第四話 そんな風になりたくない
私こと
正社員で……もっというなら、
§
〝合わせ鏡〟が贈られた次の日。アルバイトのシフトが終わる頃。
「えっと……時間になったので、お先に失礼します」
「あ、はーい。お疲れ様です」
店内を回って先輩全員に挨拶し、それから店長──職場の人、皆名前がまだ曖昧なんです。そろそろ一ヶ月経過しそうなのに。お願いですからこの事には気付かないでください──に挨拶をして、退勤をしに事務所に向かおうとする。
「じゃあ、私も上がりますね」
そういえば、店長は私と同じ時間にシフト入ったんだったか。
「あ、はい。お疲れ様です」
咄嗟に返事をして、先に事務所に向かう。
聞こえないように、全身の力を抜くように──全くもって抜けないのだが──息を吐く。
パソコンを操作して退勤し、エプロンの結び目を
ハンガーラックから自分のジャンパーをかけているハンガーを取ったところで、店長が事務所に入ってきた。
「お疲れ様でーす」
「あ、はい」
「逆井君、仕事慣れた?」
「え、あぁ……」
慣れてないです。レジで人と向き合うと緊張します、というか
レジでなくても、これはあるかあれはないかと聞かれるのも怖いです。品物、何があるか覚えきれてないです。
……言えるわけがない。
「……えっと、少しだけですけど……はい……」
「そう? レジは慣れた?」
「あー……多少は。
店長と会話しながら、ジャンパーをハンガーから外して羽織り、代わりにエプロンを結び付けた。
「そう。そろそろ一ヶ月経つから、ちゃんと、色々と覚えてね」
「が、頑張ります……」
「うん」
……ちょっとこれ以上は厳しい。退散しよう。
エプロンを結び付けたハンガーをハンガーラックに戻した。ロッカーを開けて、麦茶のペットボトルをリュックサックに突っ込もうとして、
「ん?」
何か、入れた覚えのない物の感触が指から伝わった。
リュックサックを漁って出てきたのは、
「え……」
出てきたのは、〝合わせ鏡〟だった。
どうして? 今朝、出かける前には眠気がなくなっていた。寝ぼけて……ということはない、はずだ。
「どうかした?」
「え、いや、何でもないです」
そう言いながら、咄嗟に〝合わせ鏡〟を右ポケットに突っ込んだ。
「大丈夫?」
「はい。えっと……じゃあ、お先に失礼します」
そう言いながら、リュックサックを背負った。
「はーい、お疲れ様でしたー」
「はい……」
何も起きないことを願いながら、事務所から店内に出て、スタッフ用通路を通り、外へ出た。
見上げると、青空が見えた。どうやら晴れているらしく明るいのだが、青みのある影が道路を覆っていた。原理は全く知らないのだが、日の光が建物で遮られているから、なのだろうか。
「はぁ……」
すっかり冬の冷たさになった外気を体内に取り込み、車道を横切って向かいの歩道へ急ぐ。幸い、車両は来なかった。
今日は何も失敗がなくて良かった。前回は返品の仕方を思いっきり間違えてしまい、レジを詰まらせてしまったから。しばらく冷や汗が止まらなかったから。
「……あとどれだけ繰り返せばいいんだろう」
今日か明日か、もう少しだけ先か。そろそろ給料が出るはずだ。引っ越し先どうするかとか、引っ越しの費用はいくらになるかとか、バイトの時の交通費とか食費とか通信費とか、とにかく沢山考えないといけない。やり方分からないけど、誰も教えてくれないけど、やるしかない。やるしか……。
考えが堂々巡りを始めようとするのと同時に、バスのロータリーが近くなり、人の数が増えてきた。
「……
一度立ち止まって、不安に思っていることを横に置く。
こういうの、もう少し余裕がある時に考えよう。余裕がある時は来るのかと言うと、分からないけど……。
「そうだ、なんか食べて帰ろう……」
ふと、この間の
美味しいものを食べても気分が上向きにならないのだが、食べないよりは僅かにマシなので、間食を摂ることにして歩き始めた。
さて、食べると決めたはいいが、何にしようか。コンビニのおにぎりにでもするか、
「うわ!?」
私と反対方向に向かう誰かに、思い切り左肩をぶつけられた。倒れそうになって壁に手を突く。もう少しで頭を打ちそうだった。
ぶつかった誰かは、振り向きもせず足早に去ろうとしていた。
謝れとまでは言わないけど、何かないのか? 気を付けろ、とか──
「────」
ふと、何かで──SNSだったか、こんな
こういう、他人に直接危害を与える人間は、得てして弱そうな、反撃してこなさそうな人を選んでる、といった感じだった。
弱そうに見えたのか?
だから、攻撃してきた?
混雑しているわけでもないのに、というか道も広いから、いくらでも避けられるわけで。
なんで、そんなことするの?
「そんなかた、なくなってしまえばいいのに」
気付いた時には、口から言葉が
次の瞬間には、ロータリーから飛び込んできたバスが目の前を横切り、肩をぶつけてきた他人に突っ込んでいた。
「…………へ?」
あまりにも突然すぎて、一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。
今まで他人事のようにしていた誰かの悲鳴が聞こえてきて、やっと目の前で交通事故が発生した事を理解した。
ふと、右手の中に手のひらとは別の感触があることを知覚した。
見ると、右手はズボンのポケットを握りしめていた。
ポケットの中にある、〝合わせ鏡〟ごと。
まさかそんな。
バスの先頭──肩をぶつけてきた他人と壁とを挟んだ箇所を見る。見ない方がいいと、分かっているはずなのに。
「……!」
遠目から見えたのは、ひしゃげたバスの部品、ひび割れて崩れた壁と、助けを求めるように飛び出た右腕だった。
私がぶつけられた箇所は、右肩。
向こうから歩いてきた人に右側からぶつけられたのだから、ぶつけてきた人が使った肩は……。
「────」
私は、とても恐ろしくなって。
周囲のざわめきに飛び込むように、その場から逃げることしか出来なかった。
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