転章

裏の顔①

 扶桑正宗を抜き払うと、陽の光に翳した。

 刀身が、鈍い光を放つ。それがどうしても気になっていた。

 百人町の別宅。晴れた日の午後である。

 清記は猫の額ほどの庭に面した縁側に腰掛け、半刻ばかり扶桑正宗に打ち粉をくれていた。

 この鈍さは、古谷孤月を斬った時に気付いた事だった。肉を断つ手応えに、些かの抵抗を感じたのだ。

 刃毀はこぼれはない。血と脂が刀身を曇らせたのだろう。だが、それも打ち粉で取り除く事が出来る。

 孤月を斬ってから、ひと月。清記はゆったりとした日々を過ごしていた。

 奥寺家の稽古に励み、志月とも笑顔で剣を交わしている。あの日以来、犬山格之助の稽古に呼び出される事もない。

 穏やかな日常が続いているが、清記の脳裏には東馬の鋭い太刀筋が頭から離れないでいるのも確かだった。

 孤月を斃した後、その弟子とやらに清記は囲まれた。そこに突然現れたのが、東馬だった。東馬は抜刀すると、一振一殺いっしんいっさつとばかりに、七人を次々に葬り去っていった。

 東馬は、自らを剣の天才と称した。その大言は偽りではなく、東馬の剣に天賦の才を感じずにはいられなかった。確実に、そして自然と斬り斃していく様は、まるで相手が斬られるのを待っているかのようでもあった。


(そんな東馬に、俺は勝てるのか)


 そう考え、清記はすぐにかぶりを振った。

 東馬は命の恩人である。自分の為に七人も人を斬ってくれた。それだけではない。傷だらけの清記を抱え、百人町の別宅まで運んでくれたのだ。あの日以来、清記は東馬により強い絆を抱くようになっていた。

 三日前には、その東馬にせがまれて波瀬川に鮒釣りに行ったほどだ。釣りは清記の唯一の趣味だが、釣りを教えてくれた父以外の誰かと竿を並べた事はない。釣りは一人でするものと、清記は何となく決めていた。

 五日後に、また釣りに行く約束をしていた。今度は、内住郡を流れる渓流で鮎釣りをする。東馬も釣りが好きなようだった。

 それでも東馬とは、未だ手合せはしていない。東馬が道場に現れても、稽古をしている姿を眺めているだけで、その中に加わろうとしないのだ。清記も、敢えて誘うつもりはなかった。竹刀とは言え、向き合えば本気になってしまう。東馬も、その危うさを抱いているのかもしれない。如何せん、一度は竹刀を交えた相手である。


「清記、志月をどう思う」


 不意に、東馬の言葉が脳裏に蘇った。川べりに座って竿を立てていた時の事だ。

 清記は何も答えず笑って誤魔化すと、


「あいつに縁談の話があるんだ」


 と、告げた。


「相手は、お前より二つ上だ。俺の友人で、志月の事を昔から知っている。剣は無外流。俺達ほどではないが、そこそこ使える上に、長崎で蘭学を学んだ秀才だ。今は江戸にいるが、親父は乗り気だぞ」

「……」

「しかも、相手は志月にぞっこんだ」


 東馬の一言は、衝撃以外の何物でもなかった。

 言葉が見付からなかった。志月が、心惹かれる存在になっていた。波佐見を斬って以来、女に惚れるまいと決めていた。どんな女に出逢っても、心に細波さざなみが立つ事もなかった。しかし、志月は違った。何かが違った。言葉では言い表せないが、今は好きだと、はっきりと言える。

 しかし、それと縁組はまた別の話だ。縁組は、家の行く末を決める大事なものだ。末代までの家運を左右する。個人の感情は優先されるべきではない。


「あいつは、愛想も無い。気も強い。まぁ家事は出来るが、それより剣を好むような女よ。並みの男じゃ手に負えん」


 脳裏には、正眼に竹刀を構えた志月の姿が浮かんだ。狐のような鋭い瞳で、清記を見据えている。確かに男勝りだ。しかし、それが志月の魅力でもある。


「清記、志月をどう思う」


 その質問に、清記は声を詰まらせた。惚れているのだろう? と問われているのだ。東馬は、志月への気持ちに気付いているのかもしれない。だから、敢えて訊いたとしか思えない。

 暫く考えた後、ようやく声を絞り出し、


「芯が強く、優しい女性だと私は思う」


 と答えた。


「なるほどね」


 東馬は軽く笑っただけで話は終わったのだが、清記の心に穏やかならざる騒めきを残した。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「よし……」


 扶桑正宗の冴えが蘇えったのを確認すると、清記は治作を呼んで外出する旨を伝えた。


「帰りは遅くなる。夕餉はいらぬよ。ふゆにも伝えていてくれ」


 これから、ある男に会わなければならない。父の命令だが、気が重い。それ以外に感想が無い男に会うのだ。

 平山家には、御手先役だけではない、もう一つの裏の顔がある。それは銭の為に人を斬る、つまり始末屋としての顔だ。

 御手先役の役目で発生する費用を一切自弁する代わりに、藩庁から黙認された平山家の既得権益である。そこには藩や民の為だという甘い感傷は無い。藩政に関わらない範囲であれば、誰でも斬るのだ。

 清記は、始末屋としての働きが好きではなかった。御手先役と始末屋。人を斬るという行為に、どちらも変わりない。しかし、心の根幹にある支柱のあり様が全く違う。

 御手先役は、忠義である。勿論、お役目の中には首を傾げるものもあるが、御家への忠、民百姓への義があるからと嘘でも信じる事が出来る。しかし、始末屋には銭しかない。幾ら御手先役を続ける為であっても、そこには人間の欲というもの以外に見出せないのである。

 それでも、やらねばならない。御手先役として御家に仇なす者を斬り続ける為に。

 百人町の別宅を出た。

 外は、汗ばむ陽気だった。夏は終わろうとしているが、夜須の夏はまだまだ手を緩めようとはしない。盆地特有の暑さだ。

 待ち合わせの場所は、弁分町にある分限者御用達の料亭〔秀松〕。広い敷地内に離れが幾つもあり、かつ秘密を洩らさぬという躾が、女中から下足番にまで行き届いているからか、藩政を揺るがすような密談が幾度も行われたと、実しやかに語られている店である。

 その弁分町まで、清記は猪牙舟に乗って行く事にした。掘割を張り巡らせた夜須城下では、歩くより舟の方が便利な事もある。


「今は何刻だろうか?」


 舳先に座した清記は、船頭に訊いた。


「さあて、夕七ツほどでしょうか」

「そうか」


 約束の刻限までは、まだ時間がありそうだった。父からは、夕暮れ前に来いと言われている。

 清記は弁分町ではなく、その手前にある御舟町おふなまちで舟を降りた。この町には小さな船溜まりがあり、船頭相手の軽い飲み屋が多い。

 その一つに、清記は入った。時間潰しの為だ。店内は狭いが二階があり、仕事を終えた船頭で賑わっている。

 清記は、端の席に座ると酒を頼んだ。小娘の女中が、笑顔で銚子を差し出す。よく冷えた、薄めていない酒だ。

 それを舐めるように飲みながら、清記は船頭たちの話に耳を傾けた。酒、女、博打の話題。中には、時勢に関するものもあった。ただし、どれも景気のいい話ではない。特に時勢の話は、藩士として恥じ入るものばかりだ。

 藩主の栄生利永は、花鳥風月を愛でるばかりで藩政に興味を示さず、執政の犬山梅岳は、それをいい事に徒党を組んで藩政を壟断している。それに異を唱える奥寺大和の一派もいるが、結局は権力欲しさで民百姓を省みようとはしない。


「結局、お上はそんなもんだ。期待する方がお門違いってもんよ」

「ちげぇねぇや」


 船頭の間で、爆笑が湧き上がる。


(流石は、船頭達だ。物言いに遠慮は無い)


 清記も釣られて苦笑し、猪口を口に運んだ。大和には悪いが、彼らが言っている事は間違いでもあるまい。

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