左手のための握手
「……学校の、教科書の、箱」
「あぁ、それなら……あの辺りですね。教科書って、なんだかんだ愛着がわいて簡単に捨てられませんよね」
普段の物置部屋とは様相が一変しているにも関わらず、叔父さんは迷いなく僕が本を入れた場所へと歩みを進める。
「……うん、ちゃんとナイフもありますね。こんなものが出てきて、ビックリしたでしょ? 怪我、しませんでしたか?」
「うん……」
「私が言うのもなんですけど、今後の人生、切羽詰まったとしてもあまり窃盗はしないほうがいいですよ。これは私のほうから、
これから死ぬつもりのひとが、どうやって返すのだろう。
「じゃあ……そろそろ頃合いですので」
長い時間をかけて
叔父さんがナイフを手にすると、錆びてあちこち欠けていたはずの刃先が見違えるように鋭く輝いた。
「この部屋で、元通りになるのはこの世のものだけです。どうやら私も、めでたく人間ではなくなったようですね」
右手にナイフを構えた叔父さんは、懐かしむように眼を細めてソレをじっくり眺めたあと、浅く深呼吸をして僕を見る。
「さよなら、えっちゃん」
残された左の手のひら
「……ッ!?」
僕の左手は、標的になっていた叔父さんの手のひらを掴んでいた。
叔父さんの左手には指がないから、一方的に僕がきつく握るだけの、握手とも呼べないような歪なものだけれど。
反射的に手を引っ込めて拒絶しようとする叔父さんを引き留める。
予想外の力強さに、
「……なんですか? 離してください」
「いやだ」
「あぶないですから……。私はえっちゃんのこと、もう、これ以上、傷つけたくないんです」
「………」
握られた自分の左手と、振り上げたナイフを持つ右手の間で、何度も視線を往復させる。
絶望的に他者より指の足りない左手では、きっと誰とも握手を交わすことなどなかったのだろう。
見に覚えのない感覚に困惑していることが、微かな震えと共に伝わる。
「えっちゃん……?」
「お化け屋敷の入り口で怯えているような子供を、無理矢理引っ張って連れてはいけないんでしょ?」
「それ、は……」
「叔父さんが、自分で言ったことだよ。こんなに震えているくせに……もう、やめて、よ……」
もうずっと痛いから、身体が軋むことなんて気にならない。
今はただ、叔父さんが負の方向へひた走っていることが、とにかくかなしい。
そうさせてしまった状況も、運命も、そして僕の存在も。
「やめてください、えっちゃんが泣いたら……私まで、つられて、しまい、そう、で……」
「大事な人が辛い思いをしたら、自分もかなしくなるんだ!! そんなこともわからないの!?」
子供みたいに、両の目から熱い水滴が溢れて止まらない。
自分の涙で、頬を火傷してしまいそうだ。
「……わから、な……」
「嘘だ! たしかに叔父さんはうそつきだけど、ちょっと変わってるけど……でも、僕の気持ちが分からないほど、常軌を逸してるわけじゃないでしょ!?」
「わ、私は……」
叔父さんの睫毛が濡れている。
くっきり二重の右目も、腫れぼったい左目も、瞬きするたび同じようにどんどん潤んでいくのが分かる。
「ねぇ、叔父さん……。いや、倫他……」
叔父さんのことを倫他と呼ぶのは、父さんともうひとり……僕の中のワイラハイラだけだ。
「僕を、僕たちを……ゆるしてほしい」
それは同時に、叔父さんが自分をゆるすことに繋がると思うから。
「……うまれて、ごめんなさい」
父さんも叔父さんも、一度だって僕の生に
だから、生まれたことを謝罪する
でも、言わずにはいられなかった。
なぜなら、叔父さんの真の苦しみや葛藤は……十九年前、ここではじまったことだから。
「え、っちゃん……」
限界ギリギリまで
涙が床に落ちた音を合図に、部屋の中に所狭しと積み上げれた本のいくつかが見慣れた段ボールへと変化する。
その様子を目の当たりにした叔父さんは、ハッとなにかに気づいたように僕の手を振り払った。
服の袖で、乱暴に目元を擦る。
「……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……でも、でも……ぼくを、泣かせないで下さい、こ、この場所は……ぼくがおだやかでいないと、れいせいでいないと、た、たもてないから……ないちゃ、だめだから……だから、だから……」
長年、
次々に意味を成さない段ボールに姿を変えていく本の山。
僕は繰り返される凶行を阻もうと足を踏み出すけれど、もう限界なのか手足の自由が
その場で無様に姿勢を崩した僕を見て、叔父さんは泣きながら笑った。
ちいさく、枯れた唇が動く。
でも、その声は僕には届かなかった。
「お……、叔父さんっ!」
もう一度言ってほしくて、叔父さんを呼ぶ。
だけど叔父さんは耳を貸さず、残された左手首から先の、手のひらを切り落とした。
「……ッあ、ああああぁ!!」
僕がさっきまで握っていた左手のひらは、ゴトンと鈍い音を立てて落ちる。
手首からは鮮血が吹き出して、叔父さんの顔や僕の服を赤く染めた。
辺り一面に、鉄臭い血の臭いが充満する。
あんな小さなナイフで手が切れるものか、と思っていたのに、あっさりと役目を果たしたソレは、今度は叔父さんの心臓へと向かった。
「……死にぞこなったら、殺して下さい」
それからまた、僕には聞き取れない声で何かを囁く。
片手で器用に狙いを定めた叔父さんは、出血多量で左右によろめきながら、痩せた胸に鋭い切っ先を突き立てようとする。
嗅覚と視覚を血と惨劇に支配されてしまった僕は、そこから一歩も動けずにただ見ていることしかできなかった。
「……死にたくないなら、死ななければいい」
叔父さんの背後には、ひょろりと背の高い父さんが自分の二本の足でしっかりと直立している。
鴨居に頭をぶつけないよう身を屈めつつも、その両手は叔父さんが持っているナイフの刃先を、しっかりと握って止めていた。
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