私が作者に伺ったところ、「あくまでも作中のシイチさんはそういったキャラクターでありまして、実際の詩一さんとはなんの関係もありません。ほら、実際カタカナでしょう? 詩一さんは漢字じゃないですか」という回答があり、作中のシイチはイコールで詩一ではなく、つまり私でもないということなのだそうだ。
しかしさっそくプロローグでさっそく
(✿╹◡╹)🗡️🩸😊だいに
だいさんの
詩一が現れる!
と盛大に表記揺れをやらかしてしまっている。これに関しては私も忠告したが、訂正されていないと言うことはつまり『そういうこと』なのだろう。
さて、それなら『そういうこと』として、いろいろ考えて行こうではないか。
シイチは詩一でありつまり私であるのか。作者は違うと言っているのだから、否定型を考察すればいい。
ならば、シイチが詩一ではないときに私はシイチではないという証明ができるのかを考えることが手っ取り早い。
しかしながら、そもそもTwitterでいつもうんたらかんたら言っている私が、ただの概念体でないことの証明がまずできない。ここが証明できない以上前に進むことができない。
だが、この世界が誰かの夢の中でないことの証明もできないし、世界が五分前に創られたものでないことの証明もできないし、神の不在証明もできない。
また、哲学的ゾンビと人間の違いを外面的に判断することも不可能であるし、見ることも触れることもできないダークマターの本質を見抜くことも不可能である。
埒が明かない。そんな中で私は古代ギリシャの哲学者プルタルコスが投げかけた疑問『テセウスの船』に、解決の糸口を求めた。
テセウスの船の簡単な概要を説明しよう。
・テセウスの船は木でできている。
・オールが30本ある。
・30本のオールがすべて朽ちてしまい、新しものと交換した。
・さて、この修理が加わった船は、テセウスの船と言えるのか?
哲学者たちが出した答えの内に「テセウスの船はアイデンティティが保持されているからテセウスの船だ」と言う説がある。
これはつまり「あの船はテセウスの船だった」という、周りがテセウスの船に与えるアイデンティティがあるから、テセウスの船はテセウスの船たりえると言う話だ。
アイデンティティを個性と勘違いしている人もいるが、本当の意味は自己同一性。「自分は何者なのか」という概念である。自分は何者かというのは、社会における他者からのアプローチがあって初めて理解し得るものであり、己のみで自己同一性を認識することは不可能である。
それでは、さくらいれずみに出てくるシイチはどうだろうか。
このシイチに関しては、詩一を知っている者ならば「あの詩一さんか」と考え、知らない者ならば「この作品に出てくるキャラクターか」と考えるはずである。知らないものを知ることはできないのだから。また逆に、知っているものを知らなかったこととして捉えることもできない。ゆえにこれは揺らがない。
つまり、読者によってシイチ=詩一かシイチ≠詩一かが変わってくるということになる。シイチ=詩一でありながらシイチ≠詩一でもあるのだ。
哲学的な側面から切り崩していったにも関わらず、ふたを開けてみたらさらに新たなパラドックスが存在している。古代ギリシャの哲学者に問いたい。あなた方が生きていた時代に、これほど心を揺さぶられる衝撃があったのだろうか、と。
しかも、観測者によって物質の本質が変わるなど、量子力学の世界ではないか。
つまりこれは、鬼才木野かなめが読者を相手取り展開される、哲学と量子力学の融合体コンテンツということになる。
私はとんでもない場所へ足を踏み入れてしまったのかもしれない。戦慄を隠し切れない。歯の根が合わない。呼吸は加速する。動悸がやまない。タイプミスも増える。
……そうだ。忘れてはいけない。
まだこれはテセウスの船的解釈をしたらというタラレバの話に過ぎない。
別の切り口から考えてみよう。例えばヘラクレイトスの川——(ここで、心は『無駄』と化す)
(✂^ω^)✂╰U╯ㄘんㄘんチョキチョキたーいむ!
(理の道に対抗するには……)
🤪<うわぁいうわぁい
じょぼじょぼじょぼぼー
🤪<おもしろかったー
じょぼじょぼじょぼぼー