第二回 奥寺家の者たち②

 清記と大和が乗った猪牙舟ちょきぶねは、掘割から支流を経て浪瀬川に出た。

 櫓は清記が使った。そうしろと言われたのだ。船頭を雇わなかったのは、内密な話があるからだろう。


「ここらでいいだろう」


 大和がそう言ったので、清記は櫓を止めた。

 舟が、ゆっくりと揺れている。風が無風に近く、川面の流れも緩やかだ。

 それでも行き交う船は多く、船頭達が忙しく働いている。浪瀬川は夜須藩に於ける、河川舟運の大動脈なのだ。清記達の舟の周囲では、頻繁に大小様々な船が往来している。


「腹が減ったな。先に弁当を食ってしまうか」

「ええ」


 弁当は、握り飯と茹でた卵に塩をまぶしたものだけだ。茹でた卵には、これでもかというほど塩がまぶされている。これは大和のお気に入りらしい。それを二個ずつ平らげると、空いていた腹も満たされた。

 蚯蚓を餌に、二人は左右に分かれて竿を出した。

 この川で釣れるのは、鮒・追河・鯉・鰻・鯰といったところだ。鮭も時に釣れるというし、上流では岩魚や山女魚も釣れるという。清記は浪瀬川で釣りをする事は、数えるほどしかない。いつもは、内住郡内の渓流で鮎を狙っているのだ。

 竿を出して、最初に魚信アタリがあったのは清記だった。

 浮きが二度上下し、手元に震えが伝わる刹那に竿を上げると、銀色に輝く見事な鮒だった。


「おお」


 釣れた清記を一瞥し、大和はそう一声を挙げただけだった。

 それから半刻、無言で竿を出した。清記は鮒を二匹、鯰と鰻を一匹ずつ釣り上げたが、大和は小さな鮒を一匹だけだった。


「釣りも儂の負けか」


 竿を片付けた大和が、悔しそうに言った。


「釣りは時の運もございます」

「そう言われると、余計に腹が立つ」


 清記は軽く微笑んだ。大和の怒りが冗談だとわかるのだ。最近になって、ようやく大和という男の機微が掴めるようになってきた。

 根は直情的である。しかし、長年の城勤めで熟れてきた腹芸で、元々の性格を抑え込んでいる。だから、この男に好かれるには、上辺ではない根の部分で付き合った方がいいのだ。自分を偽れば、この男も偽る。そんな男だと、清記は思っている。


「まぁ、いい。負けた俺が釣った魚を料理してやる。泥を吐かせるのに、暫く間がいるがな」

「料理は、腕の立つ板前にさせてくださいね。鮒は甘露煮、鯰はすっぽん煮で」


 すると、大和が目を見開いて驚いた。


「お前、変わったな」

「そうでしょうか」

「ああ。志月も変わった。鹿毛馬での後からな。一体、何があったのだ?」

「いえ、別段に何も」


 確かに、志月を見る目は変わった。いや、それより以前から変わりつつあったが、鹿毛馬での笑みは、清記の心を突き動かすものがあった。


「ふん、ならいいが」


 と、大和が瓢と盃を差し出した。中は酒。清記は素直に受け取り、酒を満たした。


「梅岳様のお屋敷に、お前が出入りしていると耳にした」


 その事か。清記は、飲み干した盃を置くと背筋を正した。いずれ来る問いだとは、覚悟していた。どう返事をしようとも考えていた。しかし、その答えは出ぬまま今を迎えている。


「ええ」

「格之助様に剣の手ほどきをしているんだろ」

「はっ……」

「おいおい。お白洲の罪人じゃあるまいし、そう神妙な顔をするな。別に俺は咎めようとか、そんなつもりじゃない。そもそも、お前は家来でもないしな」

「しかし、申し上げるべきだとは思っておりました」


 そう、言うつもりだった。しかし、機会が無かった。いや、勇気が無かったのだ。


「だから、いいと言ったであろう。お前に剣を学ぶのは、悪い事ではない。しかし、まぁ……大変だな、お前も」

「……」

「平山家が担う役目、その過酷さは知っているつもりだ。生半可な事ではない。それと同時に、時の権力者とも上手に付き合っていかねばならぬし、その権力に翳りが見え始めた時には、新たな権力者を見分けねばならぬ。お前のご先祖はそれで苦労したと聞いた事もある」

「ええ」


 清記は、悌蔵の話を思い出した。平山家六代当主の兵衛が、当時の執政に恨みを買い、酷使された挙句に気を病んで実弟に斬られている。


「見分ける節目を、もうすぐ迎える。いや、迎えるべく動いている。国元でも江戸でもな」

「つまり、大和様が」

「多少の事は耳に入っているようだな」

「……ええ」

「梅岳に、儂の動向を調べろとも言われたかな?」


 大和が酒を一息で呷ると、意地悪気に笑む。こうして笑うと、まるで少年のようだ。


「ふふ、すまん。答え難かろうな」

「そんな事はございませぬが」

「儂は、おぬしを信じている。いや、疑わないと言うべきかな。志月がおぬしを信頼しているように」


 清記は、視線を大和から逸らした。

 川面に浮かぶ水鳥の群れ。潜っては、獲物を魚を狙っている。そして、西の方角には夜須城。四重五階の天守閣が、午後の陽を浴びて輝いている。


「梅岳がこのまま執政の座にいてはならぬ」

「それは、どうしてでしょうか?」


 視線を戻すと、大和が射貫くような鋭い眼を清記に向けていた。


「それを聞けば、おぬしは奥寺派という事になる」


 心はそうだ。この男が執政になればいい。そうは思うが、清記は未だ後継ぎの身分に過ぎない。そして、どちらかに肩入れするという事は、平山家にとって大きな博打でもある。


「その覚悟はあるのか?」


 清記は、静かに頭を振った。


「私はそれを決める立場にございません」

「悌蔵殿が決めた道に従うか?」

「その道が目指す先によります。もし意に沿わぬ場所を目指すのであれば、嫡男として異議は申し上げます」

「見事な答えだ」

「見事、でしょうか」

「ああ。家督を継ぐ者の答えとしては、これ以上にない答えだ。うちの東馬は答えられまい」


 東馬、という名に、清記の身体が一瞬だけ反応した。


「梅岳は、禁じられた商いをしている」

「大和様、それ以上は」


 聞きたくはない。聞けば、梅岳へ報告しなければならない。


「商人や裏の者と組んでな。それは、この国では決してやってはならぬ事だ。……そこまで言えばわかるであろう?」


 抜け荷の事だ。幕府は、大名家が許可を得ずに外国と交易する事を禁じている。梅岳は、それを秘密裏にしているというのか。


「一度で莫大な利を生むが、公儀に知られれば御家が潰れてしまう」

「私は」

「聞いてくれ、清記。このままでは、御家が潰れてしまうかもしれないのだ。公儀が動いている。いつ暴かれるかわからぬ今、いち早く証拠を掴んで梅岳に身を退いてもらうしか術はない」

「証拠は無いのですか?」

「ああ、無い。しかし、確信はある。証言もある。だが、それでは梅岳は何とでも言い逃れが出来る。欲しいのは、動かぬ証拠なのだ。その為に、私は藩主家一門衆のさる御方とも組む事になった」


 藩主家一門衆。その言葉が、大和の話に真実味を与えた。本気なのだ。大和は本気で、梅岳を潰そうとしていると。


「大和様は、私に何をしろと」

「梅岳を斬れ、とは言えぬ。言いたいが、言えぬ。儂はその立場にないからな」

「平山家を潰す事になります」

「だから、頼む。梅岳が、抜け荷に関わっている証拠を掴んだら、儂に報せてくれ。いや、小さな情報でもいいのだ。頼む」


 大和が頭を下げる。清記は慌てて、それを制した。


「大和様。もし、梅岳様が抜け荷をされておられるのなら、私も黙ってはおれません。その際は、大和様に相談するでしょう。あくまで、栄生家の一家臣としてでございますが」


 大和が深く頷き、白い歯をみせた。


「清記、帰ろうか」


 この時、初めて大和が下の名前で呼んでいる事に気付いた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「もし」


 大和を送り届けた清記は、奥寺邸を出た所で呼び止められた。

 死にそびれた蜩が鳴き、それを断ち切るように遠くで夕七ツを告げる鐘が聞こえた。

 振り向くと、旅装の武士が立っていた。深編笠を被っていて顔は見えないが、旅塵で模様すら判別出来ない着物を見るに、相当な長旅をして来たのがわかる。


(浪人か)


 清記は、一歩ほど後ろに下がった。別段敵意などは感じないが、抜き打ちが届かない範囲に身を置くのは、剣客として生きる者の習性というものである。


「平山殿とお見受けするが」


 落ち着いた声だった。その中には、若干の親しみもある。


「左様」


 雷蔵は怪訝な声色で応えた。

 背が高く、手足が長い。自分の周りには見掛けない風貌である。


「貴殿は?」


 誰何すいかすると、男は口許を緩ませ、


「久しいな、平山殿」


 と、塗笠の紐を解いた。


「あなたは」


 旅装の男は、奥寺東馬だった。

 清記がそう言うと、陽に焼けた精悍な顔に、満面の笑みを湛えた。

 清記は、全身が痺れるような感覚に襲われた。いよいよ、東馬が帰ってきた。


「江戸から戻られたのですね」

「方々寄り道をして、いまし方。それより、まさか平山殿が当家の剣術指南役をされているとは」

「お聞き及びでしたか」

「志月がな、手紙で知らせてくれたよ。平山殿が志月に勝った事も、命を救った事も含め」


 そう言って、東馬は闊達に笑った。この男には、豪放な笑顔が良く似合う。


「これはお恥ずかしい」

「いいや、私は嬉しい限りだよ。平山殿なら安心して任せられる。何せ、あの志月が認めたぐらいだ」

「しかし、私は東馬殿に敗れた身。このお話をお引き受けするのには勇気がいりました」

「なぁに、気にする必要は無い。勝負は時の運。私がたまたま勝っただけの事。それに真剣ならば勝負はわからん」

「負けは負けです」

「では、もう一度私と立ち合うか?」


 東馬は、一瞬だけ真剣な表情を見せた。が、すぐに、


「戯言だよ」


 と、笑い飛ばした。


「近々、酒でも飲もうではないか。志月が何度もおぬしの事を書くので、私……いや俺はすっかり友人のつもりでいるよ」

「ええ。そうしましょう」


 東馬が咳払いをする。固いという事だろうか。清記は黙礼し、歩き出した。


〔第二回 了〕

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