転章

女剣士①

 この日、芥田地蔵院あくだじぞういんで縁日が開かれていた。

 芥田町あくだまちにあるこの地蔵院は、下野に於ける地蔵信仰の中心地であり、地元だけではなく広く関東各地から崇敬の念を集めていた。

 そんな芥田地蔵院であるので、縁日ともなれば大勢の参拝客が押し寄せる。門前通りには出店が立ち並び、これがまた人手に拍車をかけるのだ。

 そんな人混みに行き当たった時、奥寺志月は思わず深い溜息を漏らしていた。視線の先には、無邪気に縁日を楽しむ親子連れがある。

 ここ数日、志月は鬱屈した日々を過ごしていた。

 それは、十日前。夜須藩執政の犬山梅岳が、藩政立て直しを目論む激徒に襲われたのだ。

 その事自体はどうでもいい。梅岳は煮ても食えぬ奸物。いずれは父・奥寺大和の障害になるはずだ。しかし、襲撃した激徒の中に、多くの知人が参加していたのだ。

 家人の倉持平次。そして、その倉持が通い、志月自身も高弟の一人に名を連ねる一刀流小関道場の面々。いや此度の襲撃は、寺小屋の師匠だった西辻源馬と、小関道場の師範代・小関忠五郎率いる門弟達によって引き起こされたようなものだった。そして、襲撃は返り討ちに遭い失敗した。


(いっその事、討ち取っていれば……)


 御家にとっても領民にとっても、そして自分にとっても、どれだけ良かった事か。

 志月は、自らの下唇が白くなるまで噛み締めていた

 まず、父が家人から下手人を出した事を詫び、中老の座を辞して蟄居すると言い出したのだ。また、門人から多くの参加者を出した師範・小関弥蔵おぜき やぞうは、己の指導不足を恥じ、道場の解散を決め隠居を申し出た。

 それに対して、梅岳は西辻一党以外の誰も罪に問わなかった。


「不満が噴出するような政事を為した儂にも責任があるからの。下手人は兎も角、その一族に類が及ぶような真似はするな」


 と、厳命したのだ。

 その真意はわからない。それでも父は辞職し蟄居を続けようとしたが、利永が直々に留任を命じた為、三日前から出仕している。

 一方の弥蔵は、それでもお殿様と梅岳に申し訳が立たぬ、と同じく三日前の深夜に自刃し果てた。

 御歳六十になる老師の死は、隠居を許されなかった時点で予想出来るものであったが、止めようもないと諦めていた。罪に問われず、おめおめと誇り高き老師が生きれようもない。

 弥蔵の死を伝え聞いた梅岳は、顔を歪めて首を静かに振ったと父に聞かされた。


「執政の命に背いたのだ。お取り潰しは免れまい」


 そう父が心配したのだが、昨日小関家の家督が、嫡男の弥之助やのすけに相続される事が発表され、小関道場の再建が命じられた。

 ただ、弥之助は剣の才能に恵まれておらず、道場の経営には関わっていない。故に小関道場で緊急の合議が行われ、高弟の中から最年長にして経験豊かな橋尾長内はしお おさないが満場一致で選ばれ、小関長内として道場を引き継ぐ事と決まった。

 当然、志月も高弟の一人として合議に参加し、長内を推した。

 長内は、


「私では、腕も格も到底足りんよ」


 と、師範就任を固辞した。しかし、今の小関道場に必要なものは剣の腕ではなく、門人を率いる指導力である。その点、長内は申し分ない。人柄がよく、皆に好かれているのは明らかだった。

 かくして、小関道場は新たな一歩を踏み出し、今日が初めての稽古だった。

 久し振りに流す汗。それでも志月の気持ちは晴れなかった。

 いや、晴れようはずもない。恩師である弥蔵、兄弟子の忠五郎、そして同門の友、家人である平次。多くの者が命を落とした。その兆候を、傍にいながらも気付かなかった。今思えば、佐與郡に行ったのもその為だとわかるが、何の疑念も抱かなかった。その己の鈍感さに腹が立つ。

 そして、梅岳の寛大過ぎる沙汰にも疑問が残る。噂話でしか知らないが、執政は甘いだけの男ではない。それに評判も悪い。奸臣と呼ぶ者もいて、自分に歯向かう者は全て叩き潰してきたという話を、志月は聞いた事がある。

 何か、魂胆があるに違いない。藩庁の政争に疎い自分でもそう思うのだ。皆も、梅岳の沙汰には違和感を覚えているはずだ。


(それにしても、平山殿だ)


 志月は、朴訥とした清記の横顔を思い浮かべた。

 あの日以来、清記は屋敷に姿を見せてはいない。何とも薄情な男だ。奥寺家の風向きが悪くなると、姿を見せなくなる。巻き込まれたくない気持ちはわかるが、あの男はそんな事など気にしないと思っていた。


(あの男ならば、と思ったわたくしが馬鹿だった)


 あの男ならば。何で、あの男ならと考えてしまったのか。志月は慌てて頭を振って、家路を急いだ。




 志月が屋敷の異変に気付いたのは、翌日の事だった。

 長い廊下を家人が小走りで駆け、父・大和の居室に駆け込んでいる。


(何事かあったのだろうか)


 志月は、障子窓からその様子を眺めていた。家人達の表情は一様に深刻そうであり、後から家人だけでなく奥寺家の縁者も続々と集まってきている。急遽呼び出されたのだろう。


(これは只事ではあるまい)


 志月はおもむろに立ち上がると、女中頭を呼んだ。噂好きで知られる女中頭に訊けば、大抵の事はわかる。おおよそ、家中の事は彼女の耳に集約されるような作りになっているのだ。

 しかし、その女中頭ですらも知らないと言って、首を傾げた。


「ですが、ただならぬ雰囲気に奉公人達は心配しております」

「そうですか」


 家人から罪人を出した後だ。奉公人達も、色々と過敏になっているのだろう。


「仕方ない。わたくしが父上に訊いてまいりましょう」


 志月は父の居室の前に控えると、


「父上、少しよろしいでしょうか」


 と、声を掛けた。

 やや遅れて、障子が開く。中には、主立った家人や縁者の面々が顔を突き合わせ、何やら談合をしていた。


「志月か、如何した?」

「父上、何事でございましょうか? 先刻から騒々しゅうございますが」


 すると、親戚の一人が咳払いをした。女は口出しをするな。そう言いたげな咳払いだった。しかし、志月は敢えて無視をした。斯様なものを一々相手にしていては、女の身で剣術などやってはいけない。


「こうも慌ただしくされては、屋敷の奉公人達が心配いたします」

「なるほど。それは悪かったな。領内で厄介事が起こってな、その相談だ」


 そう言った大和に、一同の視線が集まった。しかし、大和は


「まぁまぁ」


 と、それを抑えた。

 女に話すつもりか。そうした非難があるのだろう。だが、志月は構わず続けた。


鹿毛馬かけのうまでございますか」


 大和が頷く。

 口原郡くちのはらぐんに、鹿毛馬村とそれ一帯に九百石ほどの領地がある。その経営は家人の役方に任せていて、村を訪れるのは年に三回あれば多い方だ。


「そうだ。お前は、松井直四郎を知っているか?」

「ええ……」


 勿論だった。松井は、小関道場の門人で梅岳襲撃の犯人でもあるのだ。剣の筋は中々で、稽古で立ち合うと志月は彼の発する異様な圧を絶えず感じていた。

 その松井は、今もって捕縛されていなかった。運よく合ヶ坂から逃亡し、その消息は杳として知れない。


「その松井は、藩外に逃れたと思っていた。事実、目撃した者もいたからな。しかし、今朝藩庁から使者が遣わされて、松井が鹿毛馬一帯に潜伏していると報せて来たのだ」

「なんですと」

「それだけでないぞ。執政府の中には、俺が松井を匿っている、或いは西辻を使嗾しそうして犬山様を襲わせたと疑っている者もいる」

「誰が斯様な戯言を。……まさか」


 すると、大和は首を横にして否定した。


「犬山様は何も言わん。喚いているのは、その取り巻き連中だ」

「さりとて」

「黙れ」


 父と梅岳の軋轢は、志月も承知している。そして着々と派閥を形成し、犬山派独裁の藩政に風穴を開けんと画策している事も。そうすると、これは梅岳が父を蹴落とす為に仕掛けた罠かもしれない。


「何とも悪辣な……」

「謀略か偶然かわからん。差し当たり、俺は釈明の為に登城しなくてはならん」

「藩庁は鹿毛馬に踏み込むのですか?」

「いや、使者が申すには二日待つとの事だ。それまでに捕縛、或いは首を差し出せばいいと。出来ぬ場合は、まぁ責任を取らされるだろうよ」

「父上がこのまま虜囚の身になるという事は?」

「それは心配あるまい。この件に関して、犬山様は〔その気〕が無さそうだからな」


 父の物言いから、志月はやはりと悟った。一連の事件の背景には、梅岳の策謀がどこかで絡んでいるのだ。そして、それを父は心得ている。だから、敢えてその気が無いと言ったのだ。


「ならば、急いで鹿毛馬へ向かい、松井を討たねばなりませぬ」

「ようも簡単に言うてくれるわ、この悍馬かんばは」


 そう呆れ気味に言ったのは、一族の長老格である奥寺権六おくでら ごんろくである。大叔父であり最年長なので、何かと相談役を買って出ているが、志月にとっては口うるさいだけの存在だった。


「ですが、大叔父様。松井を討つ他に名案がおありですか?」

「無い。が、何処に潜んでいるのかわからぬではないか。鹿毛馬の周囲は山だらけじゃ。それに松井は、中々に使うのだろう?」

「しかし、行かねば何も始まらぬではございませぬか」

「問題は誰が行くかじゃ」


 なるほど。それで、皆が一応に難しい顔をしているのか。志月は目を伏せ、一人得心した。

 松井は高弟の一人ではないものの、ここにいる者が敵う相手ではないという事は明白だ。せめて父ならばとは思うが、登城しなければならない。


「斯様な時に東馬めがいれば任せたものを」


 権六が言い、大和が頷いた。確かに、兄がいれば何も問題はない。すぐに松井の首を持ち帰ってくることだろう。しかし兄は今、江戸へ武者修行中だった。


「私が参ります」


 志月は、伏せていた視線を上げて言った。


「何と?」

「私が鹿毛馬へ行き、松井を討って参ります」

「馬鹿を申すでない。女のお前に何が出来る」


 大和よりも先に、権六が怒鳴った。この大叔父はいつもこうだ。剣術をする事を女らしくない、詰ってくる。だからか、権六の娘や孫達は、お淑やかで置物のようだ。そして、男装をして剣術に励む自分に、奇異の視線を投げかけるのだ。その度に、志月は自分とは違うのだと、心に蓋をした。


「兄上ならまだしも、奥寺家の大事を女のわたくしに敵わぬ者に任せてはおけませぬ」


 と、志月は円座を見渡した。


「それとも、この中に剣でわたくしに勝る御仁がおりますでしょうか? 一刀流小関道場の高弟であるわたくしに」


 流石の一言に、誰しも押し黙った。

 その静寂を破ったのは、大和の苦笑だった。


「志月、皆をいじめるのはその辺にしろ」

「わたくしが父の名代として参ります。それでよろしいでしょうか」


 大和が仕方がないという風で受け入れると、権六が反対の声を挙げた。

「いや、あやつがおるではないか。ほら、剣術指南役の……」


「平山清記殿ですね」

「そうじゃ。あやつなら、我々を助けてくれよう」


 大和は妙案だという顔をしたが、志月が首を横にした。


「父上。もし平山様に頼めば、奥寺家の恥となりまする。奥寺大和は、自らの領地も守れぬのかと、嘲られましょう」

「そうだな。……仕方あるまい。今の奥寺家中で志月に敵う者はおらん。儂含めてな」


 決定が下されると、志月は静かに立ち上がり皆に頭を一つ下げた。

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