最終回 謀略の坂②

 波多野が呼び出しに現れると、清記は百目蝋燭の下、素早く襷を身体に巻き付けた。黒装束に襷の白はよく栄えた。

 刻限は、夜は五つにはなっているだろう。握り飯と全体に塩をまぶしたゆで卵で、小腹を満たした所だった。

 漬物屋の玄関に出ると、主税介と乙吉が待っていた。清記の顔を見て、乙吉が口を開いた。


「梅岳様が、駕籠に乗られて秀松を出られました。ご到着はそろそろかと」

「そうか、いよいよ来るか」


 清記は、慣れた手つきで頭巾で顔を隠した。この恰好では、目尾組の忍びのようだ。


「ご武運を」

 波多野が頭を下げたので、清記と主税介は頷き勝手口から外に出た。


 月が煌々と照らす夜。縫うようにして、町屋を駆け抜けた。元々、町屋より田畠が多い町だ。人の声は聞こえず、町全体が寝静まっているようだった。


「あれだ」


 天水桶に身を隠した清記は、後に続く主税介に囁いた。

 坂を下った先。四人に護衛された駕籠が、合ケ坂の緩やかだが長い坂を登り始めていた。

 十間先で、人影が浮かび上がってきた。一つ、二つ、とその数は増えていった。こちら側からは見えるが、下からは見えない隠れ方をしている。

 梅岳が乗った駕籠。近付いてくる。清記は、扶桑正宗に手を回し、柄を絞った。

 西辻一党の目の前に、先頭の護衛が差し掛かる。


(このまま、梅岳を討たせるのはどうだろうか?)


 ふと、そんな考えが頭を過った。出来心だが、その方がいいに決まっている。

 梅岳は奸臣である。藩政を牛耳り、目障りな人間は容赦なく叩き潰し、貪官汚吏たんかんおりを生み出している張本人だ。西辻一党に本懐を遂げさせるのだ。その方が、領民にとっては幸福ではないのか。


「斬奸」


 絶叫が、清記の思考を遮った。白刃が、梅岳が乗った駕籠に殺到していく。


「兄上」


 主税介の声。しかし、清記は襲われる駕籠から、目を離せなかった。駕籠の周囲には、護衛の四人と駕籠舁きが囲み、西辻一党と斬り合いを演じている。もしも、このままなら。


「兄上の身勝手で、平山家が滅びまするぞ」


 ハッとした清記は、弾けるように坂に飛び出していた。

 扶桑正宗を抜きながら、坂を駆け下りる。主税介も後に続いた。


「新手か」


 頬かむりをした一人が叫んだ。白刃が、幾つかこちらに向いた。


(それでいい)


 清記は扶桑正宗を水平に構え、飛び込んで来た一人の胴を抜いた。振り向き、上段から斬り下ろす。返り血を浴びた。その隙に、横から刺突が伸びてきた。清記はそれを跳躍で躱すと、一瞬落凰を使うべきか迷った。

 しかし清記はそのまま着地し、振り向いた首を刎ね飛ばした。

 横目で、主税介を一瞥した。敵と護衛の間に躍り込み、愛刀の胴田貫を奮っている。


「邪魔をするな、奸臣の走狗いぬ


 斬光。清記は扶桑正宗で、その白い光を撥ね挙げると、返す刀で頭蓋から鎖骨までを両断した。


「先生」


 敵の一人が、思わず叫んだ。目を落とすと、馬面が柘榴の割れていた。


「西辻源馬を討ち取ったぞ。無理には追わん。退け」


 清記は腹の底から叫ぶと、


「小関忠五郎も死んだ」


 との声が続いた。それで敵に明らかな動揺が走った。

 忠五郎を斬ったのは、主税介だった。足元に忠五郎が斃れている。ただ主税介も無傷ではなく、左肩の部分が裂けていた。


「退け」


 残った三人の中の誰かが言った。一斉に退き始める。清記は逃げていく三人の背を眺めつつ一息吐くと、


「追え」


 という、声が聞こえた。振り向くと、梅岳が立っていた。


「追うのじゃ」

「しかし、梅岳様は」


 手下は逃がしても構わんと言った。声には出さなかったが、梅岳には通じているはずだ。


「追え。そして、討てるだけ討ってこい。でなければ、死んだ護衛に申し訳が立たん」


 梅岳の足元で、護衛が一人斃れていた。他にも、駕籠舁きが片腕を失ってのたうち回っている。


「はっ」


 清記は、三人を追って駆けだした。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 坂を駆け下りていくと、男が一人立っていた。

 筋骨逞しい、牛のような体躯をしている。


「これ以上は追わせん」


 男はそう言うと、ほっかむりを脱ぎ捨てた。


「お前は」


 男は、倉持平次だった。黙って血刀を正眼に構えた。

 何故、お前が。どうしてお前がここにいて、襲撃に加わっているのか。清記は、眩暈すら伴う衝撃に、思考が追い付かないでいた。


「死ね」


 平次が踏み込んで来た。

 刺突から始まる、電光石火の連撃。竹刀稽古には無かった、凄まじい太刀捌きだ。清記はその全てを弾き、躱し、受け切ったが、その鋭さに心底驚いた。この男は、自分と同じだった。真剣にこそ、己の剣才を発揮する男だったのだ。


「退け」

「何を今更」


 平次は構えを八相に変えた。

 今、頭巾を脱げば平次は翻意するかもしれない。しかし、それは許される事ではなかった。もしここで平次が助かっても、顔を知られるなという梅岳の命に背いたとして、平山家が危うくなる。

 清記は、静かに扶桑正宗を下段に構えた。

 平次の闘気が燃え上がっている。その圧に清記は応じず、ただ受け流した。


(逃げてくれ)


 そう念じた。しかし、平次の闘気は今にも弾けそうなほど高まっていた。こうなれば平次が諦めるまで、ひたすら防ぐしかない。


「斬奸」


 絶叫のような、気勢。八相から、平次が踏み込んで来た。

 斬り下ろしか。清記は余裕を持って弾こうとした時、平次の刀が変化した。


(まさか)


 平次の刀が沈む。やめろ。それを使うな。翡翠を使えば、俺は。 

 そう思った刹那、清記は月夜に跳躍し、虚空で咆哮していた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 五日後、清記は梅岳に呼び出されていた。

 場所は、くだんの秀松。その奥座敷である。季節は、ゆっくりと秋になろうとしていた。


「いやはや、おぬしには世話になったな」

「いえ」

「もっと早くに席を設けたかったが、色々と忙しくてのう」

「ご多忙の中、私のような者に心を割いてくださっただけでも嬉しく存じます」


 梅岳が襲われた事件は、衝撃として藩内に知れ渡った。すぐに残党狩りが始まり、その追及は一族にも及ぼうとしたが、それを止めたのは梅岳自身だった。


「不満が噴出するような政事を為した儂にも責任があるからの。下手人は兎も角、その一族に類が及ぶような真似はするな」


 と、命じたという。この判断は、市井では好意的に受け止められていた。その話を聞いた清記は、思わず顔を歪めてしまった。もしかすると、今回の件を梅岳は人気取りに利用したのかもしれない。


(事前に止めようと思えば止めれたのだ。平次が死ぬ事もなかった)


 やはり、この男は汚い。その汚さは、為政者としては必要な資質かもしれないが、周囲には毒でしかない。

 奥寺家も、意気消沈していた。師範代を失った志月は塞ぎ込んでいるし、大和は家人から襲撃犯を出した事を梅岳に詫びた。当然、梅岳は大和を罰する事もなく、鷹揚とした態度で謝罪を受け、


「家人が儂を襲ったからという理由で、おぬしを取り調べたのなら、儂はお殿様も取り調べねば、筋が立たなくなるからの」


 と、笑ったという。襲撃犯の中では、無足組の下士が一番多かったのだ。


「穴水はどうしておる? 傷はどうかの」

「大した傷ではございません。僅かに縫いましたが、支障は出ないと申しております」

「それは良かった。穴水には追って使者を遣わそう。その前に伝えておってくれ。この梅岳、穴水の忠心に感服した。深く感謝しておる、とな」

「はっ」


 清記は、軽く目を伏せた。


(狸め)


 しかし、内心では怒りが沸いた。主税介を貶めてからの、この言い様。主税介の事だ。深く感謝し、梅岳に傾倒するやもしれない。この男はそうして人を操るのだ。


「しかし、愚かなものよ。この梅岳亡き後を継いだ者が、儂のようにならんとは限らんし、儂以上の奸臣になるやもしれんというのに」

「……」

「おぬしが好きな、奥寺大和のような清廉な士であってもの」


 清記は何も応えず、ただ飲み干した空の猪口に目を落とした。梅岳は相変わらずの薄ら笑みだ。しかし、目の奥は鋭い。相手がどんな言葉でどんな表情を浮かべるのか、つぶさに観察している風がある。


「人は変わるぞ、清記。儂もそうだったのだよ。かつて、御家は栄生十六家に牛耳られていた。戦国の御世に先祖が功を為したというだけで、大禄を食む無能者が、政事を双六の駒のようにして遊んでいたのだ。それを変えようと、儂は誠志を抱き執政を目指した。それが、今の悪評よ」


 梅岳は一笑し、銚子を清記に差し出した。


「まぁ、それも仕方あるまい。綺麗事では立ち行かぬのが政事。御手先役のお前ならわかるであろう?」


 清記は返す言葉が無かった。梅岳の言葉は否定したい。しかし、否定出来ないからこそ、御手先役としての平山家が存在するのだから。


〔第二章 了〕

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