のやせ細った姿が思い出されるのだが、あの時の笑顔も偽りで、心の内では自身を恨んでいたのか。

彼女に拒絶されているという事実に辿り着き、さらにその手紙と彼との距離を遠ざけた。

もはや今日は読む気にもなれず、静かに手を引いた。



「明人」



 ――直後、引っ込めようとした右手首を掴まれる。

 ――それは真横から伸びてきた真っ白な細い手だった。


 その瞬間、明人は自身の時間が停まったような錯覚に陥る。

瞬きすら出来ず、呼吸すら忘れてしまったかのように。それは世界からまるで音が失われたようだった。


 だが、そんな世界の中でも着実に、それは明人の視界に入り込もうとしていた。

自身の腕を掴んだまま、顔を覗き込むように徐々にその姿を現す。


 ――菫だ。


 生気のない虚ろな瞳がじっとこちらを見つめる。

それが彼の恐怖が最高潮に達した瞬間だった。

体は震えあがり、うまく動くことすらも出来なければ、声を発することもできない。

全身が総毛立つ不快感に見舞われながら、彼は視線すら逸らせず亡霊を見ていることしかできなかった。


 ――やっぱり俺を恨んでいる。

 ――今回は掴まれた。

 ――俺は死ぬんだ。

 ――こいつは俺に死んでほしいんじゃないか。


 恐怖に浸食されていく思考が様々な叫びをあげる。


 しかしそれに追い打ちをかけるようにして、同時に自身の身体を掴む手が増えた。

頭、首、左肩、左腕、右足、左足――。

それらは確かに人の手で、背後から自分の身体を掴んでいる――姿は見えなかったが、少なくとも明人はそのように感じていた。


 それらは次第に明人へと密着していった。

そして同時に耳元で息遣いが聞こえ始めたかと思うと、じんわりと滲み出るように、掠れた声が言葉を形作っていく。

明人にはその悍ましい声が、どのような意味でどういう言葉を口にしているのか理解できなかった。

だが、そのささやきに耳を傾けてしまっては、自分の中の何かが壊れてしまう――ただ、漠然とした本能的な恐怖だけが彼の思考に溢れていた。



「苦しいよ」



 そして、その中で菫の声だけがはっきりと聞こえていた。


 ――ああ、そうだろうな。


 明人はその言葉に思わず納得してしまっていた。

若くして病気になり、そして苦しんで死んでいった。

本来体験するはずだった様々な人生のイベントは決して彼女に訪れない。

だから彼女は生きている自分を羨んでいる。妬んでいる。だから、こうして自分を迎えに来たんだ。


 明人はその答えに辿り着いた瞬間、少しだけ恐怖心が和らいだ。

そしてその思考の隙間へと流れ込んできたのは哀れみと同情だった。


 そんなにつらいのなら。そんなに苦しいのなら。そんなに寂しいのなら。

お前の恨み辛みを清算することが出来るのなら、死んでもいい。

明人はすっかりそう思ってしまっていた。

恐怖も引っ込んでしまって、気怠くなっていく身体に、思考に――身を任せる。


 そして思考を放棄すると同時に、彼の意識は深く沈んでいった。











 ***











「もう、十分です」



 早朝、相談所かざみどりにやってきた明人は、開口一番にそう口にした。

この日は休日だった為、学生の彼がやってくることに不思議はない。

しかしその表情はつい先日出会った時よりもさらに疲弊していて、その顔色はもはや病人のそれだった。

彼の身に何かがあったのだろうと姫子は察知するも、やはり彼はそれ以上のことを決して口にしてはくれなかった。



「霊に遭遇しましたか」

「……はい。でも、もう大丈夫です」



 霧子の問いに、彼は力なく頷いてそう答えた。

だが、霧子は決してその言葉を受け取ることはなかった。

淡々と彼に質問だけを続けていく。



「霊の数は複数でしたか」

「多分……」

「七人?」

「分からないですけど、そのくらいだと思います……」

「それらに心当たりは?」

「ないですけど、強いて言うならやっぱり菫がそこにいました」

「……やはり体調が悪そうですね」

「平気です。本当に気にしなくても大丈夫です」

「彼女に同情してしまいましたか」



 ぴたり――と、明人の動きが止まる。

時間でも止まったかのように硬直してしまったそれは、心の内を見透かされてしまったが故だろうか。



「ところで、話は聞いてきましたか?」

「……はい。周りの評判はとても良くて……」

「そんなことはどうでもいいんです。あなたはどう思いましたか?」

「どうって……」

「自分がすべきことが何だったのか、気がつきませんでしたか」



 いつもの無感情で静かな口調だったが、徐々にそれが詰問気味になっていくことに姫子は気が付いた。

もちろんその無表情は彼女の平常時のものではあり、決して感情的になっているわけではない。

勘違いされがちなのだが、彼女は人に対して――あるいはそれ以外に対しても――決して公平さや情を欠くような人物ではない。

だとするとこの詰問も、何らかの意味があってのことなのだろう。

何より彼女を最も信頼している美琴は、それを止めることなく無言で調書を作成していた。



「……まあ、とりあえずその話は置いておきましょうか。

あなたが見たという幽霊の仕業ですね。複数で行動し、目撃した者を祟る。

家にまで入り込んできたのは、彼女があなたと強い縁で結ばれているから。

その所為で、彼女を取り込んだ霊の集団までもが憑いてきた」

「集団って……」

「あ、分かった」



 そこで唐突に声を上げたのは姫子だった。

この場にいる全員の視線が彼女に向けられ、



「これ、七人ミサキだ」



 彼女はそう断言した。



「七人ミサキ?」



 美琴の問いかけに、姫子は頷いた。

さらに姫子が霧子へと目配せをすると、彼女は「お願いします」と口にして小さく頷いた。

そこから姫子が説明を続けた。



「四国と中国地方に伝わる集団の亡霊の伝説だよ。

様々な事故で亡くなった死霊で、常に七人組で出没するの。

七人ミサキに遭遇した人間は高熱に見舞われて死ぬだなんて言われてるんだけど、

そうして一人を取り殺すと七人ミサキの内の一人が成仏できる。

そして入れ替わるようにして殺された者が七人ミサキとして組み込まれるの。

都市伝説だと渋谷七人ミサキなんてものもあるけど、今回は本来の七人ミサキの伝承が近いのかな。

いろんな伝承があるんだけど、老圃奇談に見られる戦国時代の武将の――」

「姫子、長くなるのでその辺で」



 だがその説明も蛇足の域まで到達すると、ぴしゃりと打ち切られる。

霧子は姫子の性質を熟知していた。このまま語らせると、いつまでも話は終わらない。


 姫子は苦笑を浮かべながら「後はお願い」と、話の主導を霊媒師へと返す。



「霊の正体については彼女の言った通りかもしれません。

だけど、彼女がそれに取り込まれたのは不幸な偶然です。

もしかしたら、本当はあなたを傷つけるつもりはないのかもしれない。

あなたはどう思いますか?」

「どうって……」

「いろんな人に話を聞いてきて、どう思いましたか? 自分が何をしたのか理解できていますか?」

「それ、は――」



 そう言いかけた明人だったが、次の瞬間にはその体はぐらりと揺れ、そのまま横に倒れ込んだ。

幸いだったのはそのままソファーの上に倒れたことだった。

しかし一番に駆け寄った姫子が彼の表情を見ると、先ほどよりも血の気が引いており、見る見るうちにその額には粒のような汗が滲み出していた。

姫子が額へと触れると、徐々に熱が上がっていることが嫌でも自身の掌から感じ取れた。



「これ、七人ミサキの祟りってことでいいんだよね」

「斎藤刑事の言っていた通りですね。幽霊に遭遇した被害者は、熱病を患ったかのように体調を崩す」

「お守りを渡してたんじゃなかったの?」

「お守りを渡しても、生きる意味を見失ってしまっては意味がありません。そういった心の隙間に霊は干渉するのですから」



 霧子は淡々とそう口にしてソファーから立ち上がる。

その頃にはすでに、美琴が濡れたタオルや毛布を持ってきていた。

姫子は美琴に目配せをすると彼女は黙って頷いた。

彼のことを任せると、立ち上がって部屋の奥へと進む霧子へとついていった。


 そこには彼女の『商売道具』を保管している倉庫があった。

霧子が扉を開けると、不思議と穏やかな風が吹く――それは決して気圧の変化でもなければ、室内の窓が開いているわけではない。

それは常人には知られざる神秘の一片なのだろう。姫子はそう思っていた。

普段はあまり入らせてくれないのだが、この時は彼女もいろいろと察して、後に続く姫子を追い出そうとはしなかった。


 霧子がその倉庫部屋の照明を点けると、その中は大小様々な箱がしっかりと整理されて綺麗に積み重ねられていた。

そしてその箱はこれまた様々な材質のものがあり、プラスチック製の収納ボックスから仰々しい桐箱まであった。

彼女はここから仕事に使う道具を選別するのだと言う。

姫子に背を向けたまま、霧子は無駄な動きを一切見せずに目的の道具を手早く見繕っているようだった。


 ――話すなら勝手にしてください。


 その背中にそう言われているような気がしたので、姫子はそこで遠慮することをやめた。



「やっぱり言い過ぎだったんじゃない? いろいろ抱え込んでるんだろうけど……」

「彼はそれだけのことをしたんですよ」



 たった一言だけ、彼女はそう言葉を返した。

「また自分だけに見えた情報で自己完結をしているな」と、姫子は小さく溜息をつく。



「あの子が何か悪いことをしたの?」

「人には人生で向き合わなければならないものがあります。彼はそれから目を背けた」

「……人の死?」

「察しが良くて助かります。それと、これから美琴君と急ぎで町の中を見て回ってきます」

「そんなにまずいの?」



 ええ、と、抑揚のない声が返ってくる。



「斎藤刑事の話では、すでに十人以上が亡霊を目撃しています。

一昨日から真白さんと弥生さんの手も借りて亡霊の確保に回っていましたが、どうにもこの調子だと目撃者達が取り殺されるのも時間の問題のようです」

「ちょっと、そんな大事なことどうして言ってくれなかったの」

「彼が来てようやく祟りの進行度を把握できたんです。

私だって後手に回ることだってあります。今回は斎藤刑事に細かい情報までは聞けませんでしたから。

ですが幸いなのは、そのミサキ達は山里少年にご執心だと言うことです」

「その幼馴染の子の影響でってこと?」

「ええ」



 霧子は肯定し、そこで作業を止めて姫子へと向き直る。

無感情で眠たげな表情ではあるが、真っすぐ向けられた瞳に邪念はない。

明確な意志を宿したそれで、まさに霊媒師としてのスイッチへ切り替わった友人の姿がそこにあった。



「姫子、彼のことを見ていてください。それと起きたら伝言も」

「いいけど、あの子を追いかけてこっちに七人ミサキが来たりしない?」

「ここはしっかりと対策されているから問題ありませんよ。それに、ここに来ることが出来ないのなら別の場所で待つはずです」

「分かった。それで、伝言って?」



 頷いて、霧子は静かに言葉を続けた。

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