左胸

@aihajime

第1話 左胸

「お掃除終わりました」

「ご苦労様、ありがとう」

「今晩と明日のお食事は冷蔵庫の上段に入っていますから、それからここに今日の郵便を置いておきます」

「はい、ありがとう」

「ではまた明後日きます」

「はいよろしくね」

 20年経って少し軋む音を立てながら玄関のドアが閉まっていく。

 外界から遮断され、誰もいなくなった部屋を眺めている。

 静かだ、実に静かだ。天井裏を這うネズミの音が手に取るようにわかるほど静かだ。

 癌が見つかり仕事を引退して治療に専念してちょうど一年だ。あれほど元気だった俺なのに今は鏡を見るのも憚れる、全くのヨボヨボ爺さん。つかまりながら歩くのがやっとだ。1週間前に訪ねてきた昔の同僚が変わり果てた俺を見て言葉を失って泣き出してしまったのが現実なのだ。

 それでも週三回きてくれるお手伝いのおばさんに食事その他の世話をしてもらいながら俺が自力で建てたこの家で毎日穏やかに過ごせている。広いリビングと日当たりの良いバルコニー、さらにそれらを囲むように生えているオリーブの木々、都心の真ん中にあってはかなり贅沢な空間だ。

 冬の日差しは部屋の奥まで入ってくる。柔らかい日差しに当たりながら12月になってもまだ毎日頑張って咲いているベランダのハイビスカスを眺めていると、少し前まで結構激しく動き回っていたことが全くの別世界に感じられる。社会の中で働くとか、いろいろな人と丁々発止の渡り合いをするとか、そんなことが世の中にあるなんてとても信じられない。ただあるのはここに戻ってきて静かに横たわる老兵の姿だけだ。すべてが終わったアガリを感じながら穏やかに過ごしている。

 さてこんな引退した俺に手紙が来るのはあまりないことなのだけれど、ピンク色の小包だよ。外国からだよ。フランスマルセイユの消印だ。

 早速開けてみる。

 外国からのものにしては結構簡単な包装だったが、破くとなんと出てきたのはマルちゃんの赤いきつね。

 昔、それこそ発売当初まだ高校生だった頃によく食べていたけどそれが今どうしたの。

 胸が急に締めつけられた。フランスで赤いきつね、それってあのエリコだ。衿子しかない。

 添えられている封書を開けてみる。手の震えが止まらない。


 吉川和夫様


 およそ半世紀ぶりぐらいになりますね、お元気ですかというかまだご存命でしょうか。

 きつね、赤いきつねのうどんをすする度にあなたの右肘が私の左胸をくすぐっていたのを今でもはっきり覚えています。でもその後は何もなくそれぞれ別の大学に進んで、さらに私は人事トラブルから日本を捨てて20歳過ぎにフランスに来ました。以来約半世紀フランス人の夫とも死別して今はマルセイユの介護療養施設に入ってます。この手紙が届く頃にはもういないかも知れませんが、50年の間私はあなたのことを片時も忘れたことはありません。あなたは私の中では永遠の青春の思い出、いつまでもあの高校生のままです。あの時あなたの肘がもっと私を押していたら、私の人生はかなり別のものになったのだろうかと、少なくても全てを捨ててフランスに来ることはなかっただろうかと、今でもそんなことを時々思っています。ずっと遠くにいるあなただけれども、この世のしがらみが大方なくなってきたこの時、最後にあなたにも私のことを思いながら旅立って欲しいから赤いきつねを送ります。私というものがあなたのことをずっと思っていた、赤いきつねをともに食べたことをずっと忘れないでいてください。向こうでまた一緒に食べましょう。


 Eliko Marant Nagakura



 衿子か、急に50年前にタイムスリップした。


「衿子、plumpこの意味は」

「豊かなという意味よ。前後をつなげてplump breasts 豊満な胸ということ」

「そうか、まさに衿子そのものの意味だな」

「いやらしい、でも私の胸感じる」

「まあな、人並みにあるんだなとは思うよ」

「何それ、和くんは他にも色々しっているわけ、いやらしい」

「別にそんなにたくさん知ってはいないけれどまあ人並みの知識はあるよ、

 もう少し確かめさせてよ」

 俺は右手の肘を広げて俺の右側に密着している衿子の胸を押してみた。

 フワンフワンのような結構硬いような、俺の肘の先が汗でグッと重くなってきた。

 エリコの顔がグッと近づく。俺の肩に乗っかってくる。目の前に薄くルージュを塗った唇がある。半開きのそれはなんとも俺を気違いにする。

 あと少し、ほんの少し近づけばいいのに、ほんの少しがとても遠い。

 胸がドキドキ、冷や汗がじっとり、だめだ、やはり遠い。

「で次のleanこれはどういう意味」

「だからそれは前の反対語よ、やせほそったということ」

「そうか、俺たちの担任の目黒先生みたいなもんだね」

「確かに、あのキンキン声はまさにそのものよ」

 高校3年の冬学期、授業は午前中で終了、午後はほぼ毎日誰もいなくなって教室で二人揃って勉強していた。赤いきつねを毎日購買で買ってきては分け合って食べていた。ぴったりくっついて座り、肘でつつき合いながら結構真面目に勉強していて、それから先が起きることはなかった。

 学部は違ったけれど同じ京都の大学を志望した俺たち、受験の時の旅館泊まりが人生でほとんど初めての一人外泊だったけれど、そこはそれ、それぞれの親が手配したところに全く別々に泊まり、結局京都で会うこともなかった。

 結果俺だけが合格して目的の大学へ進学、彼女は別の東京の大学へ行った。そこからはもう全くの疎遠、今日の今日まで何のコンタクトをすることもなく半世紀だ。風の便りでフランスに行ったことは知っていたが、結果連絡の手段もないままたまに思い出すことはあってもそのまま時は久しく流れていった。

 ずっと俺のことを思っていてくれたなんて今更ながら胸が詰まってくる。

 湯を沸かして送られて来た赤いきつねを食べてみた。さすがに昔の味が戻ってくる、半世紀分のノスタルジア、懐かしい味と共に肘の感触がまざまざと甦ってきた。

 うどんを食べているとでてくる鼻とたかぶって出てくる涙で顔がぐしゃぐしゃになりながらしばらく昔の俺に戻っていた。

 それでも食べ終わって1時間もするとそこにいるのは静かにハイビスカスを眺めている老人だ。さっきより日が照った分だけより開いている。

 このハイビスカス、これ以上はもう寒くて咲かないだろう。

 俺にはもうフランスまで手紙を書いたり連絡したりするエネルギーはない。もらった手紙はしっかり俺の中に刻んだ。今までのたくさんの事の一つだ。こんないい思い出があったことに感謝しながら向こうまで持って行こう。もしかしたら向こうでまた一緒に赤いきつねを食べられるかな。


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