第四話 閉じられた空間

 ドンドンドン、ドンドンドンドン。


「は──」


 ドアの向こうにいる誰かに返事をしようとして、


「シッ!」


 寿樹コトホギに止められた。


「寿樹?」

「静かに。外に聞かれない声で喋って。このままやり過ごす」


 寿樹は小声で言って、音を立てないように床に座った。私もそれに倣った。

 ノックの音が十回程部屋に響き、


「……すみませぇん、お客様、いますよね?」


 声がドアの向こうから聞こえてきた。


「ッ──⁉」


 それを聞いて、私は言い様のない不安を覚えた。


 男でも女でもなく、かといって中性的でもない声。

 文章を読み上げる音声合成ソフトという風ではない。全然違う。もっと、何というかこう、実体があるというか、そんな感じがする。かといって、生物が発する声でも、非生物が鳴らす音でもない。


 自分で整理しても、よく分からない。なんだ、これは?


「すみませェん、いますヨねぇ、開けてください、開けてください」


 ドアをノックする音が激しくなっていく。このまま叩き割られるのではないかと思う程に。

 生唾を飲み込んで、寿樹を見る。落ち着き払った様子で、真っ直ぐドアを見つめていた。


 暫くして、もはや殴りつけるような音になっていたノックが、ぴたりと鳴り止んで、


「ねえ、ちょっと! 開けてくれない⁉」


 女性の焦っている声と共に、ノックが再開された。


「なっ……⁉」


 女性の声には聞き覚えがあった。寿樹の母の声だ。


 ふいに、右腕の袖が引っ張られた。見ると、寿樹が袖を引っ張っていて、私の顔を見ていた。無言で首を振った。


「……違う?」


 殆ど呼気に等しい小声で聞くと、寿樹は頷いた。


 ノックの合間に寿樹の母親の声が聞こえる。最後の方には情に訴えるような事も言ったが、寿樹が動く事はなかった。


 やがて、ノックも寿樹の母親の声も聞こえなくなり、部屋に静寂が戻った。


「…………行ったな……」


 深く息を吐きながら、寿樹が呟いた。


「綾音、声の大きさ、少しだけ上げてもいいよ」

「……あれは、何だったの?」

「分からない。人間にとって良くない何かだった事なのは確か」

「やっつけたり、出来なかったのか?」


 寿樹は、残念そうに首を振った。


「やらない方が良かったんだよ。あっちの規模が見えてるならやれるかどうか判別つくんだけど、壁一枚挟むだけで分からなくなっちゃうんだ。たおす力はともかく、る力が足りないんだ、僕は」


 力もらう時に追加で注文すれば良かった、とぼやいた綾音に、続けて質問する。


「これからどうするんだ?」

「そうだな、状況証拠だけの推測だけど、これは〝合わせ鏡〟が僕たちを排除するために起こした現象だと思う。そうじゃなかったとしても、ここでじっとしているのは危険だと思う。さっきみたいな『ドアを開けさせる』以外の方法で、部屋に入れるようにしてくるかもしれない」


 寿樹はゆっくりと立ち上がり、ベッドの左側に置いてある二つのリュックの内、片方──私が普段使っているリュックサックの予備だ──を手に取って背負った。


「だから、外がどうなっているのか、避難とか状況の解決が出来るかを見てくる」

「それなら私も──」

「いや、綾音はここで待ってて。私が斃せないものがいたら、守りながら逃げるのは難しいかもしれない。だから、戻ってくるまでじっとしてて」

「でも、ここにいても危ないんだろ?」


 寿樹はそれに答えず、私の前まで歩いて、しゃがんで目線を合せてきた。


「だったら──」


 そう言いかけた瞬間、突然、寿樹が私の両肩を掴んだ。


「こ、寿樹?」


 寿樹は私の顔を見て、俯いた。


「……うん、そう。さっき、僕もそう言った」

「お、おう」

「でも、守れなかったって結果は……もう、嫌なんだ」

「…………」


 肩を掴む力が強くなっていく。


──そうか、寿樹は、腐り落ちた私の死体を見て、〝蒔き直し〟してここにいるんだ。それは、きっと……。

 

「でも、それならやっぱり一緒にいた方がいいんじゃないか? だって、私逃げたりする判断遅いし、それに、離れてたら守れるものも守れない、だろうし……」


 寿樹は顔を上げて、少しの間無言になって、


「そう、ね……分かった。でも、やっぱり一緒に行くのも危ないよ。だから、私が出て行ってから、五分経っても戻ってこなかったら、自分一人でも逃げて。そうじゃなくても、少しでも変だと感じたら逃げて」

「…………。分かった」

「ありがとう」


 寿樹が両手で私の右手を握った。


「……冷たい。綾音、の手、あったかい?」

「……うん」

「そっか。良かった」


 寿樹はどこか安心したかのように呟き、手を離して立ち上がり、机の前に向かい、ルームキーを取った。


「綾音。タイマー、OK?」


 寿樹は振り向いて私を見た。

 私は、アプリを起動し、タイマーをセットしたスマートフォンの画面を見せた。


「OK」

「よし──行ってくる」


 寿樹はスポーツドリンクを一口飲み、ドアを小さく開けた。その隙間から外に出て、素早く閉めた。




§




 そうして、四分が経過した。

「遅いな……どうしたんだ、寿樹……?」


 今の所、寿樹が戻ってくる気配はない。

 幸いなことに、再びドアがノックされる事も、部屋の中に異変が起きる事も、今のところない。


 まさか寿樹の身に何かあったんじゃ、と考え始めた矢先に、五分経過したことを伝えるアラームがなった。


「うおっ……」


 慌ててアラームを止め、アプリを終了させる。


「…………」


 深呼吸して、立ち上がる。

 寿樹は戻ってこなかった。五分経ったから、一人で逃げないといけない。

 行き違いがあった場合を考えて、『五分経過したので先に逃げます』、と書き置きを残しておこう。


 スマートフォンをリュックサックにしまいながら、軽くリュックサックの中身を確認する。財布、腕時計、おくすり手帳、小型の懐中電灯一つ、ハンカチ三枚、ポケットティッシュ一ダース、レジ袋二枚、新品のお茶が一本、エナジーバーが三本。


 腕時計を左腕に付け、飲みかけのお茶を一口飲んで、リュックサックに入れた。


「よし、行くぞ」


 自分に言い聞かせて、リュックサックを背負って、避難経路図──この部屋は四階のようだ──を確認して、玄関に向かう。ドアノブに手を掛け、電源に挿してあるカードキーに触れ、外の気配を探る。


「…………」


 何かがいるかどうかすら判らなかった。

 それでも、一か八か、外に出るしかない。

 私はカードキーを抜き取ると、急いで部屋の外に出た。


 廊下の明かりは点いていたが、夜のように薄暗かった。リュックサックから懐中電灯を取り出し、電源を入れる。影になっている場所に何かいたら怖いと思ったからだ。


 どこから逃げよう。二つあるエレベーターか、離れた位置に二ヶ所ある非常階段か。どちらにも怪談はつきものだ。何があってもおかしくない。

 考えた末に、先にエレベーターへ向かって、


「え……」


 中に入って操作盤を見て、絶句した。

 何階に止まるか指定するボタンが、全て「4」と表記されていたからだった。

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