Épisode 4 本当の言葉なんて、誰も持ってない。

 いよいよ、無理ができない体になってしまった。手術をしなくたって、これだけ頻繁に発作が起きてしまったら、旅行どころの騒ぎではない。


 そんな折、親戚の人たちに入院と手術を勧められた。みんな本気で心配しているような面持ちだった。けれども。


 結局この人たちは、助けてくれるわけではない。


 わたしが手術を受けたあとどうなるかも知らずに、ただ受ければよくなると勝手に思い込んで、自分が善人の道から外れないようにするために言っているだけなんだ。わたしが心配なんじゃあない。自分が悪人と思われることを心配しているのだ。だってそうでしょう? 病気で発作が頻発して家計が苦しかったときに、誰も生活費を工面してくれなかった。代わりにお見舞いに甘いお菓子や果物を持ってきた。わたしの病気がなんなのかも知らないっていうなによりの証拠を、臆面もなくテーブルの上に置いてにっこり笑った人たちばかりだ!

 助けたくない。知りたくもない。でも心配はしている。そのフリをする努力は惜しまない。だから悪人だと思わないでくれ。これがこの人たちの本音だ。

 本当の言葉なんて、誰も持ってない。偉い人が多くの人のために造った言葉の劣化コピーばかりをぶら下げてシタリ顔をしている。わたしは『今』を生きたいのに、誰一人わたしの『今』を大切にしてくれる人は居ない。あのブルージュの街並みのような人は、誰一人いなかった。


 けれども、けれども、けれども……。もう手術をしなければ、一週間後の自分の存在さえも危うい状態だ。病気に向き合ってきた自分の感覚が、最大音量のアラームを鳴らしている。

 わかっていたはずなのに。この死にざまを受け入れたはずなのに。潔くあっさり終われるはずだったのに。


 わたしは親戚の口車に乗るしかなかった。唯一母だけはなにも言わなかった。なにも言わず、ただ、手を握りしめてくれた。ごめんねと、言葉に出すことすらも申し訳ない。その手の温度からそんな言葉が伝わってきた。



※  ※  ※  ※



 手術を受ける前夜。わたしは不安に押しつぶされて、病室を抜け出した。幸い体は軽かった。


 暗がりをぼぅっと照らす自販機で、パックのお茶を買って屋上に上がった。見晴らしのいい場所で夜風にあたってお茶でも飲んでいれば気持ちが落ち着くと思った。


 夜風は思いのほか強く、そのせいか空には雲が一つも浮かんでおらず、星がきれいに見えた。


「死んじゃおうかなあ」


 不意に口をついて出た言葉は、なんとも前向きな希死念慮きしねんりょだった。


 手術を失敗して、そこで死ぬならまだいい。受け入れられる。けれど、もしも中途半端に生きてしまったら? 瞼の裏と表を行ったり来たりするような日々の中、延命措置をお願いした母親のやつれていく表情を見続ける生き地獄を想像する。誰も母のことを助けたりはしないだろう。親戚は意味のないお菓子と果物を置いて「いつか食べられる日が来ると良いわね」だなんて誰かの劣化コピーの言葉を放ってシタリ顔で出ていくのだ。そしてもう自分の役目は終わったとばかりに、それきり一切連絡もよこさなくなるのだろう。


 ここでもしわたしが飛び降りたならどうだ? 6階建ての病院の屋上だ。まず間違いなく即死。そりゃあ母さんは悲しむよ。でも、苦しむことはない。これ以上苦しむことはないんだ。


 わたしは意識するともしないで手すりに手を掛けていた。

 どう生きたらいいかわからないこの世界に、明確な答えがあるように思えた。星の輝きがまるで、青信号みたいに見えた。この手すりの先へ飛び立つための光に見えた。


 手すりに力を込めて、たわめていた脹脛ふくらはぎの力を真下へと解き放った。


 体が宇宙に吸い込まれていく。


 その錯覚に意識が覆われた瞬間。


 ——バチンッ!


「痛っ!」


 なにかが顔面に当たってわたしはうしろ向きに倒れた。

 手すりの先に行こうとしていた体は、屋上に戻されていた。

 わたしはわたしの顔に当たったものの正体を手に取った。

 それは……ブルージュからの絵葉書だった。


『今、死のうとしている人』


 そうだ。こんな絵葉書も出したんだった。あのときわたしはなにを書いたんだっけ?


 そう思い、目を走らせ、ぎょっとした。

 わたしは、本当にバカだなあ。こんなの死のうとしている人が見たら、バカにしてるのかって怒っちゃうよ。

 あのとき確か、結構真剣に考えたのにこの言葉しか出てこなかったんだよね。浅いなあ。本当に浅い。



 ……でも。



 わたしの言葉だ。


 誰かのために造られた言葉でも、その劣化コピーでもない。確かにあのときのわたしが、『今』それに直面した人のことを考えて考えて考え抜いて出した、心からの言葉だ。


「それがこれって」


 呆れて笑ってしまった。

 コンクリートの冷たさが心地いい。風が気持ちいい。

 あれほど鮮明に見えた青い星の輝きは、もうすっかりぼやけてしまっていた。

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