第五話 出られない!

 エレベーターの操作盤を見て、絶句した。

 階数を指定するボタンが、全て「4」になっているのだ。


「なんだこれ……」


 寿樹コトホギにホテルに運んでもらってから、ここのエレベーターを使っていないから、元はどんな操作盤だったのか分からない。だからといって、遊園地のアトラクションでもないのに、これは有り得ないだろう。


 嫌な予感がする。一旦エレベーターから降りよう。

 そう思った矢先、エレベーターのドアが独りでに閉じた。


「えっちょっ!?」


 慌ててドアを開くボタンを押したが、ドアは開かなかった。

 開くボタンを何度も押してみたが、ドアはピクリとも動かなかった。


「嘘だろ……!」


 悪態をつきながら、非常用ボタンを押した。


 ガ、ガガ、ピーガガガガ「はい、こち……ザー……なさいまガガザ……ピガー……


 非常用ボタンの上にあるスピーカーから、大音量のノイズがエレベーター内に鳴り響いた。


「ッ……」


 恐怖を覚え、耳を塞ぐことも忘れて、限界まで後退った。

 少しの間ノイズが鳴り続け、やがてピタリと止んだ。

 エレベーター内が静かになって、初めて自分の心臓の鼓動がこれまでの人生で一番と言っても過言でない程激しくなっていることを自覚した。


「……落ち着け、落ち着け……」


 口に出して唱えてみても、ゆっくり呼吸することで鼓動を遅くしようと試みても、中々元に戻らなかった。


「…………あぁ」


 鼓動の速さがだいぶマシになったところで、リュックサックから飲みかけのお茶のペットボトルを取り出し、二口、三口と飲んだ。このまま座り込んでしまいたいところだが、どうにか自分を踏みとどまらせる。二度と立てなくなってしまいそうだから。


 リュックサックからスマートフォンを取り出し、電源を入れる。電波のアイコンは全部灰色になっていて、完全に沈黙している。念のためブラウザアプリを起動してみたが、インターネットには接続出来なかった。


「となると……」


 最後に残った手段は、『階数ボタンを全部押す』、くらいだろうか。

 でもこの場合、どうなるんだ?


「嫌だなあ……」


 なんというか、誘導されている感じがする。

 かといって、他に自分で出来ることはなく。


「…………」


 私は、半ば仕方なく、階数のボタンを全て押した。


 すると、エレベーターが動き出した。


「おお……えっ……」


 動きはしたのだが。

 これは────、上と下、どっちに動いているんだ?

 エレベーターが上へ向かう時に感じる圧迫感でも、下へ向かう時の浮遊感でもない。どちらかというと、それらの中間のような微妙な気持ち悪さがある。


 慣れない不快感に困惑している内に、

 ドアが開いたので、また閉じ込められない内に脱出する。

 エレベーター上部の階数表記を確認する止まったのは、四階。これも、上も下も全て四階なので、上ったのか下ったのか、それともそのままなのかは、判らない。


 エレベーターが駄目なら、非常階段を使おう。

 そう思い、エレベーターの側にある非常階段を使い、考えの甘さを痛感した。

 上っても下っても、辿り着くのは四階。エレベーターと何も変わらなかった。


 フロアの反対側にある非常階段にも向かったが、結果は変わらなかった。


「こっちもか……。……あ」


 ふと、『階段の途中で見上げるか見下ろすかしたら、そこにはもう何人も自分がいるんじゃないか』という、恐ろしい思い付きをしてしまい、踊り場で歩みを止めてしまった。

 仮に、いるとして、だ。それがドッペルゲンガーのような『見たら死ぬ』ような存在だったとしたら。


──いや、見るのが怖いなら見なければいいし。


 言い聞かせようとしてはみたが、一度気になってしまった以上、四階ここにいる限り、いや脱出出来たとしても、その『気になる』は付きまとい続けるだろう。

 それに、階段を上り下りしている時、何かの拍子で目に入ってしまったら。

 ならば、直に確認してしまった方が驚きや恐怖は少ないのではないのだろうか。


「……ええい、ままよ……!」


 意を決して、手すりに体重を預けて、上を見る。

 別の自分はおろか、他に誰もいなかった。

 下を見ても、同じように誰もいない。


 なあんだ、という拍子抜けと、良くない事が起きなくて良かった、という安堵を覚え、顔を戻して、


「────」


 視界の端────階段を上った、四階の出入り口に、何かがいる事に気付いた。

 寿樹ではないと、直感で悟った。服装が体型が、ではなく、纏っている気配が違う。油粘土のように重く、水気を含んだヘドロのようにとしている。


 見てはいけない、見たとさとられてはいけないと感じて。

 視界から外すそうすると決めるよりも早く、顔がそっちの方へ向いてしまった。


 得体の知れない何かは、輪郭も色味もはっきりとしない、もやにも固体にも見えるものだった。


 その何かと、目が合って──絶対に違うのだが、どう表現すればいいか解らない。経験の範囲でこの表現が一番近い──、相手が、と笑った気がした。


 マズイ、と思った瞬間、何かは階段を滑るように降りて、その途中で止まった。

 それが纏う気配にされて、思わず後退る。


 目の前に迫った何かが、ぐちゃり、と形を歪める。

 出来上がった化け物は、何らかのモチーフを元に人間をカリカチュアライズしたかのような異形の姿。


 顔の三割──目の周りが真っ黒な影になっていて見えない。口はだらしなく開いていて、黄色く汚れた舌が辛うじてはみ出さずに納まっている。

 両腕は枯れ木のような色合いで、枯れ枝のように細い。

 胸は肋骨が飛び出して捲れ返っていて、縁が化膿した、下端が小腸に達する大きなうろが開いていた。

 両脚は太く、筋肉が盛り上がっている。


 どうする、逃げるか?


 悩みかけた瞬間、化け物の胸部の洞から『真っ黒い塊』が伸びてきた。


「うわ⁉」


 尻餅を突きながらも上半身を限界まで左に傾け、寸でのところで『真っ黒い塊』を回避した。


──あれに触っちゃ駄目だ!


 理由も根拠もないが、私の何かが警鐘を発している。Jアラートよりも不気味かつ不快な感覚で。


 化け物が、階段の残りを降りて来る。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ。


「ふっ、ふっ! うぅっあ──ッ‼」


 上手く動かない身体を、浅く早くなる呼吸と上半身を揺らした反動で無理矢理に立ち上がらせ、転がるように階段を駆け下りる。

 階段は無限ループ状態のままだった。構わない。とにかく非常階段から出たい。


 廊下に飛び込む刹那、下り階段の踊り場を見る。いる。こっちを見た。目が合った。

 隠れなきゃ。どこへ⁉

 距離も稼ぎたい。一番遠くて、すぐに逃げられる場所──!


 私は、エレベーターへ逃げ込んで、化け物が追ってくるのを見ながら、ドアを閉めるボタンを叩き割る勢いで押しまくって、


「…………」


 ドアが閉じた瞬間、ようやく己の間違いに気付いた。


 エレベーターが動いても、上っても下っても、辿り着くのは同じ階で。

 非常階段もエレベーターに同じで。

 エレベーターの外には、化け物がいて。


「これ、出られないじゃん……」


 呆れと悲嘆と絶望が、全身を支配した。

 エレベーターの隅で、壁にもたれかかって、ズルズルと座り込む。


 余りにもあんまりなミスだ。ここまでギリギリで生きて来て、一番の大ポカだ。

 胸が張り裂けそうなのに、涙すら出ない。もう終わりだ。


「寿樹ごめん、駄目だった……やっぱりは駄目なんだ……」


 自己否定に走る自分が憎い。そんな事しても目の前の絶望現実は解決しないのに。


 エレベーターの外、目の前、上、下から、何か大きな音が聞こえる。あの化け物が僕を探している音なのだろう。

 ここに逃げ込んだのが見えなかったのかそうじゃないのかは分からないが、その内ドアをこじ開けられるのだろう。そうなったら──


 ふいに、外からの音が聞こえなくなって。

 ドアがひとりでに開いた。


「綾音、生きてる⁉」


 そこに立っていたのは、決して化け物なんかじゃなかった。

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