ニ 妖犬

 その日は、朝からちょっと不穏なことがありました……。


 いつも使っていた鞄のベルトがなぜかブツリ…と切れたんですね。まあ、だいぶ長いこと使ってましたからね。経年劣化だったのかもしれませんが、とにかくこれじゃあ仕事に行けないんで、仕方なく、遊びに行く時使っているリュックサックに荷物を詰めて、とりあえずそれで出勤したそうです。


 そして、その帰り。いつものように駅の改札を出ると、またあの犬を見かけたんですよ。


 ああ、あの犬だ。今日はどんな人を待ってるのかなあ……?


 もう、毎度違う人を出迎えることについて、何も疑問に感じないくらい慣れっ子になっていたK君がいつものように眺めていると、不意にその犬と自分の目が合ったんです。


 すると、急に犬が動き出して、なんだか自分の方へ向かって来ているような感じなんだ。


 いや、まさかな……と思ったんですが、明らかに真っ直ぐ自分めがけて駆け寄って来てるんです。


 それも、うれしそうに尻尾を振って、これまでにお出迎えをしていた人達同様になんとも人懐っこい感じなんですよ。


 K君も別に犬が嫌いな方じゃなかったんでね。ああ、よしよし…とじゃれてくる黒犬を撫でてやりながら、あれ? 自分のことを誰か家族と間違えてるのかなあ? と最初はそう思ったんですが、これまでのことを振り返って考えている内に、ああ、そうか。そういうことか……と、出迎える人物が毎回違っていた理由にはたと気づいたんです。


 ははあん…この犬、別に家族を待ってるわけじゃなくて、こうして駅前で犬好きそうな人間を見かけると、駆け寄って行って遊んでもらってるんだなあ……と。


 首輪はしてませんが、黒い毛並みも光沢があって綺麗ですし、野良犬って感じでもない。どこかこの近所で飼っている犬なのか? きっとこの駅前がかっこうの遊び場なんでしょう。


 ああ、よしよし。それじゃ、もう帰らなきゃいけないからまたな……。


 これまでの疑問が解消し、なんだかスッキリした心持ちのK君は、ひとしきり犬を撫でてやってから別れを告げると、家へ向かって歩き出したんです。でもね、歩き出したK君の後を犬もそのままついてくるんですよ。


 ああ、そうか。今まで見ていたのはこういうことだったのか。あれはご主人様を迎えに来て一緒に帰っていたんじゃなく、まだ遊び足りなくて後をついて行ってたんだな……。


 なあんだ。ただ単にそれだけのことだったのか。ぜんぜんハチ公じゃないじゃないか……と、K君改めて納得すると、なんだか自分の勝手な思い込みがおかしくなってきたんですね。


 犬はまだ後をついて来ますが、まあ、この近所の犬だろうし、その内、諦めてどっかに行くでしょう。


 K君は独り密かに笑みを浮かべながら、そのまま家路についたんです。


 それからしばらくの間、時折、後を振り返ると犬はまだついて来ていたんですが、駅前の繁華街も過ぎて、住宅街に入るくらいにまで歩いてきたところで、さすがにもういなくなっているだろうなあ……とK君が振り返ってみると、意外にもまだ犬はついて来ているんです。


 ええ? まだついて来てるよ……こんなに遠くまで来たら迷子になっちゃうんじゃないか?


 心配になったK君はあえて厳しい態度をとると、しっ! しっ! 早く家に帰りな! と犬を追い払うような仕草を見せて、そこからは速足で歩き出したんですね。


 まあ、駅からK君の家までは歩いてだいたい15分弱くらいだったんですが、家のある所は山のきわで、広い田畑の中に民家がまばらにあるような、ちょっと淋しい場所なんですね。駅前周辺は新興の住宅街なんですが、彼の家の辺りはずっと昔からある集落なんです。


 いつしかすっかり日も沈み、夜の闇に辺りが包み込まれたその頃。


 真新しい家々の建ち並ぶ住宅街も抜け、やがて、昔ながらの農家風民家がぽつりぽつりと見えるような景色になってきたところで、いや今度こそ、さすがにもういないだろうな……と、もう一度、K君後を振り返ってみたんですが、なんと、まだ犬はついてきているんですよ。


 ええ? いったいどこまでついてくる気だよ!?


 それを見てK君、驚いたんですがね。じつは驚くべきことはそれだけじゃなかったんですよ……そのついて来ている犬の様子がね、どうも変なんだ。


 駅前で見かけた時には普通の芝犬くらいの大きさだったのに、今はその一まわりも二まわりも…いや、下手をするれば三まわりくらい大きくなっているような気がするんです。


 辺りは暗くなりましたし、目の錯覚かなあ? と思って、もう一度よく見てみたんですが、やっぱり数倍の大きさになってるんですね。


 いや、大きさだけじゃない。その眼は闇の中で爛々と赤く輝き、グルルル…と威嚇するというか、獲物に対して威圧するような、そんな不気味な唸り声まであげているんですよ。


 やばい。これは襲われる……。


 K君、本能的にそうわかったそうです。


「うわあああっ…!」


 次の瞬間、彼は咄嗟に走り出したんですね。


 すると、背後からはワン! ワン! ワン! ワン…! とけたたましく吠える犬の鳴き声とともに、ものすごく恐ろしいものの気配が迫ってくるんです。


 ただの犬に追いかけられてるなんてもんじゃない。巨大な猛獣とでも呼べるような存在が、すぐ後にいるのが見なくても背中でわかるんだ。


 実際に目で見て確かめたいんだけど、振り返ってる余裕なんてものもないんですよ。そんなことしてる間に追いつかれて食い殺されるかもしれない……。


「…ハァ……ハァ……た、助けてくれぇ…!」


 K君、人気ひとけもない暗い田舎道を、とにかく必死に走ったそうです。


「…ハァ……ハァ……ハァ……ハァ…」


 もう、なりふり構わず全力疾走しているんですがね。一向に背後の犬を引き離すことができないんですよ……いや、むしろ距離が徐々に縮まってきているような気さえするんだ。


 このままじゃ、先にK君の方が力尽きて追いつかれるのは明らかなんです。


 も、もうダメだ……。


 諦めかけたその時、彼の目に神社の石鳥居が飛び込んできました。


 その道は緩やかにカーブした山際の一本道なんですが、その道端にある神社の鳥居で、鳥居を潜るとすぐに急な石段が山の上の社殿へと伸びているんですね。


 まあ、産土うぶすな様とか氏神うじがみ様っていわれるような、昔からその土地にあって、K君も小さい頃からお参りに行っている馴染み深い神社です。


 どうせこのままじゃ遅かれ早かれ追いつかれる……ここは一か八か、その石段の上へ逃げてみよう……。


 K君、不意に90度くるりと体を回すと、鳥居を潜って石段を一気に駆け登りました。もうね、追いかけて来る犬に対抗してるわけじゃないんですが、獣のように四つん這いになって這い登るような勢いですよ。


「……ハァ……ハァ……ハァ……ハァ…」


 無我夢中で社殿の建つ上の広場まで辿り着き、肩で息をしながらようやく振り返ったK君だったんですが、気づくともう黒犬はいなくなっていたんですね。


 ……はあぁ…助かったあ……どうしてか知らないけど、もしかして、神様が守ってくれたのかなあ?


 理由はわかりませんが、どうにか命拾いをしたK君は、なんとなくそんな風に感じると、急に脱力した体を社殿の方へ向けて、深々と頭を下げてお参りしたそうです。


 それからも、しばらくその場で様子を覗っていたんですが、どうやらもう大丈夫そうだったんで、K君は心の中でどうか神様、お守りください…とお願いしながら家路を急ぎ、無事、家へと辿り着くことができました。

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