第六回 隻腕①
失くした左腕がの先が、痒くなった。
二十年。それほどの時間が経っても、この感覚に襲われるから忌々しい。
古谷孤月は鼻を鳴らして、
喉を焼くような刺激。それが徐々に五臓六腑へ染み渡り、微かな酔いを誘ったが、次に孤月を襲ったのは猛烈な気持ち悪さだった。
何かが、腹の中で蠢いている。身の内で飼っている、黒い獣。時折、こうやって暴れ出すのだ。孤月は黒い獣を抑えようと、再び瓢に手を伸ばそうとした時、我慢しきれずに咳き込んだ。それを数回繰り返すと、最後の一回で身体のどこかが破れたような気がした。口を塞いでいた掌に、赤黒い血の花が咲いた。
(あと、どれほど持つか)
そう思いながら、孤月は口の中で広がる血の味を瓢の酒で流し込んだ。
夜須城下から、やや離れた
此処の住職が、自分と同じ深江藩出身だったのだ。知り合ったのは二十年前で、その時も庫裏の一室を宿所としてくれた。
この夜須で、裏街道を歩む第二の人生が始まった。ならば、その第二の人生に決着をつけるのも、同じ場所であるべきだった。血を吐くようになって一年。死期を悟った孤月は、江戸を離れて再びこの地に舞い戻った。
孤月は瓢を置くと、残った唯一の右手を枕に、ごろんと横になった。
夜。障子は開け放たれ、聞こえる鈴虫の音が煩いほどである。
(あの日、短気を起こさねば……)
深江藩士・馬廻五十石の身代も、愛する妻と娘も失う事は無かった。
そう思ったものの、後悔は既に消えている。古谷家は取り潰され、妻は娘を連れて再嫁している。もはや別世界の人間。目を閉じて瞼の裏に浮かんでくるのは、記憶としての光景だけである。
それでも、あの一言は声色と共に耳を離れる事はない。
「松永の家中は、政事というものを知らぬ」
深江藩主・
「奴らに人並みの知恵があれば、夜須のように一揆など起こらぬ。全くもって、ぼんくら揃いよ」
そう言って高笑いをする三人の武士。孤月は一瞬で血が沸くのを、したたかに感じた。
その前年、確かに深江藩では一揆が起きていた。度重なる不作と腐敗の一途を辿る藩政への不満が沸点に達し、三郡六十余村の百姓が決起したのだ。一時は城下にも迫る勢いで、藩兵が撃退されるほどの熱狂だった。それから暫くして、当時の深江藩執政府数名の罷免と引き換えに、一揆は収束した。
確かに、深江藩に秕政はあった。百姓を人とは思わず、牛馬のように考えていた節は、久元のみならず藩士全員にあったと思う。しかしそれに気付いたのは、左腕を失って深江藩を出奔してからだった。あの当時は、一揆勢は叛徒であり藩庁こそ正義だと思っていた。それ故に、居酒屋で耳にした批判への怒りを抑えられなかったのだ。
その場では、何も言わなかった。武士の一団が店を出るのをじっと待ち、席を立つとその後を追った。
暗がりで襲ってやろうと思った。しかし城下ではその機会もなく、諦めかけた時にその一団は〔
(しめた)
と、思った。孤月は剣客。一手指南と所望すれば、正々堂々と立ち合いが出来るかもしれない。そして三日後、孤月は生国姓名を名乗って牛尾道場を訪れた。
立ち合いは木剣。あの日いた三人の腕と肩を打ち砕いた孤月は、道場主の牛尾藤克と立ち合う事となった。この時、孤月は自らの目算が甘かったと気付いた。
道場破りをした際、三人ほど倒せば道場主に奥へ呼ばれ、小金を掴まされて立ち去るのが常だったのだ。しかし藤克はそんな事はしなかった。燃えるような眼で孤月を見据え、木剣を手に立ち上がったのだ。
こうなれば、これも剣客として宿命と孤月も覚悟を決めた。向かい合ってみると半端ではない圧力に肌に粟立った。潮合いを探る対峙は長きに渡り、先に動いた藤克が打ち下ろす木剣を払うと、藤克の喉を突き抜き返す刀で頭蓋を砕いて勝利した。
僅かな差での勝利だった。難敵を退けた愉悦に痺れそうだったが、孤月は我に帰ると道場を飛び出し駆け出していた。
孤月は逃げに逃げた。幸い、舎利蔵峠を越えれば深江藩だったのだ。しかし、峠へ向かう農道で追っ手に追いつかれた。十人。見るからに藩の討っ手という感じだった。剣客同士の立ち合いに、どうして藩庁が介入するのか? そんな疑問に答えるわけもなく、十人の刺客は孤月を襲ってきた。
十人は藤克に比べれば他愛も無かった。六人を斃した後、残った四人は撤退した。それで終わりかと思っていたが、峠を越える辺りで、小さな男に待ち伏せされた。
白髪が少し混じった、その男。後からわかった事だが、平山悌蔵という男だった。
表向きは建花寺流を名乗っているが、その実は夜須藩の御留流である念真流。裏の界隈では名が知れた魔剣だと、後になってわかった。
悌蔵は藤克以上の腕だった。藤克はまだ抗い様があり、事実勝利した。しかし、悌蔵は違う。言うなれば、ぽっかりと開いた大きな穴。向かい合うと、飲み込まれそうな恐怖しかなった。
どれほどの対峙だったか、孤月自身わからない。長かったのか、短かったのか。気が付けば悌蔵は跳躍し、何とか躱せたが左腕が宙に舞っていた。
孤月は叫び声を挙げると、悌蔵に背を向け夢中で逃げた。痛みを堪えつつ、小便を漏らし涙を流して駆けた。崖を転げ落ちながらも、何とか深江藩へ戻る事が出来た。
しかし、左腕を失った孤月に帰る場所は無かった。妻こそ味方をしてくれたが、親族は片腕を失った自分を厄介者扱いをし、事実として不具になった身でお役目に戻る事もままならない。
その上、夜須藩から苦情を受けた深江藩は、一揆の対応で夜須藩に借りがあった事もあり、孤月を夜須藩に差し出そうとしたのだ。
孤月は捕縛に現れた藩庁の役人を斬り、出奔。長い流浪の中で隻腕の剣を磨き、銭で人を斬る腕っこきの始末屋に身を堕としていた。
夜須に戻ったのは、傍から見ると復讐に思えるだろう。事実、最初に襲ってきた四人は屠った。残るは平山悌蔵のみであるが、孤月にとっては復讐というより、けじめに近い。始末屋としての、第二の人生を終える為のけじめ。
「しかし、向こうから来てくれるとはな」
孤月は、懐から小さく折られた書き付けを取り出して開いた。二日前、城下の
書き付けの差出人は、平山清記。あの悌蔵の息子で、老いて病がちの父の代わりに立ち合いたいと記されていた。
三日後の、暮れ六つ。場所は波瀬川沿いにある、庚申塔の傍。今日下見に行ったのだが、背の高い芒に囲まれた寂しい場所だった。此処なら人通りもなく、思う存分立ち合えるとも思った。
何故、俺の事を? という疑問より、
(面白い)
と、孤月は思った。おおよそ、こちらの事を調べ上げ、逃げない事をわかった上で、このような果たし状を送り付けたのだ。平山清記という男の腕こそわからないが、あの悌蔵の息子。その父に代わって挑んでくるのだから、それなりのものという事は期待出来る。
清記に斬られればそれまで。見事斃せば、悌蔵を襲うまでだ。
「古谷殿」
襖が開いて住持の老僧が顔を出したので、孤月はゆっくりと身を起こした。
「こんな夜更けですが、おぬしにお会いしたいという方が来られておるが」
「客?」
孤月は訝しげに訊いた。夜須藩に知り合いはいない。すると、捕吏がここに辿り着いたという事か。果たし状の件といい、あり得ない事もないが、捕吏なら客とは言わず踏み込むはずである。
「しかし、お武家ではないのう。見掛けは渡世人のようじゃが、そうではないのう」
「ふむ。……ご住持、本堂に通してくださらぬか」
「本堂じゃな。しかし、血で穢してくだされるなよ」
勿論、武士が変装している可能性もある。孤月は
「それは相手次第ですよ」
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