針仕事に隠れ笑い

夏野篠虫

先輩と後輩

 ある火曜の23時を回った駅前は人影が減らなかった。飲み会帰りの大学生グループは缶チューハイを振り上げて3度目の乾杯を交わした。それを横目に足を速める会社員達はくたびれたスーツで改札を目指した。秋本沙都美と同僚の坂田優子もその流れに続いた。

 明暖色の服と明るい茶髪にいつも濃いメイクの沙都美と黒系の服に黒髪のナチュラルメイクの優子。彼女たちの職場は駅ビルの20階で、プロジェクトリーダーの沙都美は同じチームの優子と4日目の残業を終えたところだった。2人はビルの2階と駅を繋ぐ道を通って駅前広場に差し掛かったところだった。

 広場は駅の向かいに植え込みがあり低木の垣根と花が、今はイルミネーションも施されているため、この時間でも消灯前に見にくる人がいる。沙都美たちには慣れた景色であるが、自然と目が向くくらいには煌びやかな明かりを放っていた。

 ただその日に目を惹いたのは電飾の輝きではなく、その下に座る1人だった。

 その人物はイルミネーションを見ず、駅の方を見ていた。その視界にはビルの壁面ガラスしか入っていないはずだ。

「あの人何してるんだろ」

優子が沙都美に話しかけた。

「誰かと待ち合わせじゃない?」

「にしてはなんかおかしくない? 雰囲気というか様子が」

 優子の言葉に沙都美はPC業務で疲弊した目に力を込めてその人物を見直した。白シャツにズボンだが真冬にコートもダウンも着ないでカラフルな光に照らされた姿は、確かに陰鬱な空気を纏っていた。

「――え、女の人?」

 沙都美は男性だと思っていたため余計に驚いた。異様な雰囲気の人物は沙都美と同年代らしきショートヘアの女性だった。

「体調悪いとかかな」

「そうかも」

 優子に同意した沙都美は駅に背を向け、しゃがみ込む彼女の元へ歩いた。優子も後に続いた。

「大丈夫ですか」そう声をかけようとした時、もう一つ勝手な思い込みをしていた事に気づいた。

 白の長袖を着ていたはずの彼女の両腕は実は何重も包帯を巻いていたのである。白い包帯は所々赤茶色にじんわり染まっていた。

 彼女は足を止めた沙都美に気づくとバッと顔を上げて立ち上がった勢いのまま駅へ走り去った。

 急な動きに後ろの優子は何があったのか掴めなかったが沙都美も呆然と立ち尽くした。

「芽衣……?」

 走り去る寸前の彼女と目が合った時、沙都美は10年以上前の記憶を復習するのように噛みしめた。大学時代に同じサークルにいた内気で目立たない彼女――倉田芽衣――のことを。

「沙都美、大丈夫?」

 優子の声ですぐ現実に引き戻された。

 いつのまにか出ていた額の汗を拭って、沙都美は笑顔で優子に振り向き、両腕の包帯と彼女の正体が大学時代の後輩だったと話した。

「こんな偶然あるんだね、びっくりした」

 優子は芽衣の包帯より沙都美と知り合いだったことに驚いていたが、そのおかげか恐怖感は消え去った。

 それを見て沙都美はある提案をした。

「ねえ、もし次芽衣を見かけたら話しかけてみない?」

「いいよ。怪我してるのにあんな格好で外にいるなんて、心配だもんね」

「うん」

 もっともらしい理由をつける優子だが、その心内には単純な好奇心が湧き出ていた。一方そうとは知らず話をする沙都美は芽衣に会った時何と声をかければいいか、自分にとっての最善を考えていた。



 次の機会は意外にも早く訪れた。

 最初の出会いの翌週水曜日、沙都美と優子は残業の連続記録を着々と伸ばしていた。一旦の区切りがついた22時頃に退社して、いつものルートで駅前広場にやってきた。2人は形だけのイルミネーション観賞をゆっくり歩きながら行なっていた。この一週間沙都美と優子は真の目的は違えど同じ対象を探して行動していたがどの時間帯にやってきても芽衣の姿はなかった。

 何度か視線を左右に振っていると垣根の陰に身を寄せるように座る人物が視界に入った。その人が見ているのは駅ビルのガラス壁、あの時と全く同じ格好の芽衣だ。

 気づかれるとまた逃げられるかもしれない。そう考えた2人は広場の左右の端に別れて駅前を歩く人に上手く紛れながら、さりげなくイルミネーションの方へ近づきタイミングを合わせて芽衣の前に立ち塞がった。

 ビクッとした芽衣は咄嗟に立ち上がったが、後ろは柵、横は垣根と花々、前は沙都美と優子で行き場を失った。おろおろとその場で回ったが、再び沙都美と目が合った時、固まった。

「……もしかして、秋本先輩?」

 10秒くらい間があって芽衣は相手が誰か気づいた。

「久しぶりね」

 沙都美は張り付いた笑顔で答えた。

 芽衣は大きく2回深呼吸して、少しだけ口角が上がった。

「お久しぶりです。雰囲気変わられましたね」

「そうかしら。別に何も変わらないけど? それより腕、大丈夫?」

 そう言う沙都美の様子に優子は緊張した。沙都美の普段と異なる口調や表情を気にはしなかったが、沙都美の内の何かを感じた。

 優子が割っては入れないのを気づかないように沙都美は芽衣に問いかけ続ける。

「どうしてここでしゃがんでたの? 誰か待ってるわけでもなさそうだし」

「いえ、いやその……べつに何でもないんです。気にしないでください」

「そういうわけにもいかないのよ芽衣。私達心配してるの、ね? 何か事情があるなら話してよ」

「ん……」

 沙都美の強い圧に押されて芽衣は目を伏せ腕をさすりながら、「少し長くなりますが」と前置きして経緯を語り出した。



 2ヶ月前、まだ秋口のころだった。市役所勤めの芽衣は複数の部署の合同で行なわれた飲み会に参加させられていた。お酒に強くもなければ嫌な上司もいるため早く帰りたい気持ちが募っていたが、仲良しの同僚に誘われて仕方なく最後まで席を離れなかった。

 終電1つ前、この駅前で解散したの頃には芽衣の酔いはかなりのもので足元が少し定まらなくなっていた。気分も悪い中、前から目をつけられている厄介な他部署の男が執拗に声をかけてくる。思考が不明瞭になり男に促されるまま丁度いい高さにある花壇の縁石に座らされて誘い文句を聞かされた。

 芽衣の目の前にそびえ立つ駅ビルの壁面を埋めるガラス、そこに映る自分の姿をぼんやり眺めてやり過ごそうとしているとおかしなことが起きた。駅ビルの外周は建物に沿うように一段下がって景観美化用の水が浅く張ってある。当然ガラスに反射した風景には最前景に水が映っていて、まるで合わせ鏡のように見えた。

 そのガラス世界の水面が微かに揺れ始めた。アルコールが原因かと思ったが、現実世界の水面に変化はない。ビル風もないし人通りもほぼない。不規則に揺れる水面は徐々に1つの大きな波紋になり、波紋の中心はどんどん盛り上がってやがて蟻塚形の水柱になった。この時には始めから聞き流していた男の声など存在ごとなかったように、芽衣は残った正常な意識をかき集めてガラス世界に集中した。水柱は表面の動きを止めると溶けるように水面に姿を戻した。中からは一人の人間が出てきた。芽衣と全く同じ姿をした女性が立っていた。

 異常な光景を見て芽衣は声を出してしまい、諦めかけていた男が再び喋ってきた。が無視を続けて、芽衣は必死に頭の中を整理した。

 ガラス世界には今2人の芽衣がいる。一人は酒と男に気分を害される芽衣の虚像、もう一人はガラスに映る水から生まれ出た芽衣。横の男はこの異常に気づいてないらしかった。芽衣は寒気に襲われながらもガラスを見るのをやめなかった。むしろ頭には次の展開を期待している自分がいた。

 ジッと目と目を合わせる2人の芽衣。動き出したのはガラス世界のもう一人の芽衣だった。彼女はニコリとして口を開いた。

「はじめまして」

 自分と同じ顔の人に言われる言葉としてこれほど違和感があるものはないだろう。声は鼓膜に響かず頭蓋の内側を反響した。落とし物を返す湖の女神のようなやけに上品な語りで、うろたえる芽衣に芽衣は続ける。

「あなたに課題を与えます。すぐに帰宅するのです。男を振り払って早く早く帰るのです。そうすればよい事が起きるでしょう」

 怒濤の謎に芽衣の思考は押し流されていく。とにかく課題とやらを達成すればよい事が起きるらしい。課題は芽衣が30分ほど前から思い続けていることなので手軽だった。

 酔いも落ち着いてきた。気づけば終電間際、大きな息を1つ吐いて、改札に駆け込んだ。吐き気を我慢して家に帰ると着替えもせずにベッドに倒れた。

 翌朝、膨張感のある頭を抑えて芽衣は目覚めた。洗面所に向かいながら思い出すのは昨日の出来事だ。昨晩の記憶は明瞭で、けれど疑わずにいられない展開だった。身の安全に繋がったとすれば己の深層意識が見せた幻だった、と考えられるかもしれない。しかし、未体験の幻覚だと判断できる証拠もない。顔を洗って歯を磨き終わっても結論は出なかった。

 食事の用意をしつつスマホを確認。その時、あのガラス世界の私の声が頭に流れ込んできた。

「課題達成しましたね。ご褒美をあげましょう」

 画面の通知欄にメールが数件、内一通に目が留まった。大好きなアーティストのライブチケットの抽選に当選した旨が書かれていた。芽衣が6回連続で外していた倍率20を超えるチケットがこのタイミングで手に入ったのである。疑念は反転、芽衣は昨晩の全てを信じた。

 朝食を軽めに済ませると手早く着替えて出かけた。向かうのは駅前広場だ。土曜の午前中でそこそこ賑わっていた。半日前とは違い素面で垣根前の縁石に腰掛けビルのガラスに対面した。

 多くの人が芽衣とガラスの間を行き交う。映り込む大勢の姿の中にいつの間にか芽衣を見つめる人物が立っていた。今初めて素面で見る、もう一人の芽衣だった。

「ほんとだったんだ……」

 もう信じていたつもりだったが、目の当たりにすると思わずそう呟いていた。昨日は大層な演出で登場したが、現れ方は複数あるらしい。いずれにしても何か超常的な存在だと芽衣は確信した。

「こんにちは。あなたに課題を与えます」

 ガラス世界の芽衣は上品に淡々とした口調で話した。

「新しいカバンを買って使いなさい。そうすればよい事が起きるでしょう」

 もう一人の芽衣はそれだけ言うと通行人の影に紛れ込むように消えてしまった。

 昨日と同じ言葉、課題だけは毎回違うようだ。

 課題を受け取った芽衣は不思議さを味わいつつもその内容に心当たりを感じた。実は以前から仕事用のカバンを買い換えたかったのだ。自分自身との奇妙な繋がりに引っかかったが、素直に目をつけていたショップに足を伸ばした。

 何事もなくカバンを買った芽衣は月曜日から新しいカバンを使いだした。するとセクハラばかりの嫌な上司が時期外れの部署替えでいなくなったのだ。さすがに驚いて同僚達とその理由を聞いて回ったが皆よく知らないみたいだった。芽衣は完全にもう一人の自分を信じていた。

 だがよかったのはそれまでだった。

 3回目の課題は『5kmランニングする』。確かに健康に気を遣わなきゃとは思っていた。運動が苦手な芽衣は悩んだ末に翌日5kmを完走した。ご褒美はスーパーの特売に間に合ったこと。

 4回目の課題は『ドングリを666個集める』。内容にこれならできると思い、週末の丸一日を費やしてようやく集めた。ご褒美は家の前で500円玉を拾ったことだった。

 そして5回目の課題は『仕事を辞める』だった。もはや芽衣が秘める願望ではなく、現実的に実行不可能だ。それにハード化する課題内容に反比例して質が下がるご褒美を得るために努力する理由もなかった。芽衣は初めて課題を無視した。今に続く苛烈な日々を予期できればこんな選択はしなかっただろう。

 翌週の月曜日、芽衣は職場への道中、例の駅前を通った。もう一人の芽衣が現れるガラスの前で足を止めた。自分の顔が告げる言葉を無視したことに少しだけ罪を感じていた。ガラス世界には停止する芽衣と一方向へ流れる大量の人だけ――ではなく、またも気づかぬうちにもう一人の芽衣がサラリーマン達の間から顔を覗かせていた。

「ばつ」

「え?」

 ニコリと笑う口が一言だけ発して、人々の虚像に飲み込まれた。

 芽衣は聞き間違いかと思った。しかし直に脳へ届いた声は間違いなく『ばつ』と言っていた。○×のバツか? それとも……。

 その日の仕事は散々だった。担当窓口に来るお年寄りは延々と暴言を撒き散らすし、その苛立ちからか重要書類に大きなミスをしてしまった。普段はこんなミスしない。浮かぶのは今朝のガラス世界の芽衣に言われたあの言葉。

「ばつ」

 思い過ごしだ、単なる偶然だと割り切るには不気味すぎた。それから数日、駅前広場を通らないようにした。

 6回目の課題を突きつけられたのは突然だった。朝の日課で洗面所に行くと、鏡の中の芽衣の隣にもう一人の芽衣が彫像のように立っていた。瞬時に真横を見たがもちろん誰もいない。だが鏡には分身のごとく同じ姿の人間が2人いる。芽衣は思わず胃液がせり上がってくるのを抑えた。

「課題を与えます」

 もう一人の芽衣ははいつもの上品な話し方で定型文を言った。はじめ女神の声にも聞こえたそれは冷たい機械が述べる旧型の自動音声みたいに聞こえた。

「もう、課題はいらないです」

 芽衣は初めてもう一人の自分に主張した。だが、

「課題を与えます」

 会話は不可能に思えた。もはや鏡世界の芽衣は一方的に己の要求を呟く厄介な別人だった。

「お願いだからッ、もうやめて!」

 ガンッと鏡を拳で叩いた。

「自分を3回殴りなさい」

 命令する芽衣の別人から笑顔は消えた。

「誰がそんなこと――」

 そう言いかけた芽衣を腹部の鈍痛が襲った。

「なんで腕が、勝手に……」

 無意識の右腕が腹を殴った。内臓を掻き回された気分だった。加速した呼吸が落ち着く間もなく今度は握った左手が顔面を一発、右手の一発が首に食い込んだ。

「課題達成しましたね」

 芽衣の別人は洗面所で血を垂れる芽衣に鏡世界から仮面のように微笑みかけた。

 これ以降別人は職場にもレストランにも旅先のホテルにも……どこにでも現れた。そして課題を達成しないと『ばつ』がくる。芽衣は必死に課題を達成しようとしたが課題も『ばつ』も暴力的になっていた。

 自分で自分を傷つける毎日。1回目の課題から2ヶ月が経っていた。



 2人は相槌も打たず芽衣の話を聞いた。全て真実なら現代に似つかわしくない恐ろしい昔話のようである。沙都美と優子は疑うが芽衣の両腕の包帯を見ると信じなければいけない気がした。よく見れば顔にも生傷が刻まれていた。

「長々とすみません。今日は帰りますね」

 怪我のせいか精神的な疲労のせいか、肩から脱力したまま芽衣は駅へ歩いていった。

 優子はかける言葉に迷った。沙都美を見ると小刻みに震えながら両手で顔を覆っていた。変わり果てた後輩の姿が彼女の感傷を生んだのかもしれない。優子は

「うちらも帰ろうか」

と言い、沙都美も小さく返事をした。彼女の目が潤んでいるように優子には見えた。



 駅前を通る度に2人の頭にしばらく芽衣の話がこびりついていた。2人も気づけば芽衣の話を信じきっていた。2人は芽衣を朝夜通勤時に探したが、あの日を境に彼女の姿は見えなかった。芽衣への好奇心と心配を募らせる優子に対して、沙都美は彼女のいない駅前を眺めては哀しいような悔しいような顔で唇を噛んでいた。



 2回目の遭遇から1ヶ月が経った。この頃は芽衣の話題が出ることもめっきり減った。

 その日19時を過ぎた駅前広場は帰宅ラッシュとクリスマス前の賑わいが合わさり人で溢れた。イルミネーションも久しぶりに見ると美しく感じるもので2人は人波から漏れる光を楽しんでいた。

「ちゃんと見たの意外と初めてかもね」

「あー言われてみれば」

 話しかける優子に素っ気なく返す沙都美。優子はその心中を何となく察して、あえて何も言わなかった。

「――なんかあの辺人いなくない?」

 イルミネーションが連なる縁の手前、1カ所だけ人通りがなかった。

 2人は流れに逆らってその空間に目指した。近づいてくと雑踏の奥で声が聞こえた。聞きづらいが日本語ではなかった。ただ声が出ている、そんな感じだ。

 さらに人を掻き分け空間に近づいた。やはり言葉は言ってない。声質は女性で、口から漏れ出す嬌声のような吐息混じりの声だ。沙都美は誰の声か分かった。芽衣は周囲も憚らず喉を裂くように喘いでいた。彼女を避ける大勢が都会の無関心さを体現していた。


 沙都美は人々の早歩きを強引に止めてやっと空間に抜けた。垣根を背にして2mもない円の中心に膝を抱えるようにしゃがむ芽衣がいた。

 彼女は左の瞼を摘まみ裁縫針で縫っていた。右目は充血して瞳を濡らし、喘ぐ唇はもうジグザグの糸で封じられていた。道行く人が彼女を無視するのも仕方ない。皆視界に入れるのすら拒み家路を急いだ。現実の光景に思えなかった。

 沙都美は芽衣の針仕事をじっと見つめた。下瞼から通した針は角度を変えて上瞼を貫通、穴を通る白糸は赤くなった。その糸が玉留めまで引っ張られるのに合わせて嬌声は籠もって響いた。芽衣の両手は汗に塗れ血管が浮くほど力んで何度も刺し違えた。優子が追いついた時には、もう右目も縫い終わろうとしていた。

 叫んだ優子につられて周りがざわめきだした。立ったまま顔を覆う沙都美を置いて優子は救急車を呼んだ。3人は黒々とした集団に囲まれ無数のスマホを向けられていた。

観衆に見守られながら芽衣は縫い物を終わらせた。



 およそ15分後、沙都美は明日も仕事だからと無理に優子を帰して、両目と口を封印した芽衣と共に救急車に乗った。



――病院で集中治療が行なわれている間、沙都美は警官から事情を聞かれていた。大学時代の話や最近の芽衣の様子を話した。しかし、芽衣が打ち明けたあの話は黙っておいた。

 聴取を終えた警官と入れ替わりで1人の老女が廊下を歩いてきた。芽衣の母親が実家からきたのだ。時計は0時を指した。

 沙都美も芽衣の母親は互いに初めましてと頭を下げた。

「うちの芽衣がご迷惑をおかけしました」

「……いえ。こちらこそ何もせずにすみません」

「芽衣から沙都美さんの話は聞いたことがあります。大学の先輩だと……」

 沙都美は軽く息を吐いて言った。

「はい、そうです」

「あの、電話で怪我と言われ、詳しいことは知らないんですが、今芽衣はどのような状況でしょうか?」

「左右の目と口と喉に怪我をして、ICUで治療を受けてます。医者は視力と発声は絶望的だと……」

 沙都美は口を押さえて顔を伏せた。

「そんな……芽衣……」

 母親はぶわっと泣いた。静まる廊下は2人しかいない。

 涙が落ち着き待合椅子にへたり込んだ母親は小刻みに震えながら沙都美に尋ねた。

「沙都美さんは、その場にいたんですよね?」

「……はい」

「できれば、その時のことを教えてくれせんか。親として辛いですけど、知りたいんです」

「……わかりました」

 口元を抑えたまま沙都美は駅前での事件を話した。そして救急車内の出来事も――



 サイレンを振りまいて病院に向かう車内には担架上でうめく芽衣と沙都美、若い男性の救急隊員が1人いた。

 救急隊員は応急処置の準備を始めた。沙都美はここでも口を隠して芽衣を見ていた。救急隊員の所見では怪我は大したことなく、癒着する前に抜糸して止血と眼球の検査をし問題なければ明日には退院できると言う。

「倉田芽依さん。今から糸抜きますけど、痛いのは我慢してくださいねー」

 救急隊員はピンセットを持った。糸は片側が玉留めになっているが、反対側は針から抜いたままになっていた。下唇の玉留めを摘まむと一定の速度ですーっと抜いていく。

「んんー!! んー!」

 肉の内側を糸が擦るのが痛むらしい。芽衣は叫んだ。

 傷を確認しながら1分ほどで抜糸が終わった。

 その瞬間のことだ。

「また課題未達成ですね」

 知らない声が芽衣の口から発せられた。沙都美の脳裏にあの芽衣の話が蘇る。冷たい自動音声のような声。芽衣の声を知らない救急隊員は困惑した。

「倉田さーん、大丈夫ですか?」

 無視して芽衣の口は喋る。

「ばつ」

「え?」

「ばつばつばつばつばつばつばつばつばつばつばつばつ」

 淀みなく繰り返される『ばつ』が異常を告げた。

 救急隊員の手が止る中、「やめてぇーー!!!」と芽衣の声で叫んだ。彼女の両手が重力から解き放たれたように起き上がって動いた。

 泣き叫ぶ芽衣に両手は蜘蛛のように広がり縫われた瞼に覆い被さった。

 異変を察した救急隊員が彼女の腕を引き剥がそうとするがびくともしない。沙都美はひたすら口を隠して眺めた。

 芽衣の指が蠢いてジグザグに糸が通る瞼に食い込んだ。

「ぎゃああああああ!!!!」

 叫びがピークに達した時、彼女の指は瞼ごと眼球をもぎ取っていた。救急隊員もその手を押さえ込もうとしたが無駄だった。

 芽衣の両手は続けざまに本人の意志を介さずに蠢いて喉に喰らいついた。あっと一言叫ぶ間もなく、芽衣の喉は己の握力でぐしゃりと潰された。

 救急隊員が必死に止血を行なう中、沙都美は最後まで眼前の惨劇を目にするだけだった。



 芽衣の母親は顔を上げなかった。しばらく顔を見ていなかった娘が理由もわからないまま、地獄の責め苦のような怪我をした。それを昨日のニュースを話すような口調で聞かされたのだ。母親の胸は悲しみと隣に座る沙都美への疑念でぐちゃぐちゃに埋められた。

「沙都美さん……? あなたはどうして芽衣を止めてくれなかったんですか? 昔の、短い付き合いかもしれないですけど、うちの娘は仲の良い後輩じゃないんですか……?」

 沙都美は俯き何も言わない。

「あなたが早く止めてれば、芽衣は、目と口を縫うなんてしなかったんじゃないですか?」

 沙都美は変わらず肩を震わせていた。

「もう一人の芽衣の話も実はあなたが原因じゃないんですか!?」

「あっはっははっははっはっはは!!」

 沙都美が笑いだした。まるで長い間笑いを堪えていたのが、ついに噴き出したように。

「あははっはっひゃはあっははひゃはははああっ!!!」

 唖然とする母親と笑うのをやめられない沙都美。深夜の廊下に端の端まで場違いな声が鳴り響いた。

 息の限り笑った沙都美はニンマリと口角が上げて芽衣の母親に向き直った。

「あのね芽衣のお母さん。勘違いしないでください。私は芽依に何もしてないですよ? 今回のことはもちろん、大学時代も」

「でもそんな、じゃあなにがおかしくて笑って――」

「天罰です」

「え、え?」

「芽依には罰が下ったんです。あの時、私の彼を取っていったから」

 笑顔が消えた沙都美の頭は10年以上前のことを思い出していた。

 彼女が大学3年の時、同じサークルに入った新入生が芽衣だった。派手なファンションに明るく元気な人当たりの良い女子。すぐに男女問わず可愛がられるようになった。一方沙都美は人見知りで自己嫌悪が激しく、サークル内でも一人浮いた存在だった。ただ3年間ずっと片想いする同級生の男子とは少し話せる仲だった。彼の存在は沙都美にとって大学に通う理由でありサークルに居続ける唯一の理由だった。

 それが芽衣の加入で大きく揺らいだ。彼も他の人と同じく芽衣と仲良くなった。その分沙都美と話をすることも減り、やがて全く会話はなくなった。芽衣は別に彼と恋愛をしたわけではなかった。

 しかし沙都美は恨んでいた。沙都美は彼に告白してもされてもないが付き合ってると思っていたし、卒業したら結婚するものだと思っていた。その彼を後輩に奪われた。けれど沙都美に何か行動する勇気はなかった。代わりにいつまでも忘れないと心に決めた。芽衣への憎悪を。

 それから10年が経った。沙都美は就職を期についに自分を変えられた。性格も髪型もメイクも服装も、頭にはあの頃皆に好かれた芽衣の姿があった。無意識に彼女に似ていったのだ。彼女の記憶の芽衣は人見知りで地味なかつての自分と入れ替わった。

 そしてあの夜、芽衣と偶然再会した。予想外の形で。芽衣から包帯の理由を聞いたとき、真偽はさておき沙都美は良いチャンスだと思った。芽衣が自滅してくれたら、その姿をこの目で見れたらと毎日願った。

 憎悪の念は天に届いたか地に届いたかわからないが、芽衣の両目と喉の破壊という結果で10年越しの悲願は成就した。


「芽依はそんなこととっくに忘れてたろうけど、私は違う。今日まで一日も忘れたことはない。ずっとずっと隠してきて、ずっと恨みで生きてるんです」

 芽衣の母親は涙も止って、沙都美を見つめて聞いていた。

 長年張り付いていた作り物の表情が剥がれた沙都美は今、自信に満ちた笑顔をしていた。芽衣の母親は冷えた空気が床から足を伝って精神まで凍えさせるのを感じていた。

 沙都美の心底から解放された笑い声がまた、廊下に響いてどこまでも反響するようだった。

 周りに気づかれないよう潜め隠してきた本心がようやく表世界に這い出す時、人は必ず笑うのである。

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