夏の露に濡れる

 季節は梅雨に入った。

 番傘を差しながら風呂敷包みを片手に、四季しき宵一郎よいいちろう宗治むねはるは家路へと向かっていた。刀工としての仕事を終え、報酬を頂いた帰りである。

 夏の蒸し暑さなど忘れたかのように冷えた雨が傘に跳ねる。と傘に跳ねる雨の音が面白かった。


 ふと、目の前に寺子屋の門前が現れた。そこに、一人のぼうやうずくまっていた。年の頃は十にも満たないだろうか。育ち盛りだというのに坊は痩せていた。


「そこの坊、どうしたのだ」


 四季は見兼ねて声を掛けてみた。

 坊は四季を認めると瞼を二回ほど瞬かせた。


「お侍様?」


「いや、私は侍ではないのだが」


 どうやら坊は四季の身成みなりを見てそう聞いたらしい。

 四季の腰元には刀が帯びてあり、侍と言われても不思議ではなかった。


「ここで何をしているのかと気になってな」


「雨が去るのを待ってるんだよ」


 いくら坊が小柄であれ門はそこまで大きくはない。完全には雨はしのげていないようだった。四季は坊の頭上に番傘を傾けた。


「坊、私の屋敷においで」


 四季は坊の手を取り、屋敷へと向かった。


 * * *


 坊を座敷へと招き入れた。四季は風呂敷包みと刀を自室に置き、茶菓子などを持ち座敷へ戻った。茶請ちゃうけにと出した菓子は、先日依頼先で頂いたきんつば。坊は目を輝かせてきんつばを眺めていた。


「食べてもいいぞ?」


「本当⁉ 頂きます!」


 坊はきんつばをひとつ手に取ると、とても美味しそうにそれを頬張った。

 一人では食べきれない為、誰かに分けようと考えていた。これほど美味しそうに食べている坊を見て、四季はまだ分けないで良かったなと思った。

 四季は子供が好きであった。無邪気で純粋な子供を見ていると、幼い頃の記憶がよみがえり幸せな気持ちになるのだ。

 坊が一息吐いたところで、四季が坊に話し掛ける。


「あの寺子屋には通ってはいないのか?」


「……通ってない。あそこにいるのはみんな金持ちばかりだ」


「父上殿と母上殿はどうした?」


「おっとうはぼくが生まれた時に死んだって。おっかあはあの寺子屋で働いてる。帰ってくるのは大体夜が更けてから」


 つまり、坊はいつも独りなのか。

 さぞ寂しい思いをしているのだろうと四季は思っていたが、案外そうではないようだった。


「ぼく、おっかあの為に料理をしようと思ってるんだ。でも、出来ない。お金もないし、どうしたらいいのかな」


 四季は自分が今、坊に見られていることに気が付いた。

 どうやら座敷に上がる前に、を見掛けたらしい。

 奥の工房は座敷に上がる際に少しだけその姿を覗かせる。玉鋼の状態のものや、すでに刀の形をしたものが並べてある。その中にはも存在した。


「……包丁が欲しいのかい?」


「欲しい、けど」


 お金がないから、と坊は言う。悲しいことを言う。ただの子供が、我儘わがままも言えない世界に、四季は内心腹を立てた。


「……坊、少しだけ待っていてもらえるか?」


 四季はそう言い残してその腰を上げ奥の工房へと向かった。


 工房にある包丁状の作品ものは、はっきり言って

 出来が悪いと言うのは少し語弊がある。

 もともと、とある武家の依頼で作成していた『夏』の大太刀おおたち。しかし上手く刃文を焼き入れることが出来ず、ことを決めていた(ちなみに『夏』の大太刀はすでに完成させてあり、武家の方へ納品している)。

 手折ったままにしていた『夏』の破片を見て、四季はあることを思い付く。

 丁度、なかご部分が残った綺麗な形で大太刀は手折られていた。刃長も包丁を作るにはいい長さであった。少し削ったり、整えてしまえば、包丁に成り得ると四季は考えたのである。


 そうして一刻ほどが経った頃、工房から四季が戻って来た。その手には小さな木箱を持っていた。


「坊、これをあげよう」


 四季は坊の目の前にその小さな木箱を置き、その蓋を開けた。

 中には一本の包丁が入っていた。


「すごい……きれいだ……!」


「喜んでくれたようで私も嬉しいよ」


 『夏』の大太刀を再利用した、の刃文が焼き入れてある包丁だった。


「でも、いいのか? ぼく、お金持ってないぞ?」


「ああ。それは問題ないよ。これは失敗作で作った、いわば試作品だから。売り物ではないから、お金はらないよ」


 坊は目を輝かせて四季を見た。

 四季は幸せな気分になり、とても優しく微笑んだ。

 ふと、外を見れば、ざあざあと降っていた雨がいつの間にか止んでいた。


 * * *


 あれが約十年前の話であった。

 あれからあの坊は包丁を大切そうに持って「ありがとう!」と言って、雨が上がった道を元気に駆けて行った。泥と共に跳ねた水滴が、日に照らされて輝いていたのを今でも四季は鮮明に憶えていた。

 今頃、坊はあの包丁を使い、母親に料理を振舞っているのだろうか。もし使用していなくても、あの不思議な文様を焼き入れた包丁を売りに出せば、何年かは不自由なく暮らせるだろうと思っていた。どちらにせよ、あの坊が母親と仲良く暮らしていてくれればそれでいいと四季は思っていた。


 工房で作業をしていると、門前から「失礼!」と若い男の声が聞こえてきた。

 誰であろうか?

 現在溜めている仕事はない。滞納している依頼もない。依頼がなければ滅多にこの屋敷に人は来ない。四季は首を傾げながらゆっくりと門前へと向かった。

 作業に集中していたので気付かなかったが、外は雨が降っていた。玄関に置いていた番傘を手にし、敷居を跨ぐ。

 門前に着いた時、四季は思わずその目を見張った。


「……これはこれは、珍しいお客様だ……」


 そこにいたのはを持った、番傘と風呂敷包みを持った青年であった。


 あの時と同じようにきんつばを彼に出すと、彼はあの時と同じようにとても美味しそうに頬張った。


「それで今日はどうしたのだ?」


「ああそうだった。殿に依頼がありまして参った次第です」


「依頼?」


 青年は持っていた風呂敷包みを四季の目の前に置き中身を見せた。

 そこにあったのは、あの時彼に渡した露の包丁だった。


「刃こぼれをしてしまったので、直して頂きたいのです」


 四季はこれほどまで刃こぼれをした自分の作品を見たことがなかった。


「心得た」


 四季は心底嬉しく思い露の包丁を手に取った。


 雨はまだ止まない。

 止むまでは彼との談笑を楽しもうと四季は決めたのだった。

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