第八話 金色の嵐
なんだかよくわからないものが、目の前にあった。
蛇と言われれば蛇に見える。虎と言われれば虎に見える。そして犬だと言われれば、犬と思える、
絶えず形を移ろわせる暗黒が、気まぐれのように動物の形を取り、すぐにとろけて混沌へと戻っていく。
不定形の
「きりたん……!」
小春の切実な叫び。
けれど、その声は俺まで届かない。
深く、暗い海の底へと潜ったときのような耳鳴りが、すべての音をかき消してしまっていたからだ。
眼球などなかったのに、視線は確かに合ったのだ。
直後、肉塊が崩れ落ちる。
ボロボロと、ボタボタと、汚らわしい
赤い少女が、現れた。
俺は両目を、これ以上もなく見開く。
間違いなかった。
それはあの日、幽霊屋敷で見た赤色に相違なくて。
「――
怪異が、名乗る。鈴のような声で名乗る。
どうしてだか、本能的それが名前なのだと解った。珠々。十辰の妹と同じ名前。
ゆっくりと上がった顔は、まだ幼い。
長い黒髪は腰までも伸びており、それ自体が生き物のようにうごめいている。
おもむろに伸ばされた
あまりにも手際が良くて、上半身が露出するまで、気がつくことすら出来ないほどだった。
ズッと、這いずるようにしてすり寄ってくる少女――珠々。
彼女はウジ虫のように白く細い指で俺の肌を
そうして、耳元で
耳朶を舐めあげるようにしながら。
『おにいさん、わたしと――赤ちゃんをつくろう? 〝まさんの実〟、一緒に食べよう?』
背筋に
この悪寒の名は、恐怖。
抵抗しようとしても、身体がいうことを利かない。
金縛り。
珠々の、吐き気を催すほどに整った顔が、俺の唇へと近づいて。
絶望。
もうどうしようもないと、目を固く閉ざしたとき。
ぴちゃん。
水の滴る音が、室内に響き渡った。
§§
ぴちゃん……ぴちゃん……ぴちゃん……
水の降り積もる音。
その場にいた誰もが、音のした方向を
床に、水たまりが出来ていた。
見上げる。
天井の染みから、赤錆びた液体がしたたり落ちていた。
それは、赤く。
目前の少女などとは比べものにならないほどの、そうだ――血のような
「――
直後、部屋の窓が破壊される。
何者かが、外から飛び込んでくる。
灯りが、パチパチと明滅し、そして侵入者の姿を照らし出す。
「――――」
細く、引き延ばした金の糸を、束ねたような黄金の髪。
緑色の着物の上に羽織られているのは、
〝美〟という概念を積み上げたように整った
その面持ちはどこまでも白く、なお
/ああ、見覚えがあるというのなら、よほどこちらの方が見覚えがある
耳まで裂けたような、ニタァ……とした笑み。
黄金の嵐が、
「それで私を真似たつもりか、〝鵺〟! 大樹の横に毒麦を並べ、同列と言い張るほどに
人差し指と中指を立てて、胸の前で構える。
「
空中に描き出される〝斥〟の一文字。
ドン!
床板を踏み抜かんばかりに女の足が振り下ろされ、同時に、すさまじい衝撃波が
赤い少女は口元に
呆然と、その様子を見ていた碓氷雲斎は。
しかし、すぐさま立ち直り、十辰の腕を握って駆けだしていた。
「なにをする碓氷! 自分は妹を!」
「いまだ〝鵺〟は不完全。ここで引かなければ、すべてが水泡と
「――くそっ! 切人! 自分は必ずおまえさんの魂を奪いに来る! 子どもたちの命をあがなわせる! 逃げるなよ、逃がさないぞ切人ぉおおおおおおおおおおお!!!」
叫び声を残して、二人は逃げた。
入り口のドアではなく。
緋色の女が突き破ってきた、窓から外へと飛んでだ。
ハッと自由になった身体で窓に駆け寄るが、夕暮れの中に消えていく二人の背中が一瞬見えただけだった。
「――馬鹿か俺は!」
そんなことよりも大事なものがあるだろう!
「小春……!」
気が抜けたように崩れ落ちている幼馴染みへと駆け寄ると、彼女はピースを作って見せた。
……その手はかわいそうなぐらい震えていて、喉元には一条の傷が付いていた。
それでも、それでも無事でよかった。
また助けることが出来てよかった。
心の中に、温かいものが広がる。
待て。
また、とはどういうことだ?
俺は、以前にも彼女のことを……駄目だ。思い出せない。
かぶりを振り、もうひとつの問題と向き合う。
「あんたは……」
「む?」
「あんたは、誰なんだ……?」
緋色にして黄金の女。
いまこの瞬間まで、ずっとオバケだと思っていたもの。
いつか、実家の庭で見た怪異。
そして――酷く、酷く懐かしい存在。
いまこうして向き合っているだけで、鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。原因不明の
なんだよ。
なんなんだよ、あんたは?
「こいつを食べろ。それから、口は塩水ですすげ」
彼女は答えることなく、どこから取り出したのか、ポップコーンをこちらに投げ渡してきた。
「安心していいぜ。こいつは〝まさん〟じゃあない。雷獣〝鵺〟の瘴気にゃ、モロコシが一番だと決まってるからよ」
「なに言って」
「
え?
「斑屋
鞠阿。
斑屋鞠阿。
……覚えた。
命の恩人の名前を、確かに。
「それから……あと三回だぜ」
「え?」
女――鞠阿さんが、俺を指差しながら告げた。
「おまえはいま、一度死んだ。私ははじめ、十二の十二倍の試練を与えた。死の
「俺は」
「諦めるな、考え、足掻き続けろ。
突然
そのままあっさりと、入り口のドアを開けて去って行った。
「小春ちゃん! 切人くん!」
小春と二人、その様子を呆然と見ていると、すぐに浄一センセーが飛び込んできた。
「大丈夫だったかい? ところでいま、なにか怪奇的なものとすれ違ったんだが……なにか、心霊体験をしたんだね?」
……おい。
いやいやいや、まさか。
「ずばり、そのすべてを聞かせてくれるかな!?」
彼は。
普段とまったく変わりのない、子どものように好奇心全開の顔で、そう訊ねてきた。
俺と小春は顔を見合わせて。
声を出して、笑ったのだった。
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