第二回 獅子身中の虫②

 夜は酒になった。

 宴会は大和や東馬など家中の者だけでなく、奥寺派の面々まで呼ばれた。多くが上士と呼ばれる大組の子弟達だ。自分も一応は大組であるので、身分的に気後れは無いが、普段は付き合わない連中だった。

 清記は大和と並んで上座だったが、夜が更けて座が乱れると、のっそりと背の高い猫背の男が横に座った。


(こいつが……)


 東馬が嫌な男と評した、衣非外記。清記はこの屋敷で何度か顔を合わせた事があったが、言葉は交わしてはいなかった。

 確かに東馬が嫌がりそうな陰気な気配はある。しかし、清記にとってはどうという事もなかった。


「こうしてお言葉を交わすのは初めてですな」


 衣非が銚子を差し出したので、清記は素直に盃を受けた。


「申し訳ございません。何度かお見掛けはいたしておりましたが」

「いえいえ、それはお気になさらずに」


 歳も身分も衣非が上なので、清記は下手に出る事にした。確か三十になるかどうかで、身分は功臣の家系、栄生十六家の出身である。


「江戸から戻ったとお聞きいたしましたが、『どうでした?』などという質問にうんざりしているでしょう」

「ええ、その通りですよ」

「いや、私も江戸に詰めていた事がありましてね。帰国した時は、同じように質問攻めでしたよ」

「それで、何と答えていたのですか?」

「江戸も夜須も変わらないと。生きている人間は一緒なのです。酒は飲むし、糞もする」


 見掛けによらない汚い言葉に、清記は盃を進める手を停めてしまった。それを一瞥した衣非が膝を叩いて笑った。


「だが、今になって私に質問をしてきた者の気持ちはわかる。江戸はどうでした?」

「夜須と変わりませんよ」

「ふふ。しかし、夜須では大和様が襲われました。その場に私もいましてね。いやぁ、あの時は怖かった」

「話には聞いております」

「東馬殿に救ってもらわなければ、今頃死んでいたでしょうな。それで江戸藩邸での様子はどうでしたか? 菊原様に近しかったとは聞きましたが」


 衣非の視線が鋭くなったような気がした。政事向きの話だ。何か探りをいれようとしているのだろう。酒のせいで緩慢だった頭が、急に回り始める。何と答えようか、何と答えるべきなのか。


「おい、衣非さんよ。主役を独り占めすんじゃねぇよ」


 絶妙な間で、赤ら顔の東馬が割り込んできた。衣非が苦笑して首を振る。


「へへ、清記よ。ちょいと厠へ付き合え」


 袖を掴まれて、清記は立ち上がった。

 厠と言っていたが、東馬は中庭に面した縁側に腰掛けた。手には銚子を持っていた。最初から厠へ行くつもりはなかったのだろう。


「此処らでいいだろう。連中も此処までは来ねぇ」


 屋敷でも奥の方だ。この先は東馬と志月の居室がある。

 東馬に促され、清記も隣りに腰を下ろした。中庭には大きな池がある。派手さは無いが庭は立派なものだ。


「少し飲み過ぎたよ」

「夜風がちょうどいい酔い醒ましになってくれます」

「これは貸しだぞ」

「貸し?」


 思わず聞き返したが、すぐに衣非の受け口顔を思い出して頷いた。


「俺はあいつが嫌いだ。親父がどうして奴を重く用いるか、理解も出来ん」

「それは何となくわかります」

「お前はどうだ?」

「私は好きでも嫌いでもありません」

「お前らしい」


 東馬は銚子の酒を、盃に注いだ。飲み過ぎたと言いながら、まだ飲むつもりのようだ。


「親父に不穏な動きがある」

「不穏、ですか?」

「いや親父というか、その取り巻きだ。親父が襲われた事はお前も聞いているだろう?」


 清記は一つ頷いた。


「あいつらは、刺客を梅岳の手の者と考えていてな。事実、そうなのだろう。そう思うのはいい。俺もそう思っているからな。だが奴らは、その仕返しを目論んでいる。しかも、その仕返しで政権まで奪おうという魂胆だ」

「それはまさか」

「奴らの一人を捕まえて聞き出した。冗談かどうかわからん。しかし、この政局では冗談にはならん」


 大和が襲われて以降、比較的政局は安定していた。だがそれは、単にそう見えるだけだ。安定しているのは、お互いが抜き身の切っ先を喉元に突き付けているからだ。


「その中心にいるのが衣非だ」


 あの男。清記の中で、衣非への殺意がむくむくと顔を出してきた。もしそれが本当であるならば、斬るべきだろう。しかし、斬れば奥寺派は梅岳の仕業だと勘違いして騒ぎだす可能性もある。そうなれば、手の施しようがない。


「大和様は何と?」

「笑っておったよ。そんな事は知らんとな。いくら俺が嫡男でも、取り巻きを除く事は出来ん」


 東馬が更に盃を呷った。清記も、酒に手を伸ばす。飲みたくなる気持ちは痛いほどわかる。


「清記、俺は衣非を斬るつもりだ」

「東馬様が」


 東馬が頷く。


「いけません。もし衣非を斬るというのなら、私がります。東馬殿の剣を、暗殺のような真似で穢してはなりません」

「ほう。清記、自分の剣ならいいという口振りじゃないか」

「私はもう……いや、先程の貸しを返したいのですよ」

「そうさな」


 東馬は横目で清記を一瞥すると、夜空を見上げた。

 月が出ていた。禍々しいほどの満月だった。


「おっ、誰か来るな」


 東馬は気配を察したのか、足音が聞こえたのはその直後だった。

 現れたのは、志月だった。酒肴を乗せた盆を手にしていて、道場で見た若衆髷から女髷に結い変えている。


「志月か。男同士のひと時を邪魔すんじゃねぇよ」

「失礼ですわ。折角、お酒をお持ちしたというのに」


 志月が頬を膨らませ、酒肴を清記と東馬の間に置いた。


「悪かった。冗談だ」


 そこまで言って、東馬は立ち上がった。


「どこへ行かれるのですか?」

「小便だ。その間、お前が清記の相手をしてやれ」

「わたくしは酒は嗜みませぬ」

「話し相手で構わん。どうせなら、慰めてもらえよ。婚約者だった男が江戸で失踪して気落ちしてたんだろ?」

「兄上、左様な事は」


 頬を赤らめる志月を置いて、東馬が立ち去っていく。清記は、婚約者だった安川平蔵の顔を思い出し、俯いた。安川を斬ったのは、自分なのだ。


〔第二回 了〕

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