君とまたいつかどこかで

ささくれ

君とまたいつかどこかで

「ずっと、ずっと、待っているから。あの場所でまた――」

これが、覚えている唯一の言葉だった。


ガタンゴトンと揺れる音で男は目を覚ました。


(ここは、どこだ?)


座ってたのは対面式の席であるようだった。

横を見ると星一つない夜空に一面雪に覆われた景色が流れるように動いていた。

どうやらここは、列車の中らしい。


窓に反射された自分の姿を見て男は気付く。

外は雪景色だというのに男の服装はぼろぼろの軍服だ。上着もない。

しかし、寒さは感じなかった。


(どうしてこんな所に俺はいる?)


鈍い思考で考えるが、思い出せない。

しかし、それ以上に重要なことを男は忘れていた。

 

「俺は……、誰だ?」


男は記憶をなくしていた。

正確には記憶に霞がかかっているようで、思い出せない。そんな感じだ。


記憶がない。

普通なら焦るべき事態である。

だが、不思議なことに男には焦る気持ちはなかった。

それは自分にとって一番重要なものが何かを理解していたからだ。


「あの場所でまた――」


唯一覚えているあの言葉。

凛と透き通った女性の声。

それでいて、とても懐かしい声。


この言葉の主を、意味を知ることが、すべきことだと男は確信していた。

根拠はない。

ないが、この言葉が何よりも大切なことだと魂に刻まれていた。


もう一つ分かることがある。

それは、この列車が死者を運ぶものだということだ。

根拠はないが、空間そのものがそのような場所であると告げている。


男は席を立ち、周りを見渡す。

周りにはぽつぽつと人が座っているが、どこか生気のない顔をしている。

生き生きとしていない、血色が悪いということではない。

だが、全員が生者に必要な“なにか”がないように思える。

それが死者であると感じさせる要因なのだろう。

恐らく自分も例外ではない。


(俺は……死んだのか)


今となって男は死んだことを実感する。

だが男には、その事実は些末なことに思えた。

今考えるべきことは、あの言葉だ。

あの言葉は深く、強烈に語りかけてくる。

自分よりも、あの言葉の意味を思いだすのが大切だと魂が叫んでいる。

だが、それだけだ。

そこから先は何も思い出せない。

記憶は霞がかかったようにぼんやりとしている。

そして、記憶に手を伸ばしても遠ざかってしまう。

届きそうで届かない。

とてももどかしい。

声の主は誰なのか。

あの場所とはどこなのか。

あの女性は男になにを伝えたかったのか。


「どうやったら、思い出せる。どうやったら……」


男は必死に思い出そうとする。だが、一片も思い出せない。


列車はただただ進む。

男のことなどどうでもよいというかのように。


   ◇


男は焦り始めていた。

長い時間が経とうとしていたが、何一つ思い出すことができずにいた。

記憶に触れようとすると記憶の欠片は逃げるように遠ざかってしまう。


(もし、このままなにも思い出せなかったらどうなるのだろうか……)


そんな考えが頭をよぎった。

背筋に凍てつくような寒気が走る。

(だめだ、それだけは、絶対に)


このままでは、大切なものが永遠に帰ってこない気がした。

 

(絶対に、絶対に思い出さなければ……)


唇から暖かいものが流れた。

己の無力さに苛立ち唇をかみちぎったのだが、男は気がついていない。


「もし……」


突然、男の頭上から言葉が降ってきた。

男は驚いて顔をあげる。


その先には、帽子をかぶり黒のコートを着込んでいる男の老人が立っていた。

しわは深く、体は痩せこけて骨ばっている。

風が吹けば飛んでしまうと思えるほど、弱々しい印象を与えた。

しかし、そんな病的な姿と対照的に老人は人のよさそうな笑みを浮かべていた。


「あの……」


男が困惑していると感じ取ったのか、老人は小さく笑いながら聞く。

 

「前の席に座ってもよろしいですかな?」


「え……ええ、もちろんです」


男は戸惑いながらも、老人の願いを受け入れる。


「ありがとう。……では」


老人はゆっくりと席に着き、ふぅと小さく息を吐く。

そこで、老人が何かに気が付いたようで、


「お口、大丈夫ですかな?」


「え……」


「ここですよ、ここ」


自分の唇の端に指をあて、男が怪我をしていることを示した。

男はそれで自分が唇をかみ切っていることに気づく。


「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


そう言いながら手で血をぬぐう。


「ほっほ、そうですか。そうですか」


老人はそう微笑んだ後、窓の方へ顔を向けた。

男もあとを追うように窓を見る。

映る景色は先ほどと同じ、真っ暗闇な空と土の一片すら見えない雪景色。

冷たく、寂しい風景。


(死者を運ぶのにふさわしい景色だな)


男はそう思いながら下を向く。

そしてまた、思考を記憶の霧の中へ落とし込んだ。


   ◇


老人と出会い、暫く過ぎた。

しかし、思い出したことは一つもなかった。


触れたい記憶がどれだけ大切なものかはわかっている。

だが、記憶は男から、逃げ、霧散し、通り抜ける。

必死に求めているのに残滓すらすくい取れない。

苛立ち、乾き始めた唇を再び噛む。

鈍い痛みと血の暖かさを肌に感じるが、気にもしない。

 

「くそ……」

  

苛立ちがこぼれ出る。


「何を悩んでいるのですかな?」


突然老人が問いかけてきた。

意表をつかれた。

男の顔には、先ほどの苦悶の表情ではなく驚きの表情が浮かんでいた。

 

老人は、男の感情を読み取ってか、目を細め穏やかに笑う。


「いや、なに。次の世に行くのに、最期に外を見ないのはもったいないと思いまして」


そう言って外を見る。

細くなっていた目がさらに細くなる。

瞳には暖かな色が宿っていた。

まるで懐かしいものでも見ているかのように。


男も外に目を向けるが、やはり雪野原があるだけだった。

男は訝しげな顔をしながら


「なんの見栄えのない雪野原が広がっているだけです。何がもったいないのでしょうか」


焦り故のいら立ちを老人にぶつけてしまった。

しまったと思う。


「あ……、すみま」


「ほっほっ、そうですか。そうですか。あなたには雪野原が見えますか」


とっさに謝罪をしようとしたが老人は謝罪など不要というように男の言葉を遮る。

老人は言葉を続ける。


「私には自分の故郷が見えます。ばあさんと暮らしていた故郷です。とても、とても懐かしい」


意味がわからなかった。

男の目に映っているのはただの寂しい雪景色なのに、老人には自分の故郷が見えると言う。

動揺を隠せない。

けれど、老人は男のそんな態度を見ても変わらず優しい相貌を浮かべたままだ。

老人がゆっくりと口を開く。


「あなたが何に悩んでいるかは私には分かりません。でも、それが生前のことなら外を見た方がいいと思います。そしてただ見るだけでなく、何を見たいかを思ってね」


その言葉には不思議と説得力があるように感じた。

いや、ただその言葉に縋りたかっただけかもしれない。

言葉に導かれるかのように窓に顔を向ける。

それでも瞳に映るものは雪野原。

しかし、男は見続ける。

それと同時に、かけがえのないあの言葉を心に浮かべる。


「ずっと、ずっと、待っているから。あの場所でまた――」


集中する。

相も変わらず記憶はおぼろげだ。

やはり触れようとしても男から遠ざかるか、触れた途端に霧散してしまう。

だが、あきらめない。

希望を捨てずに記憶の欠片を必死に追う。ただただ手を伸ばす。


(あの言葉の意味を、そしてあの人に会いたい。だから俺は――)


霧の中に一つの記憶を見つけた。

それもやはり他の記憶たちのように霞がかかっている。

だが、それは他の記憶たちより明るく輝いている。


(これが、君との記憶なのか)


ゆっくりと手を伸ばす。

記憶の欠片は消えもせず、逃げもしない。

じっと男を見つめているようだった。

指先が記憶に触れる。

その瞬間、目の前が鮮明になり男を現実に引き戻す。


突然、外の景色が変わった。

純白の雪と漆黒の空が吹き飛ばされるようにはがれていく。

そして、新たな色が塗られていく。

大地は緑に塗り替わり、色とりどりの花が咲いた。

漆黒の夜空から雲一つない蒼穹が広がった。

最後には野原の中央に巨大な大樹が姿を現した。


思い出した。

生きていた時の記憶を。

大切なあの人の記憶を。


   ◇


少年はぜぇ、ぜぇと肩を揺らしながら歩いていた。

少年は短髪で 少し瘦せており、やや中性的な顔立ちをしている。

そしてその顔には大粒の汗が張りついている。


少年は今とある丘に向かって歩いている。

少年は最近この町へやってきた。

引っ越しの手伝いを終え、暇になったところ、父から遠くの丘に大樹があるということを聞き、せっかくなのでそこに向かうことにした。


だが、少年は早速後悔をしていた。

季節は夏。

ただでさえ貧弱なのに、舗装されていない道と照り付ける日差しが体力を奪う。


(あぁ、町はずれに行くんじゃなかった)


何度もそう思ったのだが、負けず嫌いな性分のため、途中であきらめることはなかった。


やっと丘が見えてくる。

同時に大樹の頭も見えてきた。


少年は疲れは忘れ歩みを進める。

大樹の全容が見え、少年は息を飲む。

こんな大きな木を少年は見たことがない。まるで木というより小さな塔といった感じである。


「すごい……」


月並みだがそんな言葉しか出たこなかった。

いや、そんな言葉しか出てこないほど感激した。

そこには見たことがない景色が広がっていた。

大樹が中心にある野原には色とりどりの花が咲いており、周りには蝶々が舞っている。

壮観だった。


風が一つ吹いた。

興奮した体が少し冷やされ、少年の意識を引き戻す。

どっと疲れが出てくる。


体力の限界だ。

木の根元に倒れ込み、水筒の水を一気に飲んで休憩をとる。


上がっていた息も整い始める。

改めて周りを見るとこの場所は本当にいいところだと少年は思う。

この風景は一種の理想郷といってもいいかもしれない。


(体力をつけがてらにここに通うのも、悪くないかもな)


そう思うのもつかの間、眠気が訪れる。


(すぐに帰るのももったいないし、ひと眠りして帰るか)


少年は方針を決め、目を閉じて眠りに就こうとする。

その瞬間。

 

「あーっ、お前、ここは私の場所なのに、なに寝てんだ!」


突然の大きな声。

少年は驚き、すぐに身を起こす。



声の主は少年の目の前にいた。

いきなりなんだと文句を言おうとして相手の顔を見た瞬間、少年は固まってしまった。

 

(きれいだ……)


ありきたりだが、そうと言う他がないほどの美少女が目の前に立っていた。

年齢は少年と同じくらい。

身長は小柄で、少年の胸に頭のてっぺんが届くかどうかといったところ。

髪は漆黒で、背中まで伸びている。

目は透き通っており、瞳の中に自分の姿が見えそうなほどだ。

しかし、その少女の目には闘志の炎が燃えていた。


淑女であれ。


今の世間でよく言われる言葉だ。

しかし、目の前にいる少女はそんなものとは無縁であるかのような立ち居振る舞いだ。

少年があっけにとられていると少女はずかずかと少年の方へ歩いてくる。

そして、そのまま少年の横に寝そべった。その距離は少しでも動けば肩が触れるほどの近さだ。


「ちょっ、いきなり何を」


少女の行為に少年が言葉を失っていると、少女はめんどくさそうに口を開く。


「うるさいなー。ここは私の場所だっていっただろ。嫌ならお前がどっかに行けよ」


カチンときた。

初対面の相手にお前呼ばわり。さらに先に人がいた場所のすぐそばに強引に寝そべり、嫌なら自分がどっかへ行けと言う。


絶対にどいてやらん。


少年はそう決心した。相手が根を上げるまで絶対にどかないと。

そして、少年は少女と反対の方向を向いて妨げられた眠りに再び就こうとした。


……駄目だ。全然寝付けない。


それに比べ隣の少女はそんな少年の気も知らずに黙々と本を読んでいる。

 

少年は寝ることをあきらめた。

しかし、このままここを退くことは負けた気がするので空を眺めることにした。

顔を上げるとそこには雲一つない青々とした空が広がっていた。

美しい空だった。

陽の光は葉によって程よく遮られ心地よい暖かさがあり、たまに吹く小風に、草木の香りが乗っている。

飽きが来ることはなかった。


「お前、ここに来るのは初めてか?」


顔を本に向けたままぶっきらぼうに少女は言う。

意外だった。少女の方から話しかけてくるとは。


「ああ……、最近ここに引っ越してきた。」


「そうか……」


また静寂な時間に戻る。

結局、この会話以降少年と少女は話すことなく、場所も移ることはなっかた。


太陽が赤く沈みかけてきた。

そろそろ夕食の時間である。

少年は帰るために、腰を上げ服についた草を払い落す。


「帰るのか?」


少女がぶっきらぼうな口調で聞いてくる。しかし、最初より少し落ち着いた声だった。


「ああ、もう日が暮れてきたからな」


「また……ここに来るのか?」


「そうだな。暇になったら来るかもな。……君が来てほしくないならもう来ないが」


「いや……、来てもいい」


少女は本で顔を隠し少しきまりが悪そうに言った。

意外だった。てっきりもう来るなと一蹴すると思ったのに。

少年は魔が差した、というよりは少し少女をからかいたくなった。


「そうだな。今日みたいに無理に場所を取ろうとするなら来ないかな」


「わ、悪かったよ」


男勝りな性格の彼女も初対面の相手に対し怒鳴ったことは多少気にしていたようだった。


少年はにやけた顔を向け少女に言う。

 

「はは、冗談だよ」


「あっ、てめぇ!」


からかわれていたことに気が付いた少女は頬を膨らませる。

そのしぐさは性格とは正反対に小動物みたいで可愛らしいものだった。

最初に出会った時の印象とは大違いである。


「じゃあね」


少年は帰路につく。


「ここは早い者勝ちだかんなー」


後ろから少女の負け惜しみのような声が聞こえた。

少年はわかったよ、という返事の代わりに右手をひらひらと振る。


この日から少年と口が悪く男勝りな少女の交流が始まった。


   ◇


男は港に立っていた。隣には彼女が寄り添うように立っている。

近くには大型船があり、多くの人がいた。

ある者は家族と抱き合い、ある者は泣く我が子供をなだめている。


これから男は戦争に行く。

それは、2度とこの地に踏むことができないかもしれないということだ。


男と彼女が出会い10年が過ぎた。

男と彼女は結婚していた。

はじめは大樹の下で会うたびに喧嘩をしていた。

どっちが先に来ただの、寝息がうるさいだの、つまらない理由ばかりだった。

それが日常となり、気が付けば互いに好きになっていた。


「なぁ」


彼女が服の袖をつかむ。


「帰ってくるよな」


不安げな顔。いつもの彼女にはあまり見られない表情だった。

彼女も感じ取っているのだろう。向かう先がどんな激戦地なのかを。

男は彼女の頭に手をのせ、くしゃくしゃと撫でながら笑う。


「心配するな。絶対に戻ってくるから。だから、帰ってきたらまたあの樹のところに行こう」


彼女は少し安心したのか、いつもの勝気な笑顔を見せた。


「おう。楽しみにしてる。帰ってきたらどんな活躍したのか聞かせてくれ」


ボーと汽笛の音が聞こえてきた。

時間だ。もう行かなくてはならない。


「ちょっと待て」


「ん?」


彼女の方を振り向く。そこには突き出された拳があった。


「ほら!」


催促するように拳を動かす。


「あぁ」


何がしたいのかを理解し、男も拳を突き出し、互いに拳を軽く当てる。

相変わらず女らしくない。

だが、彼女らしい。


「じゃあ、またね」


そう言って男は歩き出す。

後ろから彼女の声が聞こえた。

 

「ずっと、ずっと、待っているから。あの場所でまた――」


これが俺の最後に聞いた彼女の言葉だった。


   ◇


嗚咽が漏れる。

約束を守れなかった。彼女を独りにしてしまった。

悔恨の念で胸で胸が張り裂けそうになる。


 

「おじいさん」


自然と言葉が漏れ出た。

彼に話してもどうしようもないと分かっている。

それでも話さずにはいられなかった。


「なんですかな」


優しい声だった。


「俺は、俺は……」


全てを話した。彼女のこと、約束のこと、それが守れなかったこと。


沈黙が訪れる。


「奥様は、ずっと待つと言ったのですよね」


老人はゆっくりした口調で言う。


「それなら、後はわかるでしょう。行ってあげなさい」


「でも……」


「世界は繋がっている。過去に、未来に。前の世界のことは忘れてしまうかもしれないが、それでも彼女があなたを信じ、あなたが彼女を信じていればまた会えるでしょう」


「俺に、できるでしょうか」


「できますよ。あなたと一緒にいた時間は少しでしたが、私はそれができると思っていますよ」 


つっかえていた何かが取れたような気がした。

そうだ。まだ諦めるわけにはいかない。彼女が待っていると言っている限り会いにいかなければならない。

自分を奮い立たせる。


「その…、ありがとうございました」


老人に頭を下げる。


「いやいや、私は何もしてませんよ。ただ、君の助けになれたのならなによりだ」


そう言って老人はまた窓の方に顔を戻す。

老人の目には何が映っているのだろうか。

まだ故郷が映っているのか、それとも他の思い出の地が映っているのか。


汽笛が鳴った。

列車が速度を落とし始める。


周囲の幾人が下りる準備を始めた。

老人も椅子から腰をあげる。


「さて、私が降りるときが来たようだ」


「あの……」


「君はまだ、降りるべきじゃない。なに、そのときが来たらわかりますよ」

 

男はただ礼を言いたかった。

だが言葉が出なかった。言いたいことがたくさんあった。

 

「その…、ありがとうございます」


大きく頭を下げる。

結局こんな言葉しか口に出せなかった。

老人はそんな男を見て肩を震わせるように笑った。


「別に私はなにもしてないですよ。これからは君次第だ。頑張ってください」

 

老人は歩き出す。

列車の出入り口を超えたとき老人は振り向き帽子をとった。


「では、ご縁があったらまたどこかでお会いしましょう」


扉が閉まり、老人は歩きだす。その後ろ姿はすぐに見えなくなってしまった。


もう一度汽笛が鳴り、列車は緩やかに走り出す。


外の景色を見る。

そこにはまだ大樹があった。

男は食い入るように見つめた。

もう2度とこの景色を忘れない。そしてもう一度彼女に会って約束を果たす。

そう決意する。


列車は進む。

時間をかけて。

死者を運び次の世に送る。


降りる時が近づいてきたようだ。

もうすぐこの景色と別れることとなる。

だが、不安はない。

この風景は心に刻んだ。もう忘れない。


汽笛が鳴る。


さぁ、彼女に会いに行こう。


   ◇


4月の春。

雲一つない空。冬の名残か少し肌寒いが、仄かな日差しが冷えた肌を温めてくれる。

僕はぶらぶらと散歩をしていた。だが、ただほっつき歩いている訳ではない。

これから住む街の探索も兼ねている。

ここに来たのは5日程前。親が転勤したためだ。

長いこと暮らしていた街や友達と離れることは寂しかったが、それでも新しい場所へ行くことは心が高揚した。


そして、今、僕はとある大樹の下へ足を運んでいる。

この大樹には、語り継がれている伝説がある。


それは、大樹が人を護る、という伝説だ。


戦時中、ある女性が大樹の元に祈りに行った。

それは毎週続いたが、ほどなくしてはやり病にかかってしまった。徐々に体が不自由になったが、それでも彼女は大樹の元に通い、祈り続けた。周りが無理をしないよう注意しても聞かなかった。


程なくして彼女の夫が向かった戦地の部隊がほぼ壊滅したとの情報が来た。

帰還は絶望的。

それでも彼女は祈りを辞めなかった。


「頼む。あの人が帰ってくるまでいさせて。ここで待つって約束したから」と

 

亡くなる間際、彼女は友人に自分を大樹のもとに埋葬してほしいと依頼した。

そして遺言通り、その彼女は大樹の下に埋葬され、その大樹は祈りの樹と呼ばれるようになった。


それでも最初は、彼女を知る人しかそう呼んでなかったらしい。


名前が広がったのは彼女が埋葬された数年後。

町に空襲があった。町は瓦礫となり、森も林も焼けた。

しかし、大樹は業火を寄せ付けず無傷だったという。


それだけではない。死者がかなり少なかったのだ。

死者が出なかった訳ではないが、同規模の空襲と比べると各段に少なかったのである。

単なる偶然だろうが、当時の人達は祈りを捧げた彼女に大樹が応えてくれたと考えた。


いや、そうであってほしいと思ったからだろう。

それから、祈りの樹という名前がこの町に広がった。


しかし、それから70年以上経った今ではそれも忘れ去られつつある。

知る人ぞ知る。そんな感じの小さな伝説となっており、今ではほとんど人が来ることはないという。

 

時折心に浮かぶ風景。

丘に草花が生い茂り、巨大な大樹が力強く立っている。そんな風景。

生まれて今までそんな場所に行ったことはなかった。

それなのにとても懐かしい感じがした。

そこに行ってみたいと思った。

もちろんそれが今から行く場所であるものとは思ってない。

似たものは世界中でいくつもあるだろう。 

だが、確かめずにはいられなかった。

 

町を出てひたすら歩く。

出歩くのはいろいろな発見ができて楽しかった。

じゃれあっている野良ネコたち。見たことない草花。澄んだ空気。

全てが新鮮なものに見えた。都会では見られないものばかりだ。

 

小さな森を抜け、丘が見えてきた。そして大樹の枝葉も見えた。

息が上がっているのも忘れて走り出す。

大樹の元着いた時、目にしたのはあの記憶の風景だった。


「……あった」


不思議な力が自分の周りに働いているような気がした。

本当にここにあったとは。

幹に触れてみる。ひんやりとした感覚が伝わってきた。

根は大地を踏みしめ、枝は太陽に向かって伸びている。 


この大樹こそ、この景色こそ僕が求めていた場所だ。


根元に丁度よいスペースがあったので、そこで仰向けに寝そべる。

初めて来たのに、何度も行き慣れたようななつかしさを感じた。


そうだ。次は本を持ってこよう。草木の香りに囲まれての読書はとても楽しいだろう。


眠気が襲ってきた。長く歩いたせいで疲れたのだろう。

ここで一眠りしようと眼を閉じようとする。

 

そのとき、誰かが近づく音がした。


「ん、何だ、先客か?」


少女の声がした。

驚き思わず飛び起きてしまった。


「おわっ」


少女は驚いたのか、後ずさりその勢いで尻もちをついてしまった。

 

「あっ、ごめ――」


起こすために手をとろうとしたが、その手が途中で止まった。

目を奪われたからだ。

小柄な体躯に、背の中程まで伸ばした漆黒の髪と釣り目気味の目。

美しかった。

いや、それだけでない。なにか特別な思いが駆け巡った。

思わず少女の顔を見つめてしまう。

彼女の方も僕の顔を見て固まっていた。


「お前……、どこかで会ったか?」


少女も困惑しているようだった。


「いや、ないと思うけど……」


この少女に会った記憶はない。

それでも、どこかで会っていたような気がする。


「……」


2人の間に微妙な空気が流れる。


「ごめん。寝ていたところに」


空気に耐えかねたのか少女が話しだした。


「いや、丁度寝ようかと思っていたところだから大丈夫」


「そうか。その……、隣いいか?」


「えっ」


僕は驚いた。

確かに根元のスペースはそれなりに広く、2人は座れそうだ。

しかし、少しでも動いたら、肩がぶつかるかもしれないくらいの広さだった。

少女の顔が突然赤くなる。


「あっ、いやっ、違うぞ!そこはわたしのお気に入りの場所だからその……」


変な意味に言葉を取られたのかと思ったのか、少女は慌てて手を振りながら否定する。

 

「別にいいけど。どこうか?」


「いいよ。お前が先に来てたんだから。」


そう言いながら、少女は俺のすぐ隣に座った。

すぐに持っていたカバンから本を取り出す。


「本、好きなんだ」


なんとなく話しかける。


「ああ、ここで本を読むのが好きなんだ。」


少女はそのまま本を開き読み始めた。

それ以上話しかけるのは悪いと思い、寝転がりながら景色を楽しむことにした。

うん。とてもいい。空気は澄んでるし、草花の香りもいい。もう少し暖かくなったら最高だな。

そう思いながら目を閉じる。


「なぁ、起きてるか?」


少し時間が経った頃に少女が話しかけてきた。


 

「ん……。起きてるよ」


片目を開けてそう反応した。


「お前、ここに来るのは初めてか?」


「ああ。と言うかこの町に来たのもつい最近だ」


「そうか。でこの場所、来てみてどうだった?」


「いい場所だと思うよ。次来るときは君みたいに本をもって来ようかな」


「本当か!」


少女は突然大声をあげた。

そんなにこの場所がいいと言われたのがうれしかったのだろうか。


「ああ。ここは空気が綺麗で、日陰もばっちりだし、草花もきれいだ。昼寝もしやすいし、……本を読むのにもよさそうだ」


 

すこし気圧されながら答える。


「だろー。ここは読書をする絶好の場所だ」

 

少女は得意げにそう言う。


「それに、ここにいると懐かしい気持ちがするんだ。まるで誰かとずっとここにいたような」


あっと彼女はなにか思い出したかのような顔をした。


「そうだ。お前、名前は?」


「名前?南、南悠だよ。」


少女は日だまりのような笑顔を浮かべた。


「よしっ。じゃあ、これから悠って呼ぶからな!」


読書仲間が増えたのがよほどうれしかったのか、少女は肩を叩きながら笑った。

その笑顔はとても懐かしかった。

まるで、前世から会っていたかのように。


「君の名前は?」


「私か?私の名前は――」






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君とまたいつかどこかで ささくれ @homhom777

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