畏ラ拝ラにうってつけの夜
「……ハァ、ハァッ……、げほ、ごほっごほ……」
「ああ、かわいそうに。そんなに息を切らして、疲れたでしょう?」
「そりゃ……、一キロも、いじわるな鬼ごっこ……したら、ね」
自宅の玄関に手が触れたとき、叔父さんとの距離は一メートルもなかった。
決して距離を詰めないから、ただいたずらに痛む身体を引きずって帰る結果に終わる。
あれから何度も転んで、服はもう全身ドロドロだ。
かなり不格好に走ってきたのに、道中誰にも合わなかったことを不気味に思う。
いくら田舎とはいえ、夕暮れ時といえばみんな帰路を急ぐ時間帯だ。
それなのに、無音のまま刻一刻と太陽だけがゆっくりと閉じていく。
いつもなら煌々と灯されているご近所さんの明かりも、暗く沈黙したまま動かない。
「周りのことは、気にしなくてもいいですよ。えっちゃんの認知がおかしくなってるだけで、みんな、それぞれちゃんと無責任に各々の日常を謳歌していますから」
「……は?」
「えっちゃんの家の二階が、私の介入であの日の現場に戻ってしまったのは見ての通りです。私が長年、平静を保ち続けて安穏と非日常をこなしていたせいで、今、私は異界と繋がりやすくなっています。乗り換えるには、うってつけの日ですね」
「な、なにそれ……」
「信じてもらえないかもしれませんね。しかしこれはどこにも漏れていない、本物の秘術です。平常心を保ちつつ、非日常に手を染める。それが一番、世界の道理を外れるやりかたなんです。私の場合、非日常とは当人剥を処理したり迫害を身に受けることでした。冷えた臓器を掴み上げたり、切断された身体を笑顔で回収したり……血腥い時間を過ごしました。そして日常とは、えっちゃんと過ごす満ち足りた日々でした。だけどそれも今……自分の手で、壊してしまうんですけどね。その落差が、異界を引き寄せたのです」
「こ、壊さなくても……いいんじゃ、ない?」
「あはは、それは無理ですよ。人は、己が積み上げたものの責任をとらないと、いけない、いきものですから……」
「そんな責任、とってない人もいっぱいいる! 叔父さんだけが、全部背負わなくても……!」
「他人がゆるされているから、自分もゆるされるとは限らないのです。ましてや、私はみなさんより一段劣った存在ですから。えっちゃんの言うとおり、私は……やっぱり、えっちゃんがワイラハイラであるという状況が、どうしてもゆるせないのだと思います」
僕に向けて再び歩き出した叔父さんからはいつもの柔らかさが全く感じられなくて、僕は反射的に扉を開けて中に入り、すぐに閉める。
無理矢理正面突破されるかと思ったけれど、叔父さんは丁寧にノックを繰り返す。
「ねえ、私を招き入れてくれませんか?」
「……えっ?」
「長年の蒐集作業で、どうも……ワイラハイラ以外の存在も多少混ざってしまったようです。えっちゃんが招き入れてくれないと、私はもう、他人の家に入ることができないのです。鍵でも盗んでいれば、別なんですけど」
「………」
「えっちゃん。えっちゃんは私の……味方、ですよね? 私も、えっちゃんの味方ですよ?」
——あけるな——
また勝手に喋られた。
僕は自由の利く左手で慌てて口を塞ぐ。
あ、あけるなと言われても……。じゃあ、どうすれば現状を打破できるのか教えてほしい。
——まだ、まて——
待つ?
待つだけで、状況が好転するのだろうか。
僕が死ぬか、叔父さんが死ぬかの二択しか、この問題は解決しないような気がする。
「……あんまり、人外の存在と話をしない方がいいですよ。頭が狂って、私みたいになってしまいますから」
「……ッ!」
叔父さんの自虐的な口振りに、僕は我慢できず扉を開けてしまった。
「叔父さんは……っ! 叔父さんは、狂ってなんかいない!」
「はい、ありがとうございます」
気の早い月明かりに照らされた叔父さんの足下には……影が、なかった。
「……へっ?」
いつから、なかったのだろう?
どうして、ないのだろう?
一瞬、そんな余計な思考が頭を過ぎる。
その隙に、ヒョイと右腕一本で脇腹を持ち上げられてまるで犬のように抱き抱えられてしまった。
「はい、つかまえた」
「えっ!? ちょっ、ちょっと、下ろして!」
「うーん。えっちゃんも、なかなか重くなりましたね」
僕より背は高いけれど、筋力は同じぐらいだと思っていた叔父さんの意外な力強さに驚く。そして、同時に不安にも襲われる。雑な持ち方とは裏腹に、不自然なほど安定していたから。人間の力では……ないようだ、なんて、思う。
「大丈夫ですよ、すぐに済みますから」
「す、すぐに済むって……」
「ちょっと、私が死ぬところを見ていてほしいだけです」
「絶対に嫌なんだけど!?」
「ありがとうございます」
叔父さんは地に足がついていないような不思議な足取りで、二階へと続く階段を上った。
「……うっ」
「あぁ、ここは本当に……くさい、ですね」
思わず鼻を摘みたくなるような悪臭が、家中に立ちこめている。
「でも、なつかしいですよね。19年前、ここでえっちゃんは私に殺されて、そして、勝手に化け物と共生することになったんですよ」
「……もう、バケモノと呼んで
「もうすぐ自分の一部になるモノに、敬意なんていらないでしょう?」
悪臭に意識が遠のきかけた隙をついて、また見知った声が見知らぬ言葉を発した。
血が出そうなほど唇を噛みしめているのに、それは止まらない。
「……また、身体を奪うくせに」
「この世の醜さ、特等席で散々見ましたよね。それでもまだ、肉体に固執するんですか。余程の酔狂モノですよ、アナタは」
自宅二階奥という見慣れた場所が、今やおどろおどろしい異界への入り口に思える。
いや、実際にそうなのだろう。
「いたっ」
唐突に床に落とされた僕は、部屋中に積み上げられた本の山を見て絶句する。
これ……全部、だれかの、なにかの……身体の、一部……、なんだ。
「乱暴にすいません。本当は気を失っていてもらいたいんですけど」
叔父さんの胸中には、筆舌に尽くしがたい感情が渦巻いているであろうことは察するに余りある。
それでもこの異界を保ち続けるために、ごく自然に、食卓でのワンシーンのように僕に問いかける。
「えっちゃん、あの本、どこにありますか?」
もう叔父さんは、僕に視線を合わせて膝を折ったりなんてしない。
僕を上から見下ろしながら、左右非対称に微笑む叔父さんの指のない左手は……。
……微かに、震えていた。
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