第3話


 小さい時、その子に一人の友達が出来ました。

って言いても、別にたった一人のーーとか、唯一無二のーーとかじゃなくて、後から何人もできる友達の内の一人。特別に思ったりはしてなかった。

でも、友達になるのが早かったからかな。他の子達に比べて少しだけ仲が良かった。

遊ぶ約束をして、ご飯を食べる約束をして、たまーに遊びに行く約束をして。

……小学生でそれって事は、うん。多分、親友に近かったのかな。

その時は全然そんなつもりなかったんだけどね。

で、ある時。

その友達に変な噂が流れたの。

学校の物を盗んだって、そんな、絶対にあり得ない話が学年中に。

しかもその時はもう結構大きくなってて、良い事・悪い事にちょっと……ううん。過剰に反応する時期だった。

みんなも、私も。

その結果、私はその友達と距離を置くことにしたんだ。

とても仲のいい子だとは思ってた。一緒にいて楽しい子だとも思ってた。

でもね、その時の私にしてみたら何人かいる友達のうちの一人でしかなくて、別に、わざわざ一緒に遊ぶ必要はない子だった。

そんな時なんだ。太陽が現れたのは。

右を見ても左を見てもみんなみんなあの子の噂をしてる。物を盗んだんだって話をしてる。

私は違うって思ってた。そんなことする子じゃないって知ってたから。でも、だからって一緒にいてあげたわけじゃなくて、まさか誤解を解こうとしたわけでもなくて。

でもその太陽は、何を言われてても、関係なくその子と遊んでた。

話してた。一緒にいた。

どんなに邪魔をされても気にしない、何を言われても相手にしない、嫌な事をされても離れない。

今思い返せば、本当に酷い事ばっかりされてたと思う。

遊具は使えない、ボールとかのおもちゃも使えない、そもそもグループに入れてももらえないし誘ってももらえない。

小学校っていう大きなコミュニティで、その子は太陽と二人きり。

誰が見ても、押し潰されるのは二人の方に決まってる。

……でも、そうはならなかった。

ずっとずっと、二人は一緒にいたから。

真面目で、いつも周りの人の手伝いをして、なのにそれを言い訳にしないその子の傍に、ずっといてあげたから。

そしてそれはきっと太陽の方も同じで、彼が雲に隠れなかったのはその子がいつも傍にいたからなんだと思う。

そんな二人に、私は強く魅かれて、でも、仲良くなろうとしちゃいけないって思った。

だって私は、噂の真実が分かるまでその子と太陽から距離を置いていたんだもの。

できるだけーーううん、絶対に関わらないようにしていたんだもの。

そんな弱虫で身勝手な人が、二人の傍にいたらいけないって。

…なのに、その子は言ってくれた。

『一緒に遊ぼう』って。

あの時と……友達として一緒だった時と同じように。

『やっと遊べるな!』

隣にいた太陽と、一緒に。

だからね………ーーーー

 「だからね、六花」 

 静かに暮れてゆく夕陽を背に、美野は一歩後ろへと下がる。

 「私は、貴方に照らしてもらいたい」

逆光で眩しいはずの彼女の姿に、けれど、目を背ける事が出来ない。

 「本当は私が志奈を照らせるようになりたかった。もう二度と、つまらない噂に流されてあの子を傷つけなくても済むように、貴方みたいに強くなりたかった」

頬を掻き、小さく俯いて、……それからまた、俺を見直して。

 「でも、いつからか私は」

真っ直ぐに俺の目を見て。

 「貴方を、好きになってた」

痛ましいまでに笑った。

 「……けど、だから私は太陽を見上げた子なんだ」

 「…………」

夕陽に振り向いた美野は、ほんの数歩だけ前へとーー俺から遠ざかるように歩を進める。

 「私にとって貴方が太陽のように思えたってことは、あの時、ずっと貴方が傍にいたあの子は、私なんかよりもっと貴方のことを太陽のように思ってる」

振り向きもせず、言葉を続ける美野。

俺が口を挟む余裕も、雰囲気も、そこにはない。

 「私には解け落ちてしまう羽根すらなかった。太陽には一度だって近づけなかったから。……だから、太陽が何を思っていたのかは分かんない。でも、ただ見上げているだけの私にしか分からないことだってある」

振り向き、微笑みを崩した美野。

そうして彼女の真剣な眼差しを目にした。

 「……だから、大丈夫。六花が太陽だと思ってるあの子は、羽根を溶かしたりなんてしないから」

彼女の、確かな確信の含まれた強い言葉。

それを聞いて俺は、情けない事にやっと確信した。

 「……ありがとな、美野」

 「うん、どういたしまして」

 「それに、あいつにも」

 「………うん、言っとく」

帰路へと向かって歩き出した美野を背に、俺の脚は学校へと向かう。

踏みしめる力が強くなるのを感じながら進んでいく。

 「本当、いい奴だよ、お前は」

お前は知ってたんだよな。

美野が俺をどう思っていたのかってこと。それがどんな事だったのか。

お前がいつから美野の気持ちを知ってたのかは分かんねぇ。けど、辛い役割させちまったな。

 「(……分かってる。もう誤魔化さなねぇからさ、許してくれ)」

そうだ。これだけのことをしてもらって、今更何もしませんでしたってのは通るはずがない。

………だって。

 ーー俺は今、お前の気持ちに背中を押されてるんだ。

逸る気持ちを抱え、俺は少しずつ走り始めた脚で志奈の下へと向かった。



                ーーーー   



 夕焼けは解け切り、帰る人ももういなくなった校門。

まだいくつか明るい校舎の光に薄っすらと照らされて、生徒が一人、現れる。

シルエットから察するに恐らくは女生徒で。

 「あれ?まだ帰ってなかったの?」

俺が気付くよりも先に向こうが話しかけてきてくれた。

 「ああ、ちょっと」

 「ふーん?学校に?」

 「いや、お前に」

 「……?」

不思議そうに小首を傾げる志奈に道を指示し、行こう、と提案する。

それもやはりおかしいと感じたのか、志奈はもう一度首を傾げながらもとりあえず頷いてくれた。

 「今日、実乃ちゃんと帰ったんだよね?」

 「だな。まぁ、途中で別れちまったけど」

 「そんなに大事な用事?なにかあったっけ?」

 「まぁ、うん。色々」

街灯は少なく、月の光の方が明るく思える道を進む俺と志奈。

冬の盛りが過ぎたとはいえ日が沈めばまだまだ寒い時期だ。志奈の鼻の先は紅く、それは多分俺も同じ。

 「六花、手袋とかは無いの?」

 「めんどくさくてなー。ポケットに突っこめばいいかなって」

 「あはは、乱暴だなー」

かじかむ手に手袋をはめ、マフラーを巻き直しながら小さく笑う志奈。

明るく、楽し気で、柔らかくて、微笑ましくて。曇らせたくない、笑顔だ。

俺が。

 「志奈」

 「ん?」

俺が、

 「好きだ」

俺が、ずっと好きだった、顔だ。

 「初めて逢った時、俺は、お前のその笑顔を見て好きになったんだ」

自然と止まる互いの脚。

 「覚えてるかは分かんねぇ。小学生になるより前の、雪の降る公園で初めてあった時の事だから」

気付けば向かい合っている互いの顏。

 「………はは、自分でも気持ち悪いとは思ってるんだ」

白い息が、言葉と共に溢れては消えていく。

 「【好きになった人が大変な思いをしているから、そうならないようにしたい。】小学校の頃から今日まで、ずっとそんなことばっかり考えて一緒にいたんだ。多分、まともじゃない」

幾度と無く月の光に吸い込まれていく吐息は、だが俺のモノだけ。

志奈は、一度も話してはくれない。

……だとしても。

 「勝手なのは分かってる。お前は多分、俺のことをただの友達としてだけ見てくれてたんだと思う。そんな相手からこんな事言われるのは、本当に嫌だと思う」

けど、と、志奈の返事も待たずに続ける。

 「ずっと、好きだったんだ。俺と付き合ってほしい」

言い切って、もう、何も無くなった。

あるのは、沈黙と互いの視線だけ。

交わっているのにどこか遠い、互いの視線だけ。

……予想はできていた。

急に言って、いきなり返事を求めて、それなのに後腐れ無いようにしたいってどこか無理強いしているようで。

告白なんてのはどこまでいっても自分勝手な行為でしかない。

昨日までーーいや、ついさっきまで普通に話していたはずの友人からいきなり想いを告げられるなんてまともじゃない。

互いに好き同士じゃないなら迷惑の極みだ。

そんな分かり切ってることを……………だとしても。

 「今すぐにじゃなくていいんだ。いつか、返事を聞かせて欲しい」

もう、抱え込んでおきたくはなかった。

あれだけお膳立てしてもらってーーなんて言うつもりはもうない。

例えこの行動が一過性の気の迷いだったとしても、その場の勢いだったとしても、俺がずっと持っていたこの想いは間違いなく本物だ。

………だから。 

 「……六花」

 「………ん」

呼ばれて出た俺の声は裏返る。

 「それは、本気なんだよね?」

 「ああ」

やっと絞り出した返事は自分でもわかるくらいぶっきらぼうで。

 「冗談じゃないよね?」

 「当然」

それを分かっていながらもう一度似たような返事したら。

 「……………だったら」

志奈は、多分。

 「すごく、嬉しい」

多分、返事を、返してくれた。

 「……私もね、ずっと思ってた」

首にしていたマフラーを解き、一歩、志奈は傍に身体を寄せる。

 「[ただの友達]、[話しやすいだけの相手]、[異性として、見られてない]。………ずっと、そう思われてるんだって、思ってた」

僅かに手を動かせば触れられるほど、立ち昇る白い息が目前で色濃く見えるほど近くに立った志奈は、解いたマフラーを俺の首に掛ける。

 「小学生の時、私が大変な思いをしてる時にいつも傍にいてくれた事、本当に嬉しかった」

均等になるよう長さを合わせ、両端を強く握る。

 「中学生の時、前と同じように誘ったら誰かにからかわれて距離を置こうとしたけど、それでも気にせず、寧ろ誘ってくれるのが嬉しかった」

その片端をもう一度首に回すと、すぐに、俺の首元に柔らかで暖かな熱が溢れていく。

 「高校生になって一年目。なんとなく選んだ同じ学校で六花が別のクラスになった時、自分でも驚くくらい悲しくなって、……それで、気が付いた」

そうして、身震いを一度した志奈はまた微笑む。

 「私は、六花に恋してたんだって」

それが、彼女からの返事だった。

 「………いこっか」

小さな、小さな沈黙の後、どこか恥ずかし気に志奈が帰ろうと口にし。

 「……寒く、ないか」

 「うん。すっごく、あったかい」

やっとひねり出した俺の言葉は、鼻先を赤らめる彼女の言葉を包んだ。

その帰り道に一緒に見上げた月は忘れられないくらい綺麗だった。




_____________________________________




 【告白】と呼ばれる二人の一大イベントから約一ヶ月。

季節はすっかり移り変わり、時には半袖を着ての外出も視野に入れる日々が続き、翌日から春休みとなった日。

 「ああああ、めんどくせぇぇぇ」

もう間もなく終業式だというのに、六花は机に突っ伏して嘆いていた。

 「また志奈の事~?」

 「……あー、美野か。おはよ」

 「ん、おはよ!」

にわかに騒がしくなりつつある教室で、唯一六花の席にやってきたのは美野。

衣替えも過ぎ、半袖のワイシャツをラフに着た彼女は彼の前の席に腰を下ろす。

 「んで、また志奈?」

 「そうなんだよ。あいつ、今日も手伝い入れててさー。一緒に帰れねぇんだよ」

 「ありゃ、またぁ?言った方がいいんじゃない?」

六花の嘆きの種の原因である志奈の手伝い癖。

それを理由に彼は何度も約束を結べずにいて、今日もまた六花は一人帰るはめになっていた。

 「恋人が出来ればちょっとは変わるかなーなんて、少し思ってたりしてたんだけど、所詮は六花が相手か。実は前とそんなに関係変わってないもんねぇ」

 「つってもよーー。流石に酷くないか??これで春休みもーなんて言われたら泣くぞ」

 「あっははは、あり得るあり得る。……けどさ」

ますます沈んでいく六花に対し、美野は満面の笑みを見せるとずいと彼に顏を寄せる。

 「好きなんでしょ?一か月もそんな感じなのに別れないってことはさ」

 「そーーだよーーー!だからめんどくせーーんだわーーー!!」

告げられた美野の言葉で再び机に顔を擦りつける六花。

彼のそんな行動を見た美野は大きく声を上げて笑った。

 「はー、面白い。これが私を振った男の末路かぁ。悲しい思いしただけあるよ」

 「ぐっ、こいつ。振った側は決して触れられない話の振り方しやがって」

 「ま、そういうの諸々込みで振ったはずだし?飽きるまでは遊ばせてもらうからね」

 「ひでぇ……」

トドメとさして変わらない一言に胸を抉られ薄く涙を浮かべる六花。

その心象は、このまま式に出席せずに帰ってしまおうかと本気で思うほど。

……しかし。

 「ま、とは言っても、だよ」

 「……?」

机の音を軽く響かせて立ち上がる美野。

その目線は六花を優しく見下ろし。

 「惚れた男が悲しんでるんだもん。一肌脱がなきゃ女が廃るってもんでしょ?」

彼がつられるような魅力を持って、教室の扉に視線が向けられた。

 「………緑?」

 「おーう、緑だぜーー」

その先にいたのは片手で抱えるには少々多いくらいの資料を手にした六花の親友・緑。

彼はごちゃつく生徒の群れを上手く潜り抜けて六花と美野のもとへとやってくる。

 「これが川爽が頼まれてた仕事。主に仕分けと整頓だから人手があればすぐに終わるよ」

 「お、おう」

机の上にどさりと置かれた資料を眺めつつ生返事を返すばかりの六花。

 「本当は生徒会やクラス委員なんかがやる仕事で、不幸なことに川爽は委員長。お前は手出しできない」

 「まぁ、だな。だから指をくわえてたんだし」

 「そこで、私たちの出番ってわけ」

 「……?」

どこか得意げに腕を組む美野に首を傾げ、六花は並んで立っている緑に視線を向ける。

 「来期のクラス委員に立候補するなら、って条件でやらせてもらえたんだ」

 「え、じゃあ」

 「ああ。ムカつくけど、放課後デート楽しんできなよ」

 「そーいうこと。感謝してよ?」

不服そうな顔を隠しもせず口にした緑に続いて美野が明るく言い放った。

 「……助かるわ、マジで」

 「おう、一生恩に着てくれていいぞ」

 「後でパフェね~」

二人の言葉の意味を理解した六花は一言だけ二人に残すと席を立ち上がり、志奈がいる体育館へと一目散に歩き出す。

 「あはは~。ホントにぞっこんラヴだねぇ」

 「表現古くない?」

 「それも仕方ないのよー」

クラスの生徒の過半数が体育館へと向かっている中、六花の机に置かれている資料に手を付ける二人。

と言っても本格的にではなく、後々やりやすくするための仕分け作業を時間があるうちにやってしまおうという考えだ。

 「……六花の事、まだ好きだから。か」

その片手間にーーなるようにーー言葉を一つ口にした緑。

 「うん、まぁね。けど無理でしょ?あんな甘いとこ見せられたらさ」

それを知ってか知らずか、美野は努めて明るく振舞った。

 「【過ぎた事は気にしない大雑把な女友達】気取ってあげるのが精一杯なの」

けれど、紡がれた彼女の一言は緑の心を大きく、抉った。

 「……そういうとこだよ」

 「ん、何か言った?」

机に底を当てて紙の束を整えた音に紛れて呟かれた緑の声は美野には届かない。

 「いーや。めんどくさい女だなって」

 「はは、人の事言えないくせに」

 「………腹立つけど否定できないわ」

ーー或いは、[ここで素直になるべきか?]。とも考えた緑だったが。

 「でも、良かった。緑が相談に乗ってくれなかったら、私……」

 「雑な感じするのにその辺はナイーブだもんねぇ美野」

 「女の子だしね~」

 「はは、そう言えばそっか」

 「はぁーー??」

切なく微笑む彼女の横顔が覗き見えて、緑はやめた。




_____________________________________






 それから春休みに入り、二人は緑と美野の助けを得ながら進んでは進退を繰り返しながら関係を深めていった。

似ているようで似ていない性格の六花と志奈。

彼らは事ある事に些細な衝突を繰り返しては、しかし別れはせず。彼に想い焦がれていた美野でさえ、羨望ではなく呆れ笑いを浮かべるほどじれったい日々を送る。

そうして訪れた四人の卒業の日。

それぞれがそれぞれの道に進み、もう二度と無いだろう四人が揃う帰路の中、美野は彼女に、彼に対して抱ていた想いを晒した。

『今はもうそんなことないよ』

最後に付け加えられた言葉は二人にしてみれば真実のように思えてならなかったが、ただ一人だけが、沈みかけた雰囲気の中でほんの少しだけおどけた風に話を切り出した。

ーーやがて。

『じゃあまた』

『そのうち』

『同窓会とかで』

『うん』

あれ以来行きつけになっていたファミレスで、いつものように、いつもと変わらず食事を談笑を交わした四人は本当の帰路へとついた。

二手に分かれて進む帰り道。

普段よりも少しだけ暗くなった街並みを抜け、二人との今生の別れという訳ではないが。

 『…ん』

 『……うん』

全身に纏わり付いては胸奥にわだかまるわびしさを誤魔化すため、六花と志奈はどちらからともなく唇を重ねた。

薄暗い絵の具と白銀色の楕円に夕焼けが塗り替えられる頃の出来事だった。


 


 それからというもの、二人は緑と美野にめっきり合わなくなった。

スマートフォンを介してのメッセージのやり取りはあっても、誰かが主催した同窓会を除いて四人が揃うことは殆どなく、明確に仕事に就いてからは全くなくなった。

そんな中でも六花と志奈の関係は変わらずに続いた。

あれほど六花達を悩ませていた志奈の手伝い癖は高校卒業を機に鳴りを潜め、代わりに六花の持つ妙な真面目さの方が目立つようになる。

大学や会社で少なからず問題を起こしたが、それも年を追うにつれて徐々に薄れていった。

そうやって日々を過ごし。

『俺で良かったら、結婚してくれ。愛してる』

同棲にも慣れ、互いの欠点・嫌なところが明確になった頃、星の輝きさえ霞むイルミネーションの中で、六花は志奈に指輪を差し出した。

『最近、確かに喧嘩もした。何回も。けど、それでも離れたいとは思わなかった。……それだけじゃ駄目か?』

二人が二十五歳で、満月の夜の事。

言わずとも感じているそれを、六花はあえて口にして。

『嬉しい』

最後に、志奈はそう言って受け取った。



 常に隣に想い人がいる生活。それは幸せで、甘く、変えがたい日常。

ーーそうなると、二人は式の日に胸に思い描いていた。

だが実際は苦痛と苦みに汚染された毎日。

新婚気分など最初の一ヵ月だけ。

いつでも逃げられる余裕のあった同棲とは違い、明確で公な契りを交わしてしまった二人は、それまでは許せていた些細な問題も看過できなくなっていた。

足りなくなった調味料の買い出し、あらかじめ買い置きしていた食材の消失、連絡のない帰宅時間の変更。

結婚したことによる安心が生み出した様々な小石も、お互いのいる生活に慣れていった彼らには躓くほど大きな石と変わらない。

気が付けば、互いを避け合う日々ーー倦怠期が訪れていた。

明らかに無くなっていった一緒に過ごす時間と、徐々に減っていく会話。

お互いにあの日の恋心を忘れていく毎日の中で、せめて今日くらいはと互いに時間を作った三度目の結婚記念日。

食事も終わり、ゆっくりと時間を過ごそうと点けたテレビに映し出されたのは、兄に抱き上げられていた赤子。

『そう言えばさ』

『うん?』

『二人欲しいって、言ってたよな』

『……覚えてたんだ』

『新婚旅行の夜だしな。忘れるわけねぇよ』

何を意図して言ったわけでもない六花の言葉。

ほんの些細な、ただの流れで口にしたはずのそれは。

『……志奈、俺はずっと愛してるぞ』

消えかけていた火を焚き付けるのに充分だった。



 六年が過ぎ、一人目の子育てがひと段落着いた頃、二人は約束をした二人目を授かる。

子育てを行いつつの日々は文字通り矢の様に過ぎ去っていき、気が付けば一子目の兄と、二子めの妹が立て続けに家を離れてしまう年齢になっていた。

育児のストレスによる喧嘩。方針の些細な違いによる喧嘩。反抗期に直面した際の喜びと苦労そして、衝突。

度重なる夫婦の難関を、どうにかして乗り越えていった二人が共に目にしたのは、二人の子供それぞれの苦難と、忘れればこぼれてしまう幸せ。

自分達も経験した恋愛と、挙式だった。

『気が付けば歳を取ったな』と。

『いつの間にか大きくなったんだね』と。

無理をしてでも手に入れた家で、がらんとした二つの部屋を見て。

『志奈、お前を好きになって良かった』

『私もだよ、六花』

微かに、けれど確かに失われていく若さを互いの手に感じながら、二人はいつかの日振りに抱きしめ合った。

雪の予報が出ていた、冬の夕暮れ時の事。



_____________________________________



 結婚した瞬間、女は女でなくなるーー。

そう、言われた事があった。

自分磨きに使えたはずの時間が、少しくらいのわがままなら許してくれた相手が、少しずつ変わっていって、いつかそれが[普通なんだ]と思えるようになって。

子供が生まれれば尚更な事らしくて。

気が付けば、そのやり方も忘れてしまっていて。

 「ねぇ、あなた」

カーテンの隙間から覗ける曇り空を見上げながら隣で寝てる愛しい人に話しかけてみる。

何度か、機会はあった。

入学式、卒業式、何の用もなく一緒に遊んだ日。

ふと、夜だと気が付いた瞬間。

挙げだせばキリが無くて、でも、言えたためしは殆どなくて。

いつもいつも、別にどうだっていい話を切り出してしまう。

それは……またきっと、チャンスがあるから。そう思ってしまうから。

次の節目に、次の機会に、また別の日に。

そうやって先延ばしにしてしまって。

結局今日まで言えず仕舞い。

なんて勿体無い。

けれど、もうチャンスはない。

きっとこれで最後。

本当に、終わり。

 「今でも私はあなたを愛しています」

口にしてしまえばなんて事の無い簡単な言葉で……たった、一言。

本当なら息継ぎなんて全然必要のないセリフ。

なのに、どうしてこんなにも口にするのが恥ずかしいのかな。

……ううん、言った今でも恥ずかしい。

胸の中がむずむずして、顔が紅くなってーーまるで、初めて言ってもらえた日のようで。

それなのにあなたは、いつもいつも大切な時に必ず言ってくれて。

 「ねぇ、どう?返事を返す側の気持ちは。私はいつもそうだったんだよ?」

やっとできた仕返しに微笑みが浮かんできて、嗚呼、と気が付く。

 「……きっと、心から好きだったからなんでしょうね」

恥ずかしいのか、照れくさいのか、何も言わないあなたの顔を見て、私も瞳を閉じた。

目が覚めた時、なんて返事をしてくれるかな。

 ーー『愛してる』って、言ってくれたら、いいのに。




_____________________________________




 翌朝。

しん、と静まり返った廊下にインターフォンが鳴る。

朝もまだ早い時間にーーとりわけ寝起きに聞くには少し頭にくる音が。

 「おはようー。寝てるのー?」

年老いた、けれどかつての爛漫さを思い出させる年女性の声が玄関に響く。

だが家の中からの返事はない。

 「時間間違えた?」

再びインターフォンを鳴らしつつ一世代前のスマートフォンを開いて予定の確認を行う女性。

 「あの」

その後ろから、同様に年老いた男性が彼女に声を掛けた。

 「はい?………って、緑!」

 「あぁ、やっぱり美野ちゃんか。久しぶりだね」

 「久しぶり久しぶりー!ってぇ、随分年取ったねぇーー」

 「はは、そっちは変わらず元気そうで」

声の主の老人を一目見るや否やはしゃぎだした老婆ーー美野に苦笑いを浮かべる緑。

 「そりゃ、女はなんて言いっても若さが命だもの。見てくれがババァだからって心が負けてちゃあねぇ。お話にならないのよ」

 「おお、それ最近話題のじゃ……」

 「……あ、気付いちゃった?」

手にしていたスマフォを緑に見せつけ、そのカバーやストラップが最新の物だとアピールする美野。

だが、すぐに機種の古さを見抜かれ、緑に笑われてしまった。

 「ちょっと、入れ歯取れても知らないよ?」

 「なに、まだまだ現役の永久歯。キャラメルだって噛めるぞ」

言い終えると同時に噛みしめ、真っ白い歯を見せつける緑。

一点のくすみもない眩いばかりのホワイトに美野は目を丸くする。

 「え、ホント?私はちょっと厳しいのよね……それに甘いのももう気持ち悪くなっちゃって……」

 「なんだ、ババァじゃないか」

 「うるさいジジイ」

久しぶりの軽口の言い合いにからからと笑い合う二人。

彼女達がここにーー六花と志奈の家に来たのは還暦の際に連絡を取り合ったため。

学生の時に作ったメッセージグループを活用して組まれた予定は、それから五年が過ぎた今日、果たされることとなる。

最後に四人が顔を合わせたのが四十歳の時に開かれた同窓会だったので実に二十五年ぶりの再会だった。

 「……それにしても」

 「起きないね、二人とも。六花はともかく、志奈は起きれそうなもんだけど……」

ひとしきり笑い終え、家の扉に目を向ける二人。

予定を確認しても日付と時間に間違いはなく、緑が訪れたのでそもそもの記入間違いでもない。

 「どうしようか、美野ちゃん」

 「んー、扉の暗証番号は知ってるから入れるけど……」

インターフォン用のボタンの下に設置されている電子パネルを見つめながら眉を潜ませる美野。

 「……よし、開けちゃおうか。約束の時間に来ても起きてないのが悪い!」

そうして考えを決めた彼女はスマフォのメモ帳とにらめっこをしながら暗証番号を打ち込んでいった。

 「…まぁ、仕方ないか。予報だと雪だとも言ってたしね」

 「そーいうこと。……っと。開いた」

小さな電子音が鳴り、開錠された音を確認した美野は家の扉を開ける。

 「おじゃましまー」

 「お邪魔します」

薄暗い廊下に虚しく消えていく二人の声。

 「志奈ー?寝てるのーー??」

 「おーい六花ぁー。俺達だぞーー」

再度の呼びかけに対し、けれど返事はない。

 「……どうしたのかな」

物寂しく吹き抜けていく隙間風のような不安感に服の襟を寄せ合わせる美野。

 「…………まさか、な」

意識せずに靴を脱いだ緑は湧き上がる衝動のままに上がり込み、廊下を進んでいく。

 「…あ。あぁ、そっか……」

彼の行動と剣幕に玄関で靴を脱ぐのを躊躇っていた美野が、ふと、言葉を落とした。

 「美野、行こう。寝室は奥だ」

 「………うん、そうだね」

 「大丈夫だ。旦那じゃないけど、俺がいる」

未だ半開きだった玄関からおもむろに風が吹き込んでくる。

その風は不安と覚悟の入り混じる二人を身震いさせるほどに寒く、凍てつき。

 「………ありがとう。すぐ、行くから」

廊下に、真っ白なカーネイションの花弁にも似た雪が舞い込んだ。



気温に切なさを覚える、冬のある日の事だった。





end.

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結んだ光、届いた果て カピバラ番長 @kapibaraBantyou

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