第七話 雷鳴と鵺

 はらいの儀とやらの準備は、すぐに始まった。

 碓氷うすいさんは先だって室内を調べて周り、俺にすべての鏡を外させた。


「鏡は反射によって狗神いぬがみの数を増やします。鏡があるだけ、呪詛じゅそは増えていくと考えてください」

「……こういうのも、駄目なのか?」


 小春からもらった魔鏡を取り出すと、眼鏡の霊能力者は一瞬瞠目どうもくし。

 小さく咳払いをして、ゆっくりと首を振った。


「いけません。それは、他の鏡と一緒に隣の部屋に移してください」


 鏡の移動を終えると、今度はおこうのようなものを焚き、彼女は祭壇を組みはじめる。

 十辰は、まるでアシスタントかなにかのように、彼女へと付き従っていた。


「悪いな。こんな親身になってもらって」

「なにを言っている。切人と小春さん。そして自分は友人ではないか。助け合うのが当たり前だ!」


 胸を張ってみせる悪友は、とても頼もしく見えた。

 あまのじゃくなどと、酷いことをこれまで言ってきたが、やはり持つべきものは友達なのだ。


「なにかあったときは、今度は俺が力になる。前に借りもあるしな」

「有り難い。じつは妹のことで悩みを抱えている。今度相談させてくれ」

「もちろんだ」


 雑談を交わしている間に、祭壇は出来上がった。


「怒りと呪怨じゅおん、狗神の飢餓きがを鎮めるため、ここに供物くもつを置きます」


 十辰が荷物を取り出し、碓氷さんへと差し出す。

 出てきたのは、生のイワシだった。

 霊能力者は、鰯の腹を指で裂きながら、祭壇へといくつもいくつも投げ込んでいく。

 部屋の中に、独特の臭気がこもる。


 手に付いた血をぬぐい。

 碓氷さんが、俺たちへと向き直った。


「これより、祓いの儀を行います。わたくしが祈りを捧げている間、おそらく何者かが家を訪ねてくるでしょう。しかし、絶対にドアを開けてはなりません。同時に、追い返してもなりません。あなた――菱河さんは、〝それ〟と話をしてください」


 話って、なにをだよ。


「おそらく、中に入れてくれと言い出すはずです。なのでそれは出来ないときっぱり言い切ってください。もしかすると、あなたの知り合いの姿や声を真似るかも知れませんが、絶対に開けてはなりません。招かれなければ、怪異は侵入できませんから」


 ドアを開けないこと。

 解った。


「それから『自分にはもう〝つがい〟がいる』と告げ、約束はどうしたかと問われるはずなので『信じる神はひとつ』と答えてください」


 それは、どういう意味で?


「意味はありません。このように答えることで、狗神は退散するように出来ています。言うなれば狗神とは、相手を呪うプログラムなのです」


 なるほど。

 納得は出来ないが、理解はする。


「狗神を遠ざけましたら、こちらへと来ていただき、手を切って祭壇へと血を注いでください。少量で結構です。そこまでやれば、必ずあなたがたは解放されます」

「それってさ、あたしじゃ駄目なの?」

「小春」


 一歩進み出た幼馴染みが、目つきを少しだけ鋭くして碓氷さんを見詰めた。


「あたしの血でも、いいんじゃない?」

「いけません。祟られているのはこのお兄さんです。ならば、ご本人の血である必要があります」

「でも」

「小春。いいんだ」


 食い下がろうとする彼女の肩に手をかけて、俺はゆっくりとかぶりを振った。

 それから、碓氷さんを正面から見据え。


「……信じて、いいんだな」

「そのために、わたくしはここまで来ました」


 なら、初めてくれ。


「では――天狗道てんぐどうはここにあり。中天ちゅうてんくだらよ応えよ。の炎をここに」


 ブツブツと低い声で呪文のようなものを唱えはじめた彼女は、流れるような動作で祭壇へと火を灯す。

 お香と、温められた鰯のはらわたの臭気が混じり、吐き気を催すようなにおいが立ちこめる。


の門を超え、善悪は反転し、ここに迷えるものを導きたまえ」


 いくつもいくつも重ねられる、意味のわからない文言もんごん

 やがてそれは、堂々巡どうどうめぐりのようなループをはじめる。

 室内を満たす臭気と、その催眠的なリズムの声音を聞くうちに、頭がぼうっとし始める。

 どれほどの時間が経ったか。


 突如、ドン! と、ドアが叩かれた。

 そうして。


『切人くん! 小春ちゃんは無事かね!?』


 という、聞き知った声が響いた。

 浄一センセーだ!


 俺はすぐにドアへと走った。

 小春に起きた事故のこと。この祭儀さいぎのことを、センセーに相談したかったからだ。

 しかし。


「なりません! 狗神です!」


 碓氷さんの鋭い声で、俺の足が凍り付いたように止まる。

 これが?

 狗神?


 たしかに、親しい人の真似をするかも知れないと、彼女は言った。

 けれど、どう聞いても、それはセンセーの声で。


『いないのかい? いるんだったら開けてくれないか!』


 碓氷さんを見る。

 彼女はゆっくりと頷いた。

 俺は、ドアの前に立ち――ちょうどカーペットを踏む位置だ――センセーへと問い掛ける。


「どうしてメッセを送ったのに、反応してくれなかったんですか?」

『メッセを見たからここに来たんだ。ホテルの部屋に泥棒が入ってね。携帯を取り戻すまで時間がかかった』

「……じゃあ、碓氷雲斎うんさいさんと十辰にはいつ指示を出したんだよ」

『……碓氷? 十辰くん? なにを言っているか解らない。とにかくいるのなら開けて欲しい。病院に駆けつけてみれば、小春ちゃんは既に退院しているし、ぼくも戸惑っているんだ。ああ、それに解った! 解ったんだよ! 君がみた怪異の正体、あれは上半身の怪なんてものじゃない。いや、正しくはひとつではなかったんだ。初めから同時に存在していたんだ! これは――』

「――狗神、だろ」

「……よくわかったね。もしかして、誰かがそこにいるのかい? 小春ちゃんとは違う、女性の声が聞こえるが」


 振り返る。

 碓氷さんと十辰が頷く。


「自分にはもうつがいがいる」

『なんだって?』

「自分には、もう〝つがい〟がいる!」


 大きな声で、恐怖をかき消すように繰り返す。

 ドアの向こうにいるのがナニカ解らない。

 もしかすると本当にセンセーがいるのかも知れない。だとしたら、すごく失礼なことしている。


 けど、これは、小春を助けるためだ。

 あとで、俺が怒られればいいんだ。

 だから。


『君は、誰かにそそのかされているんじゃないのかい切人くん』


 ……声が、こちらの心の弱い部分をつつく。

 疑心暗鬼にさせようとしているのか? それとも――


「信じる神は」


 俺は。

 大きく息を吸って。

 唱える。


「信じる神は……ひとつ!」

『――――』


 ピタリと、ドアの向こうの声が沈黙した。

 いつの間にか碓氷さんの呪文も止まり、物音ひとつしない中で。

 俺が、固唾かたずを呑む音だけが大きく響く。


 十秒か。

 二十秒か。

 張り詰めた緊張感の中、顎から冷や汗がしたたり落ちたとき。

 ドアが、大きく叩かれた。


『小春ちゃん! そこにいるね! いないわけがない。君なら解るはずだ! その場で行われている儀式の異常性を! 碓氷? 碓氷と言ったのか? その何者かは――部屋のなかから鏡をすべて取り外させたのではないかね!?』

「――――!?」


 どうして。

 なんで見てもいないセンセーが、そのことを知って。


「きりたん。おじちゃんの言うとおりだよ。これ、やっぱりおかしいよ!」


 小春が。

 ずっと押し黙って、なにかを考えている様子だった彼女が、顔を跳ね上げて叫ぶ。


「鏡は古来より魔除けなんだよ! 怪異の本性を照らし出して、化けの皮を剥ぐ! なのに鏡を全部取り払って、おまけに生臭なまぐさ神饌しんせんとして捧げる儀式なんて、狂ってる! きりたん、ドアを開けて! そこにいるのは――」


 彼女が言い終える前に、俺はドアへと駆け寄っていた。

 ドアノブへと手をかけ。

 しかし――


「そこまでだぞ、切人。鍵を開けてみろ、小春さんの命はないと思え」


 冷徹な声。

 普段の快活なほがらかさなどどこにもない声音。

 小春を羽交はがめにして、その首へと刃物を当てていたのは。


「なにを」

「このまま頸動脈けいどうみゃくを切りひらいてもいいのだ。さあ、こちらへ来い。そして、祭壇に血を捧げろ」

「なにをやってるんだよ――十辰!」


 俺の悪友、嵯峨根十辰が。

 感情など漂白ひょうはくされたような顔で、小春を人質に取っていた。

 どうしてだ。

 なぜ、おまえがそんなことをする必要がある!


「俺たちは、友達だろうが!」

「……そうだ。だから、自分の助けになってくれ、切人。すべて、妹を――珠々じゅじゅを救うためなのだ」


 妹?

 珠々?

 こんな馬鹿げたことと、いったいなんの関わりが。


「すべては犬辺野いぬべのの悲願成就のため。さあ、その血を差し出しなさい、〝罪の女〟に見初みそめられしものよ!」


 やおらに立ち上がった碓氷さんが、俺の腕を掴む。

 刃向かおうとするが、尋常な力ではない。

 ずるずると引きずられ、俺は祭壇の前へと連れて行かれる。

 そして、手のひらに熱感。

 次いで鋭い痛み。


 切られたのだ。

 ぼたぼたと、赤い血液が、祭壇へとこぼれて。


 刹那、轟音と共に〝雷〟が落ちた。

 室内の電気がすべて消え――



 闇の中で、〝それ〟が形を取る。



 狗神。

 いいや、これは犬なんてものじゃなかった。

 蛇の尾を持ち、虎の手足を持ち、猿の顔を持ち、いのししとも犬とも付かない体付きをして、背中にコウモリの羽根を保つバケモノ。

 のたうつ混沌、あらゆる獣のひしめく黒海。


ぬえよ! あなたのつがいは、ここにおります! さあ、存分にまじわりください……!」


 碓氷さんが、叫んだ。


 〝鵺〟が、舞い降りる――

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