第四回 戦支度②
清記は馬で駆け、内住郡の北部にある
赤江村には穂波代官所があり、規模こそ建花寺村に劣るが、農村ながら武士の姿もあり、商店もそこそこある。大きな問題を抱えていない、確かな治政をしている郡だった。
この代官所に、親友の武富陣内がいる。去年まで目付組の与力として働いていたが、清記が江戸に行く直前に、悌蔵の口利きで穂波郡代官所に役替えをしていたのである。
人を欺き、時には陥れるような役目が、陣内には合わなかったようだ。それが体調にも現れ、暫く役目を休んでいた事もある。
(上手くいっているとは聞いているが)
数少ない親友でもあるし、父が口利きをした手前か、陣内の働きぶりは気になっていた。江戸から戻ってすぐに陣内を訪ねたが、その時は代官所の務めは順調だと言っていた。
それから十日前には、穂波郡代官である
代官所に訪ないを入れると、老いた下男が現れた。耳の遠い下男だったが、用件を伝えると道場を指さされた。どうやら稽古でもしれいるらしい。その方角からは、竹刀を打ち合う気持ちがいい音も聞こえる。
(ほう……)
陣内は道場で汗を流していた。相手は三人で、代わる代わる稽古をつけているように見える。
(腕は鈍っていないようだ)
陣内の鋭い竹刀裁きを目にし、清記は頷いた。
陣内は、夜須藩の土着流派である
助っ人をと思って、まず浮かんだのが陣内だった。腕も信頼出来るし、気心も知れている。
「おう、清記か」
稽古が終わると、汗を拭いながら陣内が寄って来た。
「筆頭与力様が、お役目そっちのけで剣術の稽古か」
「非番なんだよ今日は。それにな、先月この穂波に賊が現れた。うちの
「穂波も大変だな」
「お互い様さ。今日はどうしたんだ?」
「話がある」
清記が声を潜めて言うと、それだけで察した陣内が場所を変えると言った。
代官所の側にある、組屋敷へ移動した。門を潜ると、四歳になる遊び盛りの男児が駆け出してきて、陣内に飛びついた。一人息子である。玄関先では、陣内の妻が軽く頭を下げた。
陣内の息子の名前は、
妻子のある陣内を誘う事に、忸怩たる想いが無いわけではない。しかも、自分の独断で助けたいと決めた事なのだ。しかし武士が二刀を帯びている理由は、弱き者を助ける為にある。一人では厳しい。ならば、陣内をと思った。
「お前の腕を貸してくれ」
客間に案内され、茶を運んできた陣内の妻が去ると、清記は頭を下げた。
「おい、俺の腕と言ったのか?」
陣内が驚いた顔で訊いた。
「そうだ。お前の腕が必要なのだ」
「珍しいな、お前が俺を頼るなど。まぁ理由を聞かせてくれよ」
「ああ」
清記は、実平の話をそのまま語った。山人の暮らしを守る為、夜須藩に賊を流入させぬ為に戦って欲しいと。
「そうか、山人か」
「藩庁に申し出た所で動くまい。勿論、俺の父も同じだ。だからこそ、やろうと俺は決めた」
「そうだな。いいだろう、お前と俺の仲だ」
陣内は二つ返事で承知した。
「いいのか? 報酬は無いぞ。必要だというのなら、俺が用意するが」
「そんなものはいらん。俺を見くびるなよ、清記」
「命を落とすやもしれん」
「お前は、俺の友達なのだ。親友だ、親友。その為には、俺は苦労も危険も厭わん。それに、お前は俺の婚儀に大金を包んでくれた。そしてお前の親父殿が、役替えの口利きをしてくれて、俺はこうして毎日充実している。数々の恩に対して、俺は何も報えていないのだ。このぐらい何という事もない」
「お前……」
「それにだ、清記。内住が乱れれば、この穂波もいずれ乱れる。という事は、これも仕事の内って事になる」
「すまん」
陣内がにやりと笑んで、茶を啜った。これから、藤河に理由を説明して許可を取るという。助っ人になるとなれば、暫くは不在にしなければならない。あまり公にしたくはないが、仕方がない事だった。藤河は折り目正しい武士で、清記も尊敬する代官だ。陽明学者としても名高いが、堅苦しい所もある。人別帳の外にある山人に関わる事を嫌うかもしれない。
「心配するな。ああ見えても、義侠心は篤い所もあるんだよ、藤河様は」
陣内は、許可が下りない事は有り得ないと言って代官所へ行き、その通りになって戻って来た。
「な、言ったろう?」
「何か言っていなかったか?」
「存分に武士の責務を果たせ、とよ。あとは、嫡男に恵まれた悌蔵殿が羨ましいとな」
「ありがたい。藤河殿には礼を言わねばな」
清記は、何やら嬉しい気持ちになった。江戸藩邸では嫌な思いばかりだった。かと言って、国元では政争に明け暮れている。そうした夜須藩にあって、陣内や藤河のように、民を想う気骨ある武士の存在は貴重だった。
「それより、今日は泊まるんだろう?」
「ああ。お前がよければ」
「なら、泊まれよ。酒を飲もう、久し振りにな。飲みながら軍議だ」
すぐに酒が用意された。肴は、猪肉の鍋だった。この辺りにも、山人が獣肉を売りに来るらしい。
これから、どうするのか? 陣内はそれを訊いた。
「目尾組にいる男を誘う」
清記は、次に廉平に声を掛けるつもりだった。廉平は目尾組の忍びで、御手先役絡み以外の事でも、銭次第では手を貸してくれる。今回はいつも以上の銭を払うつもりだった。勿論、それは山人からの報酬ではない。
「目尾組と言えば、隠密だろ? 知り合いなのか?」
「まぁ、父の筋でね」
「へぇ」
と、頷きながら、陣内は鍋の中で滾る猪肉に箸を伸ばした。醤油と砂糖で甘辛く煮込まれている。猪肉の他には、豆腐と山菜の類だ。
「そうか。悌蔵殿はそうした付き合いがありそうだな」
「長く仕えていると、様々な人脈を得るらしい」
陣内は、御手先役をしている事について知らない。それはつまり、親友を偽っているのと等しく、その自分を慕ってくれる陣内に対して、清記には忸怩たる想いがある。いつか打ち明けたい。その時、陣内は何と言うだろうか。
出来もしない事を、何度か考えた事がある。御手先役は藩の秘密。打ち明ける事は御法度なのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
廉平は、出来高払いでと言った。
城下にある、廉平の長屋である。
「賊は三十以上なんでしょう? あっしは怖がりなんで、逃げるかもしれねぇですから。もし、あっしが存分に働いた時は、その銭はいただきやすよ」
そう言って、廉平は加わった。
加勢は二人。他に顔は浮かばなかった。家人に命じれば参加するだろうが、無理強いするような事はしたくない。
二日後、三郎助が武具の運び出しが終わったと報告に現れた。山人が数名、山裾まで降りて来て受け取ったそうだ。
「しかし、悌蔵様は勘付かれているみたいですよ」
「何か言われたか?」
「いや、それが何も」
そう言って、三郎助が笑った。
「鼻を鳴らしただけで。どうこう言っても、我が子は可愛いのでしょう」
「そんなものか」
清記は伏と、
「なんだ、加勢は二人かい? あんたが仲間を引き連れるというんで、どんだけ大軍を率いてくるかと期待したんだがねぇ」
伏は、陣内と廉平を一瞥して言った。
二人は、大女の不遜な態度に目を丸くしたが、清記は
「こんな女だ、気にするな」
と、告げた。
「清記、お前は代官の跡取りだろ? 大丈夫か?」
「そう言うな。この二人は私の親友で、腕は立つ」
「そうか。あたしと清記は友だ。友の友も、友だ。山では多くの友も待っているよ」
そう言って、伏は笑顔を見せて挨拶を交わした。
陣内は山人の
「おい、あれ」
出発しようとした時、陣内が清記の袖を引いた。
背後に、武士の姿。その顔を認め、清記は言葉を失った。
現れたのは、東馬だったのだ。勿論、今回の件で声を掛けてはいない。
「よかった。間に合わないかと思ったぜ」
陣内や廉平も驚いている。事情を知らない伏だけが、腕を組んで見守っている。
「建花寺村に行ったが、もう出発した後だったんでね。この場所は用人に聞いた」
「どうして、東馬殿が?」
清記が訊いた。
「親父に聞いたんだ。お前さん達が山人の為、領民の為に戦うから加勢してやれとね」
大和様が何故に知っているのか? 怪訝な表情を察したのか、東馬が付け加えた。
「お前の親父さんに聞いたそうだ。世間話のつもりだろうが、俺にお前を助けて欲しいと思ったのかもな。兎に角、俺はお前に加勢すると決めた。駄目かい?」
「いや、左様な事は。いや、嬉しいぐらいです」
頭を下げる清記の肩に手を置いて、東馬が清記に耳打ちをした。
「志月からの伝言だ。武士の役目を果たして、無事に戻って来いと」
志月。その名に反応した清記が近付けた顔を見返すと、東馬は白い歯を見せ闊達に笑った。
志月らしい伝言だった。そして、内心で清記は頷いた。これは武士の役目を果たす為の戦いなのだと。
「しかし、お前も友達甲斐はねぇな。こんな楽しそうな事に俺を誘わないなんざ」
「申し訳ありません。この戦いは分が悪いと申しますか」
「なら、尚更ではないか」
東馬は、剣の天才だ。かつて奉納試合で東馬に敗れ、そして今でも勝つ事は出来ないだろう。そんな男の加勢は、本当に有難い。
「満足な報酬はありませんよ」
「銭はいらん。だが、貸しにしておこう」
「また貸しですか」
「ああ、そうだ。命を賭すのだ。大きな貸しだぞ、これは」
それから、東馬は全員と挨拶を交わした。
清記が自信を持って、選んだ三人。伏は満足そうに頷き、進発した。
〔第四回 了〕
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