第二回 獅子身中の虫①
久し振りに、城前町の奥寺家屋敷へ行く事になった。
後ろめたい気持ちがあるが、父の命令だった。屋敷と回廊で結ばれた内住郡代官所で下役に混じって筆仕事をしていた清記の所に父がふらっと現れ、明日は顔を見せに行けと命じられたのだ。
「気にする事はないぞ。先方からの誘いでの」
そうは言うが、それでも気乗りはしないし、何を言われるかと思うと胃が痛い。そんな清記を見て、悌蔵は莞爾として笑うだけだった。
三郎助に支度を命じ、昼過ぎに建花寺村を出た。城下に入ったのは陽がどっぷりと暮れた時分で、その日は百人町の別宅に一泊し、翌日奥寺邸を訪ねた。
「よう清記。久し振りじゃないか」
出迎えたのは、東馬だった。一家の嫡男ながら、わざわざ門前まで出て来てくれた。
「江戸はどうだった?」
「息苦しいところでしたね。私は好きではありません」
「正直な奴だ。まぁ、俺も一緒だが。で、こっちの方は?」
と、東馬は竹刀を握る真似をした。
「流石に人が多いだけはありました。東馬殿と同じ、中西道場に通いましたよ」
「ほう。それは本当か」
東馬が嬉々として声を挙げた。
「ええ。同じ道場に通えば、東馬殿を打ち倒す妙意を得られると思いまして」
「へん。言うようになりやがったな。しかし、それだけじゃ俺は倒せないぜ?」
「さて……、それはどうでしょうか」
「本当に言うようになった」
そう言って東馬は笑い、清記も釣られて微笑んでいた。
不思議と、憂鬱な気持ちは消えていた。やはり自分は、この奥寺家が好きなのだと実感する。
「さ、中へ入れ。親父が待っている」
親父。つまり大和が待っている言われ、清記は生唾を飲みそうになったが、東馬の顔を見たら、何となく気が楽になっていた。
道すがら、中西道場の話をした。強い奴はいたのか? 道場破りは来るのか? 忠太や忠蔵の話をすると、東馬は懐かしそうに笑っていた。
「親父、連れてきたぜ」
自室で書見をしてた大和が、東馬の声で顔を上げた。
「よく来てくれたな」
「ご無沙汰しております」
清記は、大和の前に腰を下ろした。東馬も続くと思ったが、
「じゃ、俺はちょいと出掛けてくる」
と、言い残して去って行った。
その事にやや動揺もしたが、返って話しやすくもなる。清記は、意を決して先に口を開いた。
「江戸から戻ったというのに、ご挨拶もせずに申し訳ございません」
「いや、いいんだ。何でも、代官所で見習いをしているそうじゃないか」
「はっ。ここ数日は領内の巡察をしておりました」
その返答に、大和は何度か首を縦にした。
「それは殊勝な心掛けだ。お前はいずれ内住郡代官を継ぐのだ。私への挨拶より、そちらを優先すべきだ」
大和の言動や雰囲気から、怒りは感じなかった。それで、清記は幾らか安心した。
「お前にとって、江戸には学ぶべきものが多くあったようだな」
「自分という男が、多少わかったような気がします」
「自分という人間か」
と、大和は書見台を脇にずらして、清記を見据えた。
「江戸での事は、帯刀様から聞いている」
「……」
「そう頑なになるな。お前は自分に科せられた役目を果たしたまでの事。その件について、私はとやかく言うつもりはない」
大和の表情は、怒りとは無縁な穏やかなものだった。それが返って不気味でもある。
「江戸で、私は梅岳に負けたのだ。勿論、歯痒くて口惜しい。だが、不思議とお前への怒りはない」
「大和様、その件では……私は」
「もう言うな。これも縁なのだ。しかし、これも一時の事。私が執政となった暁には、私が御手先役を使う立場になる」
清記は、その言葉の意味がわからずに、やや目を伏せて次の言葉を待った。
大和が御手先役を使う? それは使い潰すという意味か、或いは御手先役は道具に過ぎないという意味なのか。
「そうなれば、お前を苦しめたりはしない。平山家を、御手先役の軛から解き放つ事も出来る」
思わぬ言葉に、清記の胸に熱い想いが込み上がった。
この男ならば、この男の下に馳せ参じれば、と思う。だが、その夢を実現させる最大の好機を潰した自分に、その資格は無い。
「これからも、我が家人に稽古をつけてくれ」
「勿論でございます。しかし、よろしいのでしょうか?」
「当たり前だ。お前は東馬の友人で、家人も信頼している。それに、志月もな」
志月の名を聞いて、清記はハッとして目を上げた。大和が微笑んでいた。それが清記の良心を切り裂いた。自分は、何という事をしてしまったのだと。
「さぁ、辛気臭い話はこれまでにして、道場へ行って来い。家人共が待っておろう」
大和との対面を終えた清記は、控えの間で稽古着に着替えて道場に出た。
家人たちが、清記を待ち構えていた。
「先生、御無沙汰しておりました」
「江戸はどうでしたか?」
矢継ぎ早に質問が飛び戸惑いこそ覚えたが、江戸で蓄えた心の穢れを洗い流してくれる心地だった。
「稽古は怠けていなかっただろうな?」
そう言うと、家人達が苦笑いを浮かべて。、
「そんな事をしようものなら、なぁ?」
と、顔を見合わせた。
「さ、稽古をいたします。まずは素振りです」
感情が一切込められていない号令で、家人達が蟻の子を散らしたように道場いっぱいに広がると、その奥に若衆髷にした志月が立っていた。
「よくぞご無事でお戻りになられました」
軽く微笑む。
「ご立派にお役目を果たされたと、父に聞きました」
「江戸では中西道場へ通いました。江戸は人が多いだけあって、骨のある者が多かったですよ」
「左様ですか」
背後では、木剣を振るう気勢が聞こえている。以前にも増して、逞しくなった印象を覚える。
「志月殿はお変わりなく?」
「わたくしは特に。ただ、父が」
刺客に襲われた一件の事だろう。他家の事なので、清記は敢えて触れないでいた。
「その件は聞き及びました。ご無事で何よりでした」
「ええ、今の所はですが……」
確かに、今の所はだ。あの一件が、ただの意趣返しではない事を志月もわかっているのだ。
「志月殿、久し振りにお手合わせをお願いできませんか?」
清記が話題を変える為に誘うと、志月の顔に珍しく花が咲いた。
「ええ、望むところです」
二人が竹刀を持つと、家人達が素振りを止め、
「先生と志月様が手合わせするぞ」
と、嬉々として散らばり、冷やかすように騒ぎ出した。
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