管楽器の訓練法

のり0805

第1話

 

 最終楽章に入った。

 レイが奏でる高音にアキラが低音の幅を与える。主旋律のぴったり三度下の音が重厚な和音をつくる。二重奏の醍醐味が会場に浸透していく。


 盛り上がってきた。


 二人は向き合い、顔を見合わせ、テキーラをショットであおるように天を仰ぎ、そしてうつむきながら一気にしゃがみ込んだ。


 万雷の拍手。

 先に立ち上がったアキラが手を差し出してくれた。


 アキラの持つサックスがキラキラして、世界が輝いて見えて、まるで自分が少女漫画のヒロインになったような感覚を持ったのは、ホールの照明が明るすぎたせいだったのかも知れない。



 レイとアキラはサックスデュオの活動をしている。大学卒業後すぐにプロ活動を始めて、結成五年目(ちなみに交際期間も五年)。

 夏祭りやクリスマス会、文化祭など多くのイベントに声がかかった。


 そんな二人だが、今、二つのテーマで岐路に立たされている。


 一つは、恋人という関係を続けるかどうか(マンネリが原因。よくあることだ)。


 そしてもう一つ(こちらの方がより深刻なのだが)。アキラの体が悪化して、サックスを吹くのが難しくなってきたことだ。



♪♪♪



「やっぱり無理かも」

 アイスコーヒーの入ったコップの中の氷をストローで突きながらアキラは言った。


「息、苦しい?」

「うん。昨日の演奏の後、明らかにひどくなった」

 投げ捨てるような言い方は、レイのせいだというニュアンスにも汲み取れて、レイの心にチクリと痛みが走った。


「ごめんね。無理させちゃって」

「いや。レイちゃんは全然悪くないじゃん。俺だけの問題」

 だけ、という言葉にさらなる痛みを覚えつつ、レイはつとめて冷静にたずねた。


「今、どんな感じなの?」

「そうだなぁ。普通、呼吸ってだいたい二分音符くらいのリズムだろ?吸って~、吐いて~って。それが八分音符くらいのリズムになってる」


 つまり呼吸が一般人の四倍くらい早い状態ということだ。そんなに早い呼吸はサックスを奏でるには致命的と思われる。


「お医者さんは何て?」

「いろいろ診てもらったけど、詳しくは分からないみたい。呼吸器系に何らかのトラブルがあるのは間違いないんだけど、日常生活には問題ないから大丈夫だって言われた」


 日常とは何だろう。

 アキラにとって、五歳から二十二年を共にしてきたサックスが吹けないことは日常生活に問題があることではないのか。


 レイは祈るような思いでたずねた。

「治療方法はないの?サックス吹けるような」

「ないみたいだね。ただ、息を吸う訓練は有効らしい」


 なるほど。

 楽器を吹くためにどうやって息を出すかに注目しがちだが、大きく息を吐き出すためには、その前提として大きく吸い込めなければならない。

 上手く吸い込めれば、出す方も解決するということか。


「やろうよ。吸う訓練。私、考えてみる」

「レイちゃんがそう言ってくれるなら、俺も頑張りたい、かな」

 コップの氷は、もうすっかり無くなっていた。



♪♪♪



「レイちゃん、これって...」

 一週間後、レイは自宅にアキラを呼び出した。いろいろ考えた末に行き着いた、吸うための訓練法を伝えるためだ。


 訓練のための道具としてレイが渡してきたものをアキラは受け取り、目の前のテーブルに置いた。

 アキラはしばらくそれをじっと眺め、次に視線をレイの顔に移した。

 そして、レイの不安げな表情を見て、堰を切ったように笑って言った。


「あはは!レイちゃん、これが訓練の道具って、マジかぁ。これって、あれよな?」

「うん。そう。見た通り。赤いきつね」

 そこにはまごうことなきマルちゃん赤いきつねが、もう食べごろだよと言わんばかりに蓋の端から湯気を立ち上らせていた。


「アキラ、とりあえず食べてみて。バカげた発想かもしれないけど、麺をすする訓練こそ今のアキラには最適なんじゃないかなと思って」

「うん。これはありがたい。久しぶりのご馳走だ」


 言いながらパチンと箸を割り、朝寝坊した子どもの布団を剥ぎ取るように蓋を外し、勢いよく麺をズルズルと口に頬張…

 ズルズルと…

 できなかった。


「そっか。すすれないんだ、俺」

 箸に絡まったまま口に入れてもらえなかった麺からポタポタと汁が垂れた。


「そういう病気なんだよ。もしかして私、アキラのこと傷つけちゃった?」

「たしかにショックだな…」

 アキラはしばらく間をとって言った。


「けど、やっぱ、赤いきつねは美味いな!」

 眩しい笑顔に当てられて、レイは一瞬時間が止まったように感じた。


「こんな美味しくて楽しい訓練方法を考えてくれてありがとう。すする練習、やっていくよ。赤いきつねは俺たちの思い出だしね」


 赤いきつねは、二人の交際のきっかけだった。



♪♪♪



 二人は同じ音楽大学に通う同級生だった。

 ピアノ歴の長い学生は多かったが、管楽器を長年やってきた者はほとんどいなかった。

 それゆえ幼い頃からサックスに没頭してきたアキラの腕前は頭一つ抜きん出ていた。

 レイも中学時代から部活でサックスを演奏してきたが、キャリアの差は歴然としていた。


 お互いにいい感じだと思いつつまだ付き合うかどうかはっきりしていなかった時期、手料理を振る舞おうとレイがアキラを自宅に招待した。

 レイは料理の腕前はいまいちだと自認していたので、素材勝負。アキラが油揚げ好きと知って、福井県の有名なお店からわざわざお取り寄せして準備万端。

 

 そして、名物油あげとキノコ類をケチャップソースで炒めた一品を食卓に運ぼうとしたとき、悲劇が起きた。

 履いていたスリッパが新調だったせいか、何もないところで躓いて前のめりにこけてしまった。お皿が割れ料理は床に散乱し、まるで殺人現場のようになってしまった。


 慌てて掃除しようとするレイから優しく布巾を取り上げてアキラが言った。

「一緒にやろう」


 どれくらい経ったろう。

 すっかり片付いて、新生児でも迎え入れられそうなくらい綺麗なお部屋になったころには、レイもすっかり落ち着きを取り戻していた。


「アキラ、ありがとう」

「いやいや。あ、ところでお腹減ったよね?」

「うん。ほんとにごめんなさい」

「もう謝らないで。レイちゃんが用意してくれた油揚げには負けるだろうけど…」


 そう言いながらアキラは自分のカバンからコンビニの袋を取り出した。


「俺用に買ってきたキツネうどん食べない?」


 アキラはコンビニの袋から取り出した二個の赤いきつねをマラカスを鳴らすようにシャカシャカっと数回振った。


 何を話したか覚えてないけど、ただただ楽しい時間を過ごしながら二人して最後の一滴まで飲み干した。


「あ~。美味しかった」

「ほんと。私、こんなに赤いきつねが美味しいって思わなかった」

「俺も。てか、今日は特別だった。やっぱり誰と食べるかって大切なんだなって…」

「そうだね」


「ねえ、レイちゃん。昨日と同じ今日なのにその人と一緒にいると日常に彩が出る相手って、なかなか出会えないと思うんだ」

「うん…」

「俺と付き合ってください」

「はい。よろしくお願いします」


 マルちゃんのマークのような笑顔でアキラが微笑んだ。



♪♪♪



 演奏の仕事は当面の間レイが単独で受けることとし、アキラは治療(と言っても画期的な方法はないのだが)に専念することになった。


 結局のところ、息を大きく吐き出せないのは鼻呼吸と口呼吸のバランスが悪いということであって(鼻から大きく息を吸い込んで口から出すことはできるが、鼻と口の両方から同時に息を吸い込んで大きく吐き出すことは健常な人でも難しいだろう)、レイが提案した訓練は一定の効果を上げた。


 アキラは、徐々にすすれるようになってきた。


 たまに他のカップ麺を利用することもあったが、麺の太さがちょうど良い、なめらかでのどごしが良い、あと、アキラはお揚げが大好物という理由から、たいていの場合赤いきつねが選抜された。

 

 飽きが来ないように緑のたぬきと混ぜてみたり。


 箱記載の五分ではなく、十分待って食べてみたり。


 野菜炒めを別で料理して乗っけてみたり。

 

 様々なアレンジを試しながら訓練は続いた。


 ズ…。

 ズル…。

 ズルズル…。


 一ヶ月が経つころには、アキラはしっかり音を立ててすすれるまでに回復していた。


 ただ、それをサックスを吹くというレベルで見た場合、夜空に見える星までの距離がほんの数メートル縮まった程度のものでしかなかった。


「レイちゃん、俺、来週からまたステージに出るよ」

 演奏終わりのレイに労いのお茶を差し出しつつアキラは言った。


「え。でも、サックス…」

「ああ。全然ダメ。まともな音が出ない」


「だったら…。もちろん一緒にしたいけど…」


 いっそフルートやオーボエならよかった。

 サックス等も含めたこれら管楽器は、どれも息を吹き入れることで音を鳴らす点で同じだ。

 ただ、フルートやオーボエは口の形(アンブシュア)や息の吹き入れ方を的確にしないと、そもそも音が鳴らない。


 これに対して、サックスは息を入れればとりあえず音は鳴る。

 だから今のアキラもサックスを鳴らすことは一応できる。


 しかし、それはアキラにとって人前で真っ裸になること以上に恥ずかしいことであるはずだ。


「俺はもうサックスは吹かない。ピアノで伴奏する」


 たしかにサックスの演奏会でも必ずピアノの伴奏は入る。ただ伴奏はあくまで脇役だ。


「ちょっと待って。アキラに伴奏をさせて、私がサックスを吹くなんてできないよ」

 自分が病気になるべきだったという思いがレイの脳裏をかすめた。


「あのねレイちゃん。聞いて」

 諭すようにレイに語りかけた。


「あの訓練をしながらさ、気づいたんだよ。自分のために何かするより、大切な人のために力を尽くす方がずっと幸せなんだって。ぜひ、伴奏を任せてほしい。で、これからもずっとレイちゃんの人生の伴走者でいたい」


「嬉しい。けど、嬉しすぎて何だか狐につままれたみたい…」


「あはは。レイちゃん、狐は俺たちがつまむものだよ。帰って、今日の赤いきつね食べよう」


 ふと見上げると、まん丸いお月様が夜空に微笑んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

管楽器の訓練法 のり0805 @noriaki0805

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ