納涼祭

浅雪 ささめ

納涼祭

 夏の残り香がたばこの煙と混ざりあい、秋の空気を作っていく。

 もうすぐ八月が終わろうとしていた。

 ミンミンゼミの鳴き声が、ツクツクボウシに変わる夜。少し冷たい潮風が秋の音を運んでくる。


 ベランダの柵に凭れながら煙草を吸っていると、男女が手をつないで楽しそうに歩いているのが目に映った。

 二人が向かう先に視線を流すと、いつもは船の明かりだけの湖畔に賑やかな光。夏祭り。いや、納涼祭かしら。そういえば数日前捨てたチラシに、そんなことが書いてあった気がする。


 ふうと息を吐き、さっきの男女に目を戻すと、二人とも浴衣を着ているのが見えた。若いな、なんて思いながらまた一つ息を吐く。

 ベランダで煙草を吸う人を蛍族なんていうらしいけれど、私に蛍は似合わないかな。ああ。きっと。私にはカナブンのような、そんな虫が似合っている。


「寒いぞ」

 部屋の中から夫の心配するような声が聞こえてくるので、私は煙草の火を消した。

「もう入るよ」

 そう答えてチラと灯りの向こうをもう一度だけ見た後、網戸を開けて部屋の中に戻る。

 ベランダのカナブンは輝きを失ったまま姿を消した。


 浴衣か。そう言えば私も持っていたな。長い間実家にしまっている、昔に数回着ただけの浴衣。祭りに行きたいとかそういう訳ではないけれど、思い出の引き出しから出してみたくなった。


「先に寝てていいよ」

「どっか出かけるのか?」

 車の鍵を取り出す私に、左目だけを開けた夫が声を掛ける。どこか沈んだ声だった。

「いや、浴衣をね。祭りに行く子たちを見ていたら、急に着てみたくなっちゃって。だからちょっと実家まで」

「そうか。そういや今日だったな」

 布団の中で寝返りを打つ夫が、わざとらしくそう言う。


 行きたい? と聞くとぶっきらぼうに、いやいい。と返ってくるので、行ってくるとだけ残して玄関を出た。

 昨日夫がくしゃくしゃになったチラシを見ていたのを、私は知っている。


 車に乗り込み、エンジンをゆっくりと掛ける。ゴロゴロとタイヤを転がしながら、浴衣に思いを馳せ、あの人に思いを寄せた。


 三十年ほど前。私がまだ中学生だったとき。早くに夫、私にとっての父を亡くした母は、女手一つで私を育ててくれている。だから私も母の期待に少しでも応えようと、我慢するときもできるだけ笑っていようとした。

 母にやめるように注意される頃には、もうすっかりと染みついてしまっていた。習慣というのは、気をつけていても中々拭えないものだ。


 休みの日には母に連れられて、町の着付け屋に何度も足を運んだ。そこの店員である青年は、母と馴染み深いようすで、いつも楽しそうに話していたのを覚えている。母によると、とても対応が丁寧で客をよく見ていることで有名な人だそうだ。

 それは大変に遠慮深い人であったろうと思う。店員だからと言われればそこでおしまいだが、私にはより一層そう感じられた。


 私には少し難しい話もたまに聞こえてくる。だからか、いつもどこか蚊帳の外に感じながらも、店内をうろうろして売られている浴衣を見ていることが多かった。ババくさいものから、最近の流行だというものまで。多種多様な浴衣は見ていて飽きなかった。


 どれも中学生のお小遣いでは、とてもじゃないけど手が届くものではない。だから、気に入った浴衣を見つめているときに店員に見られるのは、ちょっと恥ずかしかった。


 たまに、店に来るといつもいる男の子と話もした。

 そんなに大きな店じゃないし、飽きないと言ってもすぐに時間を持て余してしまうから。そんな私を察してか、彼から話しかけられたのだった。彼は青年の親戚で、右目が見えないらしかった。彼とは色んなことを話した。お互いの学校のことや特技のこと。彼は木登りが得意だと、自慢げに笑う。

 少ない時間だったけれど、彼と話すのはとても楽しかった。


 私は特に浅縹色の浴衣が好きだった。


 高校二年。夏休みに入ったばかりの、うだるような暑さの日。私は高一の時からの彼氏と夏祭りに行くことになった。その時に私の浴衣姿が見たいと言われ、いつか母に連れられて来た、この店を思い出したのだ。


「やあ、いらっしゃい。久しぶりだね」

 母と来たときと同じ青年が、店員として出迎えてくれる。

あの男の子は今日はいなかった。


「こんにちは。浴衣を買いに来たの」

 それ以外にないだろうけどと、一人心の中で笑う。

「そうですか」

 明日はお祭りですからね。青年はそう付け足してほほえんだ。


「そう言えば」

 私は気づくと口に出していた。

「あの男の子は今日はいないんですか?」

「祐一のことかい? 今は買い出しに行ってるんだ。それまで待つかい? お茶くらいなら出せるけど」

「いえ、大丈夫です」

 私がそう答えると青年はでも、と付け足す。

「祐一も今日は祭りに行くらしいから、もしかしたら会えるかもね」

 誰と行くのだろう。そこだけが少し引っかかった。女心にもあるのだ。男心に秋の空があってもおかしくはない。最初からそんな風には思われていなかった可能性の方が高いけれど。


「そうですか。ありがとうございます」

 私はとりあえずお礼の言葉を言った。


「じゃあちょっと待っててね」

 そう言い残すと青年は店の奥に行ってしまった。どうしたのだろう。トイレだろうか。手持ち無沙汰になった私は、子供の頃と同じように店内を見回して、青年の戻ってくるのを待った。


 しばらくした後、青年は一つの浴衣を持って戻ってきた。

「これなんか、どうですか?」

 私はその浴衣を見てとても喜んで、同時に驚いた。

 青年が持ってきてくれたのは、浅縹色の生地に、朱色の鬼灯があしらわれた浴衣。

 それは小さい頃の私がいつも気になっていた、いつか着てみたいと思っていた浴衣だった。あの時にはまだお小遣いもこれを買うには少なかったし、母に頼むのも何か違う気がして、結局買わず終いになっていたのだった。


「ありがとうございます。とてもいいですね。素敵な柄だと思います」

「そうか。君の好みが変わってなくてよかったよ。あ、でも、ちょっと大きすぎたかな。採寸出来る人が今いなくてね」

 青年は困ったように頬をかく。


「大丈夫ですよ。きっとすぐに丁度よくなりますから」

「そうかい。でも、大きすぎたらまたウチに来てね」

 私は分かりましたと、頷く。


 青年が自分の好みの浴衣を知ってくれていたのは、なんだかとても嬉しかった。

 着ていきますか? と聞かれたので、はいと答えて試着室へ向かった。

 着方は母に教わっていたので、手間取ることもなくすんなりと身に馴染んだ。


 ちょっと丈が長いかもしれない。そう思ったけれど、おはしょりすれば平気そうだった。


 試着室から出ると青年が、

「お母さんに似て、とてもお似合いですよ」

 と、褒めてくれた。母のことも褒められた気がして、また少し嬉しくなった。


 その日は大きめの浴衣を着たまま、一緒に買った下駄を鳴らして家まで歩いた。

 浴衣姿を彼に見せるのが、勿体ないとさえ思えた。


 次の日の夕方。時間ぴったりに来た彼に、こういう時の決まり文句を返し、柔らかく手を握る。

 人も多いし、混んでるからね。そう彼は言って、私の手を強めにキュッと握り返した。


「あれやろうよ、金魚すくい」

 彼が指さしてそう言うので、私はおじさんに百円玉を二枚手渡した。

 おじさんからポイとお椀を受け取ると、お盆の中の一匹に狙いを定める。

 えいっ。

 私のポイは破れてしまったが、彼のお椀には、すでに二、三匹の金魚が泳いでいた。

 おじさんからおまけだよと一匹もらう。そんな様子を見て彼が笑ってくるものだから、私も笑い返してみた。うまく笑えているだろうか。笑顔は女の特権なんて誰かが言っていたけれど、何事にも例外はつきものだ。


 その後も射的やスマートボールをやって、手をベトベトにしながらリンゴ飴を食べた。チラチラと自然に辺りを見回しながら探すも、祐一君らしき人影はなかった。


「もうすぐ花火かな」

 と、彼は筋雲のかかる空を見上げる。

「うーん、まだ一時間くらいあるよ」

 ケータイで確認するとまだ時間はありそうだった。

「それまでどうする?」

「じゃあ、あれ食べようよ。かき氷。海じゃないけどさ。祭りって感じがするだろ?」

 そうだね。と返し、

「私、レモン」

 とリクエスト。

「分かった。じゃあちょっと買ってくるわ。そこで待ってて」


 そうやって小走りで駆けていく彼は、きっといい人なのだろう。私のことを想ってくれて、私のことを考えて行動してくれる。クラスの皆が「羨ましい」と言いたくなるような、そんな彼氏として理想的な部分を多く持っている。


 一応彼の姿が見えなくなるまで見送ると、ケータイを開きメールを確認した。母からのメールが一件だけ来ている。急ぎの用事なら電話掛かってくるでしょと、そのまま手提げにしまう。

 顔を上げると、彼がかき氷を二つ抱えながらこっちに来るのが見えた。

「早いね」

「そうか? あんまり混んでなかったからな」

「そかそか。花火の場所取りに行った人が多いからかもね」

「そうかも。はい、メロン味」

 彼がニッと得意げに笑うので、訂正するのも悪いなと思って、ありがとうと、笑いながら彼の手から緑色のかき氷を受け取る。


「花火楽しみだな」

「そうだね」

「ここの花火凄いらしいよ」

「家から見たことはあるよ。結構凄かった」

「へえ。俺は今日が初めて」

 そんな会話をしながらかき氷を口に頬張る。思わず甘さに顔をしかめてしまう。

 冷たさが頭にキンときておかしかった。


 結局その後小雨が降って、強くなりそうだからと花火が中止になってしまった。その予想の通り、雨は段々と強くなり雷も鳴ってきた。中々やみそうにはなかった。


 雨なら仕方ないなとぼやく彼の、ガッカリとした表情を見送り、金魚一匹をひっさげて私も帰路につこうとした。

 その時、目の前に見覚えのある背中を見つけた。この雨の中だし最後に見たのはずっと前のことだったから、見間違いかもしれない。それでも、私は少し歩く足を速めた。


「あの、」

 声を掛けようとして気づいた。目の前のこの男はあの時の男の子、祐一君ではなかった。しかし、話しかけたまま素通りするわけにもいかない。


「どうかしましたか?」

「い、いえ。人違いでした」

「そうかい。見つかるといいね」


 その日、祐一君とはついに会うことはなかった。着付け屋に行けば会えるだろう。しかし、びしょびしょのまま会うのも申し訳なく感じる。会いたくないわけではない。むしろその逆。だけど私は、実際嫌がられるだろうなんて、誰にでもなく言い訳を考えるのだった。


 二十歳。私は成人式のためにこの浴衣を引っ張り出した。何もこんな暑い時期にやらなくても良いのに。

 でも、折角のハレの日。やっぱり日本らしい格好の方がいいよね。式典向きではないかもだけど、振袖を着て蒸れるよりはマシ。

 

 浴衣姿を見た母に「彼氏とは最近どうなの?」と聞かれたけれど、うーん。と漠たる返事をして頬を掻く。

 実を言うとあの祭りの後、もう彼とは連絡を絶っていたのだ。別にメロンとレモンを聞き間違えたからなんてことではない。ただ、何となく。そう、何となくなのだ。恋愛ってそういうものだと思う。好きに理由もないし、別れに理由もいらない。

 それに、祐一君の顔を浮かべながらデートなんて、向こうもまっぴらごめんだろうし。


 そのことを母は知らないので、彼のことを聞いてくるのは無理もなかった。私の煮え切らない返事に母は、まあいいわとそれ以上言及することはしなかった。


 会場に着くとあいにくの雨。一生に一度の晴れ舞台だというのに、この運のなさは何なのだろうか。つくづく嫌になるのに自然と顔は笑ってしまう。

 この浴衣は呪われているのだろうかとさえ感じた。単に私が雨女なだけなのかもしれないけれど、そう思わざるをえなかった。

 勿論、祐一君は見当たらなかった。


 それ以来、浴衣は実家にしまっておいたままなのだった。まだ数回しか着ていないし、勿体ないという思いもあり、中々捨てられなかったのだ。それに、祐一さんにまだ浴衣姿を一度も見せてないし。


 実家について車を停める。ただいまと、玄関をくぐり、そのまま二階へと駆け上がる。

 自室に入ると浴衣を取り出し、羽織るように着てみた。姿鏡に映るそれは記憶の中よりは幾分と明るく、やわらかかった。ときがたったからか、鬼灯も落ち着いた深い色をしている。

 記憶の中ではもっと、暗く、じめっとしたものだったのに、いざ見てみると案外とあたたかみがあった。


 明日も続くであろう納涼祭に、これを着て一緒に行こうと思うとたのしかった。

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