当人剥【トウニンハギ】
いきなり強い力で両肩を押されて、僕はたまらず尻餅をつく。
思わず叫んでしまいそうな衝撃だったけれど、声は出ず、顔を上げた先に立っていたのは僕だった。
阿呆面で口を開けた僕を一瞥して、ソレは叔父さんに向き直った。
「うそ、つき」
僕の姿で、そして僕の声で喋るソレを、僕はなかなか許容することが出来ない。
無為に瞬きを繰り返している間に、ソレと叔父さんの会話は続いていく。
「……そうですね、この指は、フェイクです。私の物ではありません。先日手に入れた、百葉県における児童虐待事件の一品です。『わらゆび』の一つとして、お納め下さい」
「たにん、を、唆すの、が……うまくなった」
「おかげさまで。再びアナタと遭うために、19年も費やしてしまいましたが」
「前は100年、待ったのだから……はやい」
「
「おなじ、だ」
変な場所でブツブツと切れていたソレの言葉が、会話を重ねるごとになめらかになっていく。
「アナタのために、私はなんでもやりますから。だから……」
久方ぶりの左手の感触を確かめるように、叔父さんは何度も左の指を開いたり閉じたりを繰り返している。
僕の形をしたソレと目を合わせないように、自分の左手に集中しているようだ。
でも、しっかりと全指を握り込んでからは……射抜くように睨みつけて言う。
「……だから、もう。えっちゃんから、出て行ってくれませんか?」
「まだ、足りない」
「最後の仕上げは、もうじき準備できますので」
「信じられない。ここに、いたほうが……良い」
「双子の実姉との近親相姦の子なんて、アナタにうってつけでしょう? 絶対、愛しませんから。愛せませんから」
叔父さんはソレと対等に話しているように見えて、さっきから大量の脂汗をかいている。僕は頭の上で交わされるとにかく不穏な会話を聞き漏らさないように必死だった。
「……この部屋に、免じて。あと一度だけ……リンタを信じる」
「ありがとうございます」
「だが、嘘は好かない」
ソレは叔父さんが差し出していた本の中の小さな指達をつまみ上げて床に投げ捨てた。
どこかの誰かの五本の左指は、床にぶつかった瞬間幻のように消え去ってしまう。
僕の位置からはソレの後頭部しか見えない。
散髪をした直後ぐらいにしかお目にかかれない、自分の後ろ頭をこんなに穴が開くほど観察する日が来るなんて思わなかった。
「左手は、リンタだけで良い。リンタから、はじまったことだ」
僕の顔をしたソレは、いったいどんな表情で叔父さんと話しているのだろう?
叔父さんの表情には影が落ちて、汗が滲んでいること以外はよくわからない。
「私も、この身を捧げるならばアナタが良いです」
「また、嘘をついた。……どこに、隠している?」
「時がくれば、必ず献上いたします」
「………」
ソレは叔父さんの言葉になんの反応も返さず、叔父さんもなにも言わなくなった。
随分長い間、二人の間に沈黙が降りる。いや、ほんの数秒だったのかもしれない。
ただ事の成り行きを見守っている僕にとっては、一瞬にも永遠にも思えるような時間だった。
「……あぁ、あぶない」
突然、僕の身体が糸が切れたように崩れ落ちる。
両手で受け止めた叔父さんは僕の身体をそっと床に寝かせると、尻餅をついている方の僕を見遣った。
「すいません、なにがなんだか……わからないですよね?」
額からしたたり落ちる汗を手の甲で拭いながら、叔父さんが問いかける。
「う、うん……」
ようやく自分の声が戻ってきたことに安堵した。
「ワイラハイラが望んだのは、
「とうにん、はぎ?」
「自分の意志で、自分の身体を切り離す行為です。当人による贄行為。それが当人剥。一番最初は、ハイラハイラの要求を村の人間全員で請け負いました。あるものは指、あるものは足、あるものは口……。喉、胸、首、髪、眼、鼻、腕……、もちろん、生命維持できなくなる者もいましたがワイラハイラにはそんなこと関係ありません。そして、個数も特に決まっていないのです。一人が自殺して全身を捧げても、満足することはありません。ワイラハイラが
「えっ? なんで?」
「身体の一部を要求するような神を、誰が信仰すると思いますか? しかも、ワイラハイラは実際に日胤村への差別を改変した事後報酬として、当人剥を求めてきたのです。拝む気持ちよりも畏れの感情の方が大きく上回った彼らが選択するのは、神の口封じです。これは古今東西よく聞く話ですよね」
「そんな、あるある話があるんだ……?」
「意外と。……そして、その手の話のオチは決まっています」
僕と、もうひとり倒れている僕と、そして叔父さんという奇妙な三人の構図もだんだん見慣れてきた。
叔父さんは倒れている方の僕の頬にソッと触れる。
「未来永劫呪われて、永遠に……神の願いを叶える駒になるのです」
「駒?」
「どうしようもない衝動に囚われて、日胤村の人々はしばしば自主的に当人剥を行うようになりました。そして村の中の被害を最小に抑えるために、ある一家に否穢多の名を押しつけて当人剥の管理を一任させます。全員を総称する団結のための呼び名が、蔑称に変わったのはこの時です。……それがまぁ、私たち小籠の一族なんですけど」
「そうなの!?」
「ビックリしました?」
「いや……そりゃ、驚いた、けど……、でも……」
今まで感じていた微かな違和感を繋ぎ合わせていけば、不思議と納得できるかもしれない。そりゃ、認めたくは……ないけれど。
「まあ、次第に当人剥の苛烈さは収まってきましたけどね。時々、誰かが錯乱して身体の一部を自傷します。それを、否穢多が回収、保存する。一定数たまれば、最後の仕上げをしてワイラハイラが受肉する。そして殺す。また当人剥がはじまる……。私が回収の際に使っているあの本は、ワイラハイラからの貸し出しなんです。あの中に入れておけば、確実に届くのだとか」
「じゃあ、この中にあるのは……全部」
部屋の中に所狭しと並べられている不気味な革の本の山。
あの中の全てに、誰かの身体の一部がおさまっているのかと思うと寒気がした。
入室した当初は逃げ出したいほどの悪臭を感じたのに、今はなにも臭わない。
「縁のない人には、ただの物置部屋に見えるでしょうけどね。……私たちは、お父さんの代が仕上げの年でした。そして、こんな因習なんて私たちで終わらせようとしたのです。ですが、少しだけ失敗して……」
意識のない僕に触れていた叔父さんが、突然右手を振り上げる。
「えっ!? なにしてるの!?」
「ちょっと今から、コッチのえっちゃんを一発ひっぱたきますね。こうしないと身体に戻れないので……ごめんなさい」
どうやらこれから殴られるらしい。
たしかにこのまま浮遊霊よろしく漂っているのも嫌なので、それは仕方ない。
「わ、わかったから! じゃあひとつだけ、僕の質問に答えて欲しいんだけど……」
「なんですか?」
「叔父さん……叔父さんは、なんで、こんな状況でも……いつも通りでいられるの?」
これは純粋な疑問だった。
難しい因習や制度や差別問題なんて、残念ながら今の僕には分からない。
だけど、叔父さんの生来の性質だと思っていた穏和さが、近頃どうにも作られたものであるように見えたから……しかも、無理をして平静であろうとしているように思えたから。
その理由が自分の幽体離脱より知りたくて、尋ねる。
「ええっ? そうですね……」
叔父さんは予想外の質問に目を丸くした後、振り上げた右手を下ろしてちょっと考えてから答えた。
「異界の扉を開くには、限りなく平凡な日々を積み重ねることが大事なんです。光と闇のコントラストが深いほど、より確かで深い真の異界が開かれます」
気がつくと、叔父さんの左手からはまた全指が消えている。
「だから、えっちゃん」
愛おしそうに寝ころぶ僕の髪を撫でながら言う。
客観的に見るには、なかなか気恥ずかしい光景だ。
「来る日のために、これからも私と、なんともない日常を、平凡に過ごしましょうね?」
「………」
見慣れた左右非対称の微笑み。
これは……叔父さんの、本心ではないのかもしれない。
ただ、目的を達成する手段としてだけの表情なのかもしれない。
「安心してください。私が必ず、えっちゃんをワイラハイラから引き剥がしてあげますから」
「………」
僕は叔父さんに対してなにも言えなかった。
今日まで培った優しい思い出もさることながら、たとえ僕にみせる顔が偽りだとしても……こんなにも泣きそうになりながら懺悔する姿なんて、はじめて見たから。
やっぱり僕はまだ、叔父さんを信じたい。
僕のことを、護ろうとしてくれる叔父さんを。
「……そのためなら、なんでもしますから」
僕を撫でていた叔父さんの右手は、結局僕の頬を抓ることで落ち着いたらしい。
頬への激痛と共に、僕の意識は途絶える。
……でも次に目が覚めたとき、僕は、いつも通り叔父さんに接することができるだろうか?
僕の疑問は、夜より暗い暗闇に融解されてやがて、消えた。
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