Épisode 3 『ブルージュに行ってきたの!』

 ある人は言った。『今』の連なりによって未来ができる、と。けれど私は、『今』の集積は過去にしかならないんじゃないかなと思う。未来はいつだって未知だ。たとえ『今』の努力が実を結んで成功するとしても、『今』をかき集めてできるのは努力したという過去の思い出なんだと思う。それに、次の瞬間に死ぬとして、それに至る理由が『今』の連なりによるものなんて考えるのは、あまりに悲しいじゃないか。

 思えば、わたしがブルージュのあの風景に心を引かれたのは、あの『取り残された今』がまさしく『かき集まった今』で、それらをみんなが大事に守っているように思えたからなんだろうなと思った。


『ブルージュに行ってきたの!』


 旅先で取った写真をメールで送る。彼氏に。

 彼はサラリーマンなので休みの都合を合わせることはできない。彼と一緒に旅に行ったことは2回しかなかった。


 メールの返信が来る。


『ごめん』


 それだけだった。

 なんのことかわからず返信をしたが、それに対しての返答はなかった。


 それからしばらくして、たまたま、本当にたまたま、駅のホームで女性と手を繋いで電車を待っている彼氏を目撃してしまった。わたしは動揺して、でもそれを押し隠して、彼に見つからないようにこそこそとその場所から逃げた。出掛けるつもりだったけれど、とてもそんな気にはなれなくて、自分の家に帰った。


 あのメールからまだ一週間くらいしか経ってない。

 わたしは、病気のことを彼に告げていた。彼は気にしないと言ってくれていた。けれど、彼のことを考えるなら別れた方がいいと思っていた。だって、わたしには未来がない。結婚するにしても子供を作るにしても、わたしには時間が足らなさ過ぎるのだ。だから、こんなわたしと付き合っても彼の時間を擦り減らしてしまうだけだから。いつかこちらから別れを切り出そう。彼を自由にしてあげよう。そう思っていた。でも、甘えてしまって。ずっと切り出せずにいた。

 彼から『ごめん』とメールが来たとき、仕方がないと思った。ついにこのときが来たんだと思った。けれど、でも、あれは……あれは違うじゃんか。隣にいる子は彼を信頼している目をしていた。未来までずっと一緒に居ることを約束したような瞳をしていたんだ。あんなの、付き合って数日で向けることのできるまなざしじゃないよ。


 どうして、あそこから逃げなければいけないのが、予定を棒に振らなければいけないのがわたしだったのだろう。

 はらはらと涙が落ちる。誰も居ない部屋だ。誰も居ないくせに声を押し殺して。悲しいと思うことに罪悪感があったから。自分自身にも見つかってはいけないと思ったから。


 不意に、窓から入った風に前髪が揺れた。同時に、一枚の紙切れが目の前に落ちた。それは、ブルージュの骨董品店が描かれた絵葉書だった。

 わたしはぼんやりとした風景の中、滲まず鮮明に色彩を放つ絵葉書を手に取って、裏返した。


『今、悲しい人』


 受取人の欄にはそう書いてあった。


 悲しいのだ。わたしは、今。

 悲しいと思っていいのだ。わたしが悪いと思う必要も、彼の幸せを願う必要も、浮気の正当性を考える必要も——ないっ!


 台風のときの川みたいに、わたしの瞳からは涙がとどまることなく流れ続けた。濁流が枯れ果てるまで、泣いた。



※  ※  ※  ※



 わたしはそれから返事を書いた。わざと、利き手ではない方の手を使って。自分にバレないようにしたかったのだ。なんだかちょっと気恥ずかしかったから。


 わたしがブルージュから送った絵葉書は、ことあるごとにわたしの元に届いた。心無い看護師の言葉に腹が立ったとき、通院している病院からの電話を無視しようとしたとき、血液検査の結果をじっと見つめていたとき。


『今、怒っている人』

『今、逃げようとしている人』

『今、ため息が止まらない人』


 受取人にそう書かれた絵葉書が、どこからともなく現れて、わたしの心を慰めた。

 わたしは昔から、偉い人が多くの人のために放った言葉は、どうにも好きになれなかった。それよりも親、友達、顔も見えないSNSのフォロワーさんからもらった言葉の方が何万倍も心の奥底まで届いて染み渡り、わたしを勇気付けてくれた。まるで、わたしの心になにが効くのかわかっているから処方してくれたみたいだった。わたしのために言ってくれること。多分それは、言葉を着飾って美しく見せるよりももっと重要なことなんだと思う。


 わたしは来た絵葉書すべてに感謝の言葉を返していった。

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